20.観覧車

―碧生―

水族館から出ると、外はすっかり陽が沈んで暗くなっていた。

すぐ目の前に、LEDライトの装飾が目に眩しい巨大な観覧車が建っている。

「良かったね、すぐ近くにあって」

「……」

「どうかした?」

「え」

観覧車を見上げて黙っていた先生が我に返った様子でこちらを向く。

「ああ、ごめんなさい。乗りましょうか」

「?うん……」

何だろう、少し様子が変な気がする。

もしかして、俺が急にデートだからとか言って、手握っちゃったからかな。

そう考えると、気まずさで頬が熱くなる。

でもそもそも、最初に手を握ってきたのは先生の方で。

だけどそれは、人混みではぐれそうになったからであって……。

「牧野さん?」

「あ、はいっ?」

怪訝そうに呼ばれて顔を上げると、観覧車のチケットを差し出された。

「えっ、いつの間に」

「早く。行きましょう」

急かすように、背中を押された。


係の人にチケットを渡し、ゆっくりとした速さで動くゴンドラの中へ乗り込む。

「これ、座るところ透けてるね」

下を見ると、段々とコンクリートの地面が遠ざかっていく。少し怖いけれど、わくわくする気持ちの方が勝っていた。

「あ、夜景きれい……」

暗がりに灯る街明かりが、遠ざかるたび小さくなって広がっていく。なんか空飛んでるみたいだな、と子どもみたいなことを思った。

「歌詞は、思い浮かびそうですか」

聞かれ、今ここにいる理由を思い出した。

「うん、考えてるけど……」

あんまり深く考えずに、楽しんでたな。

そう言ったら、先生はどんな顔をするんだろう。

「やっぱり、あまり思い浮かばない?」

「いや、そんな事ないんだけど。普通に楽しんじゃってたっていうか」

うっかり口に出してから、恥ずかしくなって頬がほてった。

「楽しんでいたなら、良かった」

先生が呟くように言う。

「少しは、牧野さんの役に立てたのかな」

「うん……」

ほんの少しゴンドラが揺れる。もう、てっぺん近くまで来たんだろうか。

「先生さ、これが初デートなんだよね」

「はい」

「誰かを好きになった事は、ないの?」

「はい」

間髪入れず即答され、面食らう。

「本当に?」

頷いた先生の表情は、硬かった。

「僕は、さっきも話したけれど、色々な事があって日本に来て。誰かを好きになれるほど、人を信じたり、心を開くことが出来ない」

「……」

少し俯いて、自分の膝下に視線を落としている先生を見つめる。

「アメリカで生まれて、家の中では中国語を話して。ある日いきなり、日本に来て。日本語が話せずに、周りから孤立して。一体自分は何なんだろうと、自分の居場所はどこにあるんだろうと、ずっと孤独を感じていた。心を許せる友人もできないのに、恋愛をする余裕なんて無かった」

だから、と続ける声が少し柔らかくなる。

「朝陽が初めてでした。自分のことを受け入れてくれると、信じられた友人は」

「どうしてそんなに、朝陽くんのこと」

探るように聞いたつもりが、拗ねている様な響きになってしまう。

「朝陽は、名前の通りに明るくて温かい人でしょ?そばに居るだけで安心するような」

「うん……」

「彼に出会えて良かったと、心から思ってる」

―先生の言っていることは、分かる。

朝陽くんは、周りを明るく照らす太陽みたいな人だ。

自分のことを"一人ぼっち"と表現した先生に、そんな風に心許せる存在がいることは良いことだ。

なのに、どうして。

こんなに、胸の奥が疼いて痛いんだろう―。

「……先生は」

「ん?」

―朝陽くんの事が、好きなの?

