16.雨

―碧生―

食べ終わって店を出ると、再び雨が降っていた。

「あ、どうしよう。傘無いや……」

独り言のつもりだったけれど、俺より少し遅れて出て来た先生が当然のようにビニール傘を広げて差し出してきたので面食らった。

「いやいや、先生濡れちゃうじゃん」

「一緒に入ればいいでしょう」

ほら、と肩を押される。荷物の入ったリュックを前抱きにして渋々歩き出すと、傘がほとんど俺の方に傾いているのに気付いた。

「ちょっと、先生も入ってよ」

「平気です」

「平気じゃないって、スーツが」

「歌手なのに、風邪を引いたらいけないでしょう」

強めの口調で言われ、口をつぐんだ。

促されるまま歩いていたら、着いたのは駅近くの有料駐車場だった。出入口のすぐ近くに、見覚えのある車が停まっている。

「車で来てたの?」

「少し待っていてください」

先生は俺に傘を持たせると、駐車料金を精算してすぐに戻って来た。車のロックが解除される。

「送って行きます」

「え、いいよ。先生また迷子になっちゃうじゃん」

冗談交じりに返したら、もう覚えました、と即答された。

「でも、もう時間かなり遅いし……」

「だったら尚更心配だから、乗って」

俺の返事を待たず、先生は少々強引にリュックを俺から取り上げ、後部座席に入れてしまった。

これ以上拒むのも気が引けたので、大人しく助手席に乗ってシートベルトを締めた。車が走り出す。

フロントガラスを叩く雨脚は、どんどん勢いを増していった。

「めっちゃ降るね……」

「このまま止むかと思ったんですが、明日も降るんでしょうね」

「梅雨だもんね」

ゆっくりと車のスピードが落ちる。濡れたフロントガラス越しに、赤信号の光が滲んでいた。

「……本当はもう、帰ろうと思ってたんです」

雨音に紛れるくらいの声で、先生は不意に、呟くように言った。

「終電まではさすがに待てないから、あともう一本だけ電車を待って、それで降りて来なければ帰るつもりでした。途中で雨が降ってきて、傘を買いにコンビニへ行っていたから、もしかしたらその間に帰ってしまったかも知れないとも思って……でも、会えて良かった」

信号が青に変わり、再び車が走り出す。

「どうしてそこまで……」

そんな風に心配される理由が分からずに戸惑う。

先生は何か考えるように、ハンドルを握り直した。

「……牧野さんがおばあちゃん子なのは、前に話を聞いて知っていたから」

「っ、」

思わず俯く。

運転しながら、先生が一瞬、こちらを見たのが分かった。

「おばあちゃん……急だったんですか?」

「……うん」

辛うじて頷いた。そうですか、と先生はいつも通りの平坦な声で返してくる。

「当たり前に思っていた事が崩れて無くなる瞬間というのは、いつも突然来ますよね。現実は非情で、こちらの心の準備なんて待ってくれない」

「……」

「僕も、母親が亡くなった報せを受けたのは、突然の事でした」

顔を上げた。表情を変えずに話す先生の横顔を見つめる。

「大学の卒業論文を書き終えて、提出した帰り道でした。母親の職場の人から連絡をもらって、病院に駆け付けた時には、もう……」

「どうして……?」

「階段で滑ったんだそうです。歩道橋の下りで足を踏み外して落ちて、頭の打ち所が悪かった。誰のせいでもないんです。本当に、不意の事故でした」

「……」

「しばらく、頭が真っ白でした。何が起こったのか訳が分からなくて。母親と二人暮らしで頼る相手もいなかったから、とにかく色々な手続きとかも自分全部しなければならなくて。家で一人になると、ご飯なんか喉を通らなかった。倒れそうになって、点滴をしに病院へ通った事も……だから」

角を曲がる。寮がすぐそこに見えてきた。

「牧野さんに、あの時の自分を重ねてしまって、心配になってしまいました。余計なお世話だったかもしれませんが」

「……ううん」

寮の前で、車が停まる。ハザードが点滅する度に、雨が反射して光った。

「ご飯、一緒に食べてくれて良かった」

「そうですか」

「うん。……ちょっと、すっきりしたから」

車から降りる。後部座席からリュックを出す間、先生も降りてきて、また傘を差しかけてくれた。

「……ありがとう、先生」

「いいえ」

「気を付けてね」

リュックを背負い、エントランスへ向かう。

ふと思いついた事があって、足を止めた。振り返る。

まだ立って見送ってくれていた先生に、あのさ、と呼びかけた。

「暇な時でいいんだけど。昨日の分の授業、してくれない?」

先生は意外そうに数回瞬きすると、いいですよ、と小さく頷いてくれた。

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