15.コーンスープ

―碧生―

目の前で湯気を立てている、クリーム色のスープの中にスプーンを入れる。

「先生の、何それ」

「野菜たっぷりの……何でしたっけ」

「いや、分かんないから聞いてるのに」

「忘れました。牧野さんは、コーンスープ?……食べないんですか」

「や、食べるよ……」

すくいあげ、口に含む。コーンの甘味が、口いっぱいに広がる。

……ていうか何で俺、先生とご飯食べてるんだっけ。

控えめな音量のBGMがかかる店内では、俺たちの他にも女性客がちらほら一人でスープを飲んでいる。駅前にあるスープ専門店だが、こんな遅い時間までやっているとは知らなかった。

付け合わせのパンを小さくちぎる。

「……何で」

「はい?」

「俺が、この時間に帰って来るって知ってたの」

家を出てすぐ、奏多には連絡した。でも何時の新幹線に乗ったとか、具体的な事はまだ誰にも言っていなかったのに。

「知らないですよ」

さらり、と言われて面食らう。

「は?」

「何時なんて知らない。ただ、今日の夜には帰ってくると聞いたから」

何でもない事のようにそれだけ言って玄米を口に運ぶ先生を、呆然と見つめる。

「……いつからいたの?」

「さあ、忘れた」

「忘れたって……傘、濡れてたじゃん」

先生の足元に倒して置かれているビニール傘を見る。

「ああ。それはさっき、急に夕立が降ってきたから」

「それ、結構前じゃ」

「さっきだよ」

強めの口調で遮られる。真面目な表情で見てくるから気まずくなって、意味もなく他の席へ視線を移したら知らない人と目が合ってしまった。

「さっきから、見られてますよね」

「あー……うん」

こっちが見たから目が合ったというより、確かにずっと見られていたような気はする。

「よく、声を掛けられるんですか」

「まあ……奏多とご飯食べてると、たまに」

「今日は、内海さんはいませんが」

「いや今日はたぶん、そうじゃなくて」

変装していないから俺に気づいているのかも知れないけれど、違う理由が思い浮かんだ。

「男二人で向かい合って、スープ飲んでるのが目立つんじゃないかな」

「そう?」

「だってそんな、お堅いスーツ姿でさ……」

先生の格好を見る。片や俺は、そのままダンスレッスンに行けそうなラフな服装をしている。どういう関係性なのかと勘繰る視線が向くのも分かる気がした。

「仕事帰りなんだから、仕方ないでしょう」

ため息混じりに言われて、ふと思い至る。

「そういえば、授業……」

「昨日でしたね」

「やば、俺もしかