22.自覚
「ねえ、亮」
玄関に突っ立ったままでいた僕の肩を、朝陽が叩く。
「なんか焦げ臭くない?」
「あっ」
慌ててキッチンへ戻る。油も挽いていない空のフライパンを、火のついたコンロに載せたままだった。急いで火を消す。
「あっぶな。火事になっちゃうよ」
僕を追いかけてキッチンに入って来た朝陽が眉を顰める。見ると、フライパンに黒い焦げ目がついてしまっていた。
水を出し、冷やしながら焦げ目を洗い流す。
「ところでよかったの?」
「何が?」
顔を上げると、朝陽は玄関の方を指さした。
「碧生。出て行っちゃったけど」
「……ああ」
水を止める。少し、焦げ目が残ってしまった。
溶き卵の入ったボウルを手に取る。
「朝陽、オムレツ食べる?」
「うん」
再びフライパンを火にかける。油を挽き、軽く回す。
「卵の量、多くない?」
ボウルを覗き込んでから、朝陽は上目遣いで僕を見てきた。
「ねえ。もしかして俺、邪魔した?」
「何が」
温まったフライパンへ卵を流し入れる。箸で軽くかき回してから、形を整えていく。
「碧生とご飯食べようとしてたんじゃないの?」
「……」
皿を手に取ろうとして、先に温めておいた片手鍋が目に入る。
……牧野さん、ミネストローネ食べたかったかな。
僕が無理して誘ったから、断れなくてついて来てくれただけだろうか。
そしたら朝陽が来たから、急いで帰ってしまった?
それとも。
「亮、また焦げるよっ」
朝陽の焦った声で我に返る。
急いで皿に移したけれど、想定よりも香ばしい匂いがキッチンに漂い始めた。
「ごめん……作り直そうかな」
「ううん、大丈夫だよ。食べよう?」
勝手知ったる様子で食器棚からスープ用の器を出すと、朝陽はミネストローネを二人分よそってテーブルに置いてくれる。
昨日作っておいたサラダもテーブルに出し、朝陽と向かい合って席に着いた。
「いただきます」
「どうぞ」
好物のミネストローネをスプーンですくって口に入れるなり、おいし、と朝陽は顔を綻ばせた。
「碧生も一緒に食べれば良かったのにねえ」
サラダのトマトにフォークを刺しながら、朝陽が何気ない調子で名前を口にする。
「きっと忙しいんでしょう。歌詞も書かないといけないし」
声が硬くなった事に、自分でも気づいた。
「ねえ、亮」
朝陽の口調が真面目になる。
「一体、碧生と何してたの?」
問われ、少し間を開けてから答える。
「……デート」
「はっ?」
朝陽の手から、スプーンが落ちそうになった。
「ええ、何?君らいつの間に、そんな仲に」
「そういうのじゃない」
否定する声が、今度こそはっきりと強張った。
「……そうじゃなくて、ただ」
まるで言い訳を探すように、目が泳ぐ。
「歌詞を、書けないと言うから」
「碧生が?」
「そう。自分は恋愛経験が無いから、何も浮かばないって」
「それでデートしたの?」
「うん」
「へえー……」
まるで物珍しいものを前にしたみたいに、丸い目が瞬く。
「で、何して来たの?」
「食事と……水族館に行って」
「うわ、王道」
「観覧車に乗ってきた」
「えっ?!」
朝陽が大袈裟な身振りで驚く。
「亮、高い所嫌いじゃなかった?」
「……乗りたいと、言うから」
何となく気まずくなり、耳に熱がこもった。
「乗りたいって言われて、乗ったの?すげー」
可笑しそうに笑ったかと思えば、不意に朝陽は真顔になった。
「じゃあ、俺本当に邪魔しちゃったんじゃん。最後に、亮の手料理食べて締めようとしてたって事でしょ?」
「いや」
咄嗟に否定してしまった。朝陽が首を傾げる。
「違うの?」
「その……」
―寮へ帰って行こうとした後姿が、不意に脳裏によみがえった。
「帰したくなくて」
「へ?」
「僕が、呼び止めてしまって……」
―碧生。
呼び慣れないはずの名前が、何故か自然と、唇からこぼれ出てきた。
「楽しかったんだ?」
朝陽が優しい眼差しを向けてくる。素直に頷いた。
「……うん」
「えー、まじかあ。なら、本当に悪いことしちゃったなあ。すぐ帰ればよかった」
冗談ぽく笑っているけれど、たぶん本心だろう。
「いいよ。僕が無理に引き留めてしまった感じだったから」
これ以上気まずく感じさせないようにフォローしたつもりだったのに、朝陽は首を傾げた。
「そうかな」
「え?」
「碧生も、本当はもう少し一緒にいたかったんじゃないの?」
どきりとした。
そうだったら良い、と期待する気持ちが自分の中にある事に気づき、ますます動揺する。
「もしかしたら、俺が来ちゃって遠慮したんじゃないの?」
「ん……そうかも」
ゆっくり、ミネストローネをかき混ぜる。
「あお……牧野さん、朝陽の事をやたらと気にしていたし」
「へえ?俺が、何?」
「その、僕とすごく仲が良いから」
「ええ、何それ?やきもち?」
面白がるような響きにむっとする。
「ごめんごめん。でもさ、例えばどんな事を言ってたの?」
聞かれ、思いついたのはやはり名前の呼び方だった。
「僕が、朝陽の事だけ呼び捨てにするのを気にしていた」
「なるほど。亮も、いいかげん名前で呼んであげればいいのに」
「……一応、生徒だから」
あまりにも言い訳じみていてさすがに苦しかった。案の定、朝陽が苦笑する。
「デートに連れ出して、家に招くのに?そこだけ守るんだ」
「いや、生徒だから」
自分に言い聞かせるように口調を強める。
でもさ、と朝陽の声のトーンが落ちる。
「もうすぐ、生徒じゃなくなっちゃうじゃん」
「……うん」
そうだね、と小さく頷く。
―あの時、思わず名前を呼んで引き止めた僕を振り返って見た牧野さんの、揺れていた瞳を思い出す。
吸い込まれそうな目をしていた。
今まで感じた事の無い、不思議な気持ちを感じた。
朝陽の言う通り、もうすぐ先生と生徒という繋がりは終わってしまう。
そうしたらもう、会えないのだろうか。
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