第4話 素敵な洗礼

「若奥様、おはようございます。お部屋に入ってもよろしいでしょうか」


 固すぎる寝台でしっかり熟睡したシィリンは、聞き慣れぬ声で目を覚ました。

 控えめなノックの音も聞こえたので、誰かが部屋を訪れているらしい。


「はい……どうぞ」


 寝ぼけ眼をこすってむくりと寝台から起き上がる。

 傍仕えのリッテはすでに扉近くで控えていたので、中から扉を開いたようだ。

 入ってきたのは年配のメイドだった。かくしゃくとしている様は、メイド長だろうか。

 碌に挨拶を受けていないので、シィリンには誰が誰やらわからない。


「失礼いたします。若旦那様はもう出かけられましたが、旦那様は今から朝食になります。一緒に召しあがられますか」

「はい……はい」

「支度を整えて、伺います」


 頷くだけの寝ぼけたシィリンの代わりに、リッテがしずじずと答えれば彼女は一礼して出て行った。

 迎えられたばかりの新妻が夫との初夜すら済ませていないのは明白だ。

 そのうえ、サヴェスは妻を置いて仕事に向かっている。実際、仕事なのか恋人のところなのかは知らないし、シィリンにはどうでもいいことだ。


 おかげで、使用人一同にも蔑まれている。軽んじても問題ない相手だと認識されているのを肌で感じる。そもそも嫁いだその日に案内された部屋は主人一家には相応しいものとは言えず、夕食も抜きである。主人の意向を使用人が理解するのは容易い。


 シィリンはぱちりと目を開けて、久しぶりの空気感にぞわぞわと身を震わせた。


「ふふ、この緊張感がたまらないわ。すっかり目も覚めちゃった」

「朝には泥水持ってきたメイドもいたぞ。それで顔を洗えってさ。俺に気が付いて逃げて行ったが、ほんとどうなってるんだ」


 ふうっとリッテは疲れたように息を吐いた。

 地味な嫌がらせだが、一日目の早朝から厄介だと言わんばかりだ。


「あら素敵な洗礼ね。わざわざ泥水を用意するほうが面倒だと思うのだけれど、ひと手間かけてもらったのなら感謝するべきじゃないかしら」

「嫌味にしか聞こえないから、お嬢は口を開くべきじゃないな。余計な怒りを買って、手間が増える」

「まあ、酷い。感謝を素直に伝えただけなのに。それより、着替えましょう。きっと朝食の席でも楽しませてくれるんでしょうから」

「では、お嬢様。こちらのドレスでいかがですか?」


 職務に真面目なリッテが、すぐさま朝食の席に相応しいドレスを選んでくれる。貴族の新妻らしい装いではあるが、それほど華美というわけでもない。そんなものをよく持ってきていたなと感心する。きっと手配したのは父だろうが、リッテの魂胆を思うと少し躊躇ってしまう。


「お父様から、何か話は聞いているの?」


 自分には言わなくても、リッテには何かしら指示を出しているのかもしれないと思案げに問えば、彼はいいえと首を横に振った。

 つまりシィリン自身が考えろということか、もしくは考えるまでもない単なる些末事ということだろう。

 父の思惑はわからないが、素直にリッテが用意したドレスに袖を通しながら、シィリンは背筋を伸ばす。


「ああ、召使いの格好が愛しいわ。ドレスは動きにくくて嫌いなのよ」

「だから、我儘言わないでください」


 鏡越しにリッテがあからさまにため息を吐いた。

 それを鏡面に映った少女が面白そうに見ている。シィリンは口角をさらに上げた。


「初めて食事へのお誘いよ。さあ、急いで向かいましょうか」

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