第34話 一つの忠告
サヴェスの自室に着いたようで、彼は器用に扉を開けるとまっすぐに寝台に向かった。
そして、ゆっくりとシィリンを降ろす。
ぎしりと生々しい音を立てて、寝台が軋みをあげた。
「旦那様……?」
「名前で呼んではくれないのか」
「……サヴェス、様?」
七つも年下の妻から名前など呼ばれたいものなのだろうか。
シィリンは躊躇ったが、サヴェスからの望みでもあるので、従った。
すると、覆い被さってくるサヴェスが穏やかに笑った。
「結構クるものがあるな」
美しく整った容貌を見上げる形で、シィリンは気の抜けた声を上げる。
「ふわ」
「なんだ……?」
この状況で笑顔を見せるのは反則じゃないか?
シィリンの心臓を止めにかかってきているのかもしれない。
不思議そうに首を傾げる仕草に殺意すら覚える。
夜の静寂に、サヴェスの低い落ち着いた声が、甘く響く。こんな近くで言葉をかけられたら、どんな女だって腰砕けになるだろう。ましてや未経験のシィリンなどひとたまりもない。
サヴェスは自身の色気を自覚すべきだ!
ぐるぐると目を回してパニックを起こしかけているシィリンの額にサヴェスが一つ口づけた。
それは結婚式での口づけよりもずっと温度を感じられた。
びくりと全身を硬直させれば、サヴェスがシィリンの腰を優しく撫でて、太ももへと辿る。培った知識が行為を伝えてくるが、理性が激しく警鐘を鳴らしている。
夜会で気に入りの相手が見つからなければ、シィリンを抱くとサヴェスは言った。
そうして実際に自室に迎えに来て、今はサヴェスの寝台で寝かされている。
つまり、夜のお誘いだ。
頭ではわかっている。
シィリンは彼の妻で、彼にはその権利がある。
それが婚姻というものだ。
わかってはいるけれど、体も感情もまったく理性的ではなかった。
「だ、駄目、これ以上は駄目ですっ」
サヴェスの唇がシィリンのそれに重なる前に両手で押しとどめた。
涙ぐんでしまったのは、やはり恐怖からか。ゴシップ紙を読み漁っていても、一度も経験のないシィリンにとっては、怯えしかない。
自分自身に呆れながらもサヴェスの様子を窺えば、彼はどこか安堵したような顔をして、瞳を和らげた。
「わかった、これ以上はしない。ただし、君は今夜からここで寝るように」
「え?」
「あんな粗末な寝台で妻をいつまでも寝かせていられない。気兼ねはいらないから、ちゃんと私の隣で眠りなさい。ここは広いから君一人増えたところで問題もないだろう」
気兼ねなくなんて無理に決まっている。
確かに上質の寝台であることは感じているが、サヴェスが隣にいるのなら自室の粗末な寝台の方がはるかに眠りやすいと断言できた。
「サヴェス様……」
なんと言って断るべきか考えあぐねて、名前を紡げば、サヴェスが渋面を作って小さく呻いた。
「一つ忠告するが。こんな体勢の時にその気もないのに、寝台の上で男の名前を呼ぶことはお勧めしない」
「呼べと言ったのは、サヴェス様ではありませんか――んっ」
シィリンが訝しめば、なぜか獰猛に目を光らせたサヴェスが噛みつくように唇を奪った。
「……ん、ふあっ」
息をするために彼を押しのけて、大きく喘ぐ。
そんなシィリンを眺めて、サヴェスが深く息を吐いた。
「男が興奮して、こうして痛い目を見ることになる」
「だから、貴方が言ったんです!」
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華麗なる政略婚のススメ マルコフ。/久川航璃 @markoh
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