「……っ、恋愛したいとか、思わないの」

少し間が空いて、特には、と返事が返ってくる。

「じゃあ、なんでこんな風に、その……デート、してくれてるの」

「良い歌詞を書いてほしいから」

さらっとそう言ってから、何故か考え直すように腕を組んで首を傾げた。

「いや……分からない。どうしてかな」

顔を上げた先生と目が合った。

いつも冷静な表情しかしないのに、今は戸惑いの色が浮かんでいる。

そんな顔で見られたら、俺の方が動揺してしまうのに―。

咄嗟に顔を背けると、すでにゴンドラは頂上に辿り着いたのか、足が竦むような高さに来ていた。

「うわ、高……」

先生の方を見ると、また目が合ったので驚く。

「な、何でそんなに、俺のことじっと見るの」

すると先生は、ごくりと唾を飲み込んだ。

「外を、見られない」

「へ?」

「実は」

冷や汗が、白い頬を伝っていく。

「高い所が、苦手で」

「ええっ?!」

こんな高さまで来てから言われても、もうどうしようもない。

「何それ、早く言ってよ!」

「大丈夫だと思ってたんです。まさか、こんなに高いものだなんて」

またほんの少し、ゴンドラが揺れた。わ、と先生が声を出す。

ちょっぴり悪戯心が湧いた。

わざと腰を浮かす。思った通り、またゴンドラが揺れた。

「あ、あ。ちょっと、やめて。揺らさないで。落ちる」

俺を押さえようと慌てる先生の姿は新鮮で、普段の冷静沈着な様子とのギャップが意外過ぎた。

「……っく」

悪いと思ったけど、もう堪えられない。

「あははっ!先生、ちょっと慌て過ぎ!」

ひどい、と言い返してくる声も弱弱しくて余計に可笑しい。

段々、腹筋が痛くなってきた。

「あー、もう。おもしろ……」

目じりに滲んだ涙を擦る。

俺の事を見ていた先生が、不意に、小さく笑った。

「……高い所が苦手で良かった」

「ええ?何で」

「牧野さんが笑ってくれたから。……そんな笑顔、初めて見た」

「……っ」

頬が熱くなる。先生は、俺の顔を覗くように軽く身を乗り出してきた。

「牧野さん、八重歯があるんだね。知らなかったな」

「!」

慌てて口元を隠した。先生が不思議そうに首を傾げる。

「どうして隠すの」

「……コンプレックスだから」

「何で?」

「だって……歯並び悪く見えるじゃん」

実際、そういう悪口をネットに書き込まれているのを見た事があった。

誰にも言ったことは無かったけれど、それ以来、カメラを前にすると上手く笑えなくなってしまった。

「気にする事ないのに」

「……簡単に言わないでよ」

気にする事ない、ともう一度、強い口調で言われた。

「思い切り笑った方が、可愛いよ」

……恥ずかしい台詞を、ものすごく真面目な表情で言うから。

痛いくらいに、心臓が激しく鼓動を打ち鳴らし始める。

「……俺、最近表情が柔らかくなったって、言われたの」

でも、と続ける声が震える。

「先生のせいで、また笑えなくなりそう」

「どうして?」

「……っ、可愛いとか言われたら恥ずかしいじゃん!」

怒ったつもりだったのに、先生は堪らずといった感じで吹き出した。

「その言い方、余計に可愛いよ」

「は?!」

「そんな、照れなくてもいいのに」

「……先生こそ」

「ん?」

「そんな思い切り、笑うことあるんだね」

言われて初めて気づいたみたいに、先生は自分の頬を撫でて、ほんとだ、と苦笑した。

「こんなに笑ったの、久しぶりかも知れない」

「何それ。久しぶりに笑った理由が俺?」

「牧野さんこそ、人が怖がる様子を見て笑ったくせに」

「はは、確かに」

「でしょ?」

目が合うと、自然と頬が緩んだ。先生も同じように、口元に優しい微笑みを浮かべて俺を見てくる。

あんなに高い所にいたのに、気づけば地上がすぐそこまで近づいて来ていた。


***

海辺から寮までは結構な距離があったはずなのに、あっという間に時間が過ぎたような感じがした。

先生の運転する車が、静かに寮の前で停まる。

「じゃあ、もう遅いから早く寝てくださいね」

「うん。先生も、気を付けて帰ってね」

シートベルトを外し、足元に置いていたリュックを持ち上げる。

何故だかふと、笑いが込み上げた。

「何?」

「あ、ううん」

誤魔化そうとして、先生の顔を見たら吹き出してしまった。

「何で笑うの」

「ごめ、高い所を怖がってる先生の顔思い出しちゃって」

はあ、と息をついて笑いを収める。

「先生、ありがとうね」

改めてお礼を言う。

「今日、本当に楽しかったよ。こんなに笑ったの久しぶりだった……なんて」

素直な気持ちを口にしてから、照れくさくなってしまって笑って誤魔化した。

「じゃあね。また」

車から降りる。ドアを閉め、寮のエントランスに向かって歩き出した。

背後で、車のドアが開くような音がした。


「……碧生っ」


足が、止まる。

ゆっくり、振り返った。

「は……はい」

返事をすると、運転席から降りてきた先生は自分でも驚いた様子で口元を押さえていた。

「な、何……?」

驚きで逸る心臓の音が、耳に聞こえてきそうだった。

「……ミネストローネ、好き?」

「は?みね、すとろーね?」

聞き間違いかと思ったら、先生は大きく頷いた。

「昨日、作りすぎちゃったんだよね。食べに来る?」

あまりにも唐突なお誘いに、よく考える余裕もなく、気づいたら頷いていた。

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