ACT06.トマトなんか大嫌い

21.ミネストローネ

―碧生―

まさかまたこの部屋に来る事になるとは、思ってもみなかった。

「お邪魔しまーす……」

「どうぞ」

先に靴を脱いで上がっていた先生が、丁寧にスリッパを揃えて出してくれる。

玄関先に一旦置いた俺の荷物を当たり前のように持って行ってくれるので、急いでスニーカーを脱いでスリッパに履き替えた。

「適当に座って待ってて。準備するから」

先生はソファの隅に俺のリュックを置くと、羽織っていたジャケットを脱いでハンガーに掛けた。

ダイニングの椅子に引っ掛けてあったネイビーのエプロンを身に着け、冷蔵庫を開けて中を覗く後姿に遠慮がちに声をかける。

「あの、手伝うよ」

「温めるだけだから。座ってて」

さらりと断られたので、大人しくソファに腰かける。

たくさん作ったというミネストローネが入っているらしい片手鍋がコンロに載せられる。北欧風のデザインが施された鍋から、程なくして酸味の効いた良い匂いが漂ってきた。

美味しそう。先生、料理上手だもんなあ。

ぼんやりと後姿を眺めながらそう思っていたら、不意に耳の奥で声が蘇った。

『―碧生っ』

「っ!」

飛び上がった心臓を押さえつけるように胸に手を当てる。

さっきは本当にびっくりした。一体何を言われるのかと、ものすごく緊張した。

暴れる鼓動を宥めながら、一人首を傾げる。

どうして急に、名前で呼んだんだろう。

慌てていたんだろうか。ミネストローネがたくさん余ってる事思い出して、急いで呼び止めようとして?

それとも。

もしかしてずっと、俺の事を名前で呼ぶタイミングを、図っていたとか―。

「牧野さん」

「は、はいっ?」

声がひっくり返る。

振り向いた先生は俺を見て、不思議そうに首を傾げた。

「……オムレツも焼いたら、食べる?」

「え?あ、食べ、食べる」

「そう、分かった」

先生はいつも通りの淡々とした口調で返事をすると、冷蔵庫を開けて卵を取り出した。

何だ。やっぱり、名字で呼ぶんだ。

ほんの少しがっかりしている自分に気づき、動揺する。

いや別に、期待していたわけじゃないんだけれど。

待って俺。期待って何。

それじゃまるで先生に、名前で呼んでほしいみたいな。

「……っ」

だめだ、落ち着かない。

「先生!」

「はい、どうしたの」

卵をかき混ぜていた先生が振り返る

「とっ……トイレ借りて良い?」

「どうぞ」

玄関横だよ、と教えてくれる。ソファから立ち上がり、廊下へ出てすぐの扉を開けた。鍵をかけ、肌触りの良さそうなラグが敷かれた上にしゃがみ込む。

―落ち着け、俺。

結局名字呼びに戻っていたじゃないか。

きっと、名前で呼んだことに深い意味は無かったんだ。

冷静な考えで気持ちを鎮めようとするけれど、どうにも上手くいかない。

思い返してみれば、先生も少し動揺していた気がする。

まるで、勝手に口から出てしまったみたいな。

もしかして、本当はそんなつもりじゃなかったのに、つい―?


―ピンポーン……。


「っ?」

不意に鳴り響いたインターホンに顔を上げる。

少しして、はーい、とキッチンの方から先生が返事をする声が聞こえた。控えめなスリッパの足音が近づいてくる。

こんな時間に宅配だろうか。困った、出るに出られない。

取り敢えず用を足そうと立ち上がった瞬間、玄関の向こう側から声が聞こえた。

「あきらー」

―聞き覚えのある声だった。

立ち上がった格好のまま、体が固まる。

先生が玄関の鍵を外す音が聞こえる。扉が開くと、今度こそはっきり声が聞こえた。

「ごめん、急に。忘れ物取りに来たー」

「ああ……ちょっと待って」

スリッパの音が遠ざかり、またすぐに戻ってくる。

「はい、これ」

「ありがとー!」

明るく響くその声は、どう聞いても朝陽くんだった。

「これどこにあった?」

「洗濯物に混ざってた。僕の靴下じゃないなって」

「あーそっか。脱いだまま忘れてたんだ」

心の奥が、ざわつく。

何?靴下って。

人の家で靴下を脱いで、忘れて行くってどういう関係?

「なんか、いい匂いするー」

朝陽くんがはしゃいだ声を上げる。

「もしかしてミネストローネ?」

「ああ、うん」

「いいなあ、俺の好きなやつじゃん」

「食べてく?」

「え、良いの?」

「本当は昨日、一緒に食べようと思って沢山作ったんだよ。そしたら結局、来れないって言うから余っちゃって……」

―頭の奥が、スッと冷えた。

何だ、そういう事か。

朝陽くんの好きな食べ物だったんだ。

朝陽くんと食べるつもりだったんだ。

朝陽くんの為に、作ったんだ―。

トイレの扉を開けた。すぐ目の前に朝陽くんが立っていて、目が合う。

俺を見ても、朝陽くんは殆ど驚かなかった、

「やっぱり。誰かいると思ったら碧生だったんだ」

朝陽くんは、玄関口に脱いであった俺のスニーカーを指差した。

「それ、亮のじゃないなって思ったからさ」

履き慣れた、くすんだ青色のスニーカーだった。

どこにでも売っているような、何の変哲もないデザインの。

「……そんな事まで分かる仲なんだ」

心の中でつぶやいたはずが、口から漏れてしまった。

「俺、帰る」

「碧生?」

怪訝な表情をする朝陽くんの脇をすり抜け、リビングのソファに置いてあったリュックを引っ掴んで引き返す。

「え、ちょっと。牧野さん?」

「お邪魔しましたっ」

先生が呼び止めるのも構わず外へ飛び出した。

くたびれた青いスニーカーの踵を踏んづけたまま歩き出す。

何かが、面白くなかった。

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