第31話 ゴシップ紙の中の夫

 頭のおかしくなるようなことは、時折シィリンの日常にやってくる。


 それは大抵予告なく、なんの前触れもなく訪れるので、シィリンはじっくりと静観することを心がけていた。

 時に父の部下たちが全裸で家を掃除していたことだったり、奇怪な植物が実家の屋敷を埋め尽くしたりしていたことだったが、今、目の前に起こっていることも同じカテゴリーに分類する。


 つまり、サヴェスがおかしくなった。


 早い時間に仕事から帰宅したばかりのサヴェスは、シィリンの部屋へとまっすぐにやってきた。

 夕食前に自室で読書をしながら、リッテと和やかにお茶をしていた時だった。彼はその様子を一瞥して、 これから着替えて夜会に行くのだという。

 

 それについては、別にシィリンに報告に来る必要はない。だからいってらっしゃいませと頭を下げるだけだ。やってきたサヴェスを出迎えたため、二人は扉近くで向いあって立っている。そのまま見送れば、もう彼の用事は終わったことだろう。


 シィリンの後方にはリッテが控えている。

 だがサヴェスはそちらを気にせずに、突然シィリンに近づくと彼女の細腰に腕を回して引き寄せた。

 その深い青緑色の瞳がきらりと光ったのがわかった。甚振れそうな玩具を見つけた子どものような悪戯めいた笑みを浮かべてもいる。


「今夜の夜会は侯爵家主催だ。平民の君を連れて行くわけにはいかないだろう」

「そ、そうですわね……?」


 シィリンは戸惑いながら、サヴェスの意図を計りかねていた。

 貴族らしいサヴェスではあるが、これまで平民を見下したかのような台詞を聞いたことはない。まるでゴシップ紙の記事に載るような物言いに、自然とシィリンの頬は赤くなった。

 そもそも誰かに抱き寄せられた記憶もない。初めての行いに戸惑いしかない。


 それを見たサヴェスが、満足そうに瞳を細めた。


「碌な相手がいなければ、戻ってきたときに君に相手をしてもらおうか」

「はい?」


 初夜の時に同衾しないと宣言したのはサヴェスだ。

 だが、彼の中で何かが変わったのだろうか。よくわからないが、シィリンを抱く気になったということか。


「もちろん君に拒否権はないだろう。私の妻は君なのだから」


 耳朶に熱い息がかかる。体がびくりと震えた。

 サヴェスにささやかれたのだと、視界いっぱいに映る美しい顔を見つめて驚愕した。

 心臓がざわめいて、落ち着かない。身の内からさざめくような疼きが沸き上がって、視線を彷徨わせた。


「よそ見をするなんて、そんな余裕があるのか?」


 シィリンの頬に手を添えて、視線を固定させられる。

 まるでゴシップ紙から抜け出てきたかのような色気を纏ったサヴェスが、シィリンを射貫く。彼の熱に炙られ、一方的に体温が上がった。

 状況がまったく理解できない。

 本当に何がどうなって、こんなサヴェスができあがってしまったのか。

 

「ちゃんと起きて待っていろよ」


 身じろぎすらできないシィリンを軽薄に笑って、サヴェスは両手を解くと出て行った。


「な、な、な、なにが起こったの――――っっっ!!!???」


 部屋に取り残されたシィリンの絶叫を聞きながら、後ろではリッテが「やりすぎ」とぼやいたのだった。

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