第29話 普通の妻
「がぁ……っ」
翻ったスカートがはためくのを視界の端に捉えながら、シィリンはなんとか薄目を開けていた。
男がうめき声をあげて、ぎっちりと首に回った腕が緩んだ。
その隙をついてシィリンは床に転がる。
顔を上げれば、リッテがシィリンを襲った男を抱え上げてバルコニーから下へと放り投げていた。見てはいないけれど、男に身軽なリッテが飛び蹴りでもくらわしたのだろうとは想像がついた。
悲痛な声を上げて男が落ちていく。
バルコニーは二階部分だ。死ぬことはないが、この高さから落とされたら骨折くらいはするだろう。
「リッテ……」
「大丈夫ですよ、下に待機してます」
誰がとは言われなくても父の部下たちだろうと予測がついた。今日の襲撃を予測していたのだろう。落ちてきた男の末路は考えない。父に恨みを持つ者は多い。けれど、いつまでも反抗心を抱くことはできない。父はそういう男だ。
スカートの裾を払ってリッテは床に転がったシィリンに手を貸した。
「無事ですか?」
「ええ、ありがとう。どこから来たの」
リッテはシィリン付きのメイドなので会場には入れない。忍び込んでいたにしても、格好は実家のメイド服のままだ。浮いてしまうので、会場の中にいなかったのは確実である。
リッテは顎をしゃくって、バルコニーを示す。
なるほど、木と壁を伝ってやってきたのだろう。相変わらず、運動神経がいい。
「何があった?」
男の叫び声を聞きつけてサヴェスがやってきた。
後ろにはフォーラもいて、キャロラに声をかけている。
「キャロラ……貴女、真っ青よ。どうしたの?」
「わ、私は大丈夫なのですが……」
「だから、関わらないほうがいいと言ったの。その女は他人を巻き込むのよ」
ひどく混乱しているキャロラに、リーリアは震える声で捨て台詞を吐いて、踵を返した。彼女の今日の役割を察して帰るのだろう。
「どういうことだ……?」
「すみません、家の事情にキャロラ様を巻き込んでしまいました。これで、わかったでしょう。私の傍にはいないほうがいいのよ。でも、話せて楽しかったわ」
困惑した声をあげたサヴェスを一旦はおいて、シィリンは震えるキャロラの両手を包み込むように握って、安心させるようにほほ笑んだ。すがるような視線を向けてくるキャロラに、これ以上言えることはない。
「シ、シィリン様……」
すぐにサヴェスに向き直って頭を下げる。
「旦那様、疲れたのでこのまま帰らせていただきますわ」
「そうか」
聞きたいことがあるだろうに、彼はシィリンに頷いただけだった。妻に拘りのない夫らしい姿だ。
リッテを促して去ろうとすると、ふわりと体が浮きあがった。
「きゃあっ」
「ヴィッテス殿、では失礼する」
シィリンを横抱きにして、サヴェスはきびきびと歩き出した。
「ちょ、旦那様っ」
「私が乗ってきた馬車がある。それで送ろう。家の馬車は父たちが使うだろうから」
「だとしても、歩けます!」
騒ぎを聞きつけて、遠巻きにしろ人が集まっている。
物凄い視線が集まる中、さらに集中させてどうする。
夜会で妻をお姫様抱っこするなど正気の沙汰ではない。
「お嫌いなゴシップ紙の餌食になりますわ」
「何もしていなくても好き勝手なことを書かれているんだろう。それに怪我をした妻を運んでいるだけだ。君が大人しくしていれば、それほど騒がれない」
そんなわけがあるか。
シィリンは真っ赤になりながら、リッテに助けを求めた。
だが、メイドは不貞腐れたような顔をしてそっぽ向く。助ける気など微塵もないらしいことだけは伝わった。
「君は、なんというか普通だな」
「はあ?」
平凡な容姿であることはわかっている。
だが、普通などと面と向かって言われたのは初めてだ。父が悪徳高利貸しなどをしていると、とくにシィリンの評価は普通からかけ離れていく。
サヴェスがしげしげと腕の中の妻を見下ろして、ほほ笑んだ。
「夫の腕の中で赤くなって、普通に可愛い」
「はああっ!??」
この状況で、赤くならない乙女がいるなら、ぜひとも連れてきてもらいたい。
そして、何より代わってほしい!
いますぐに!!
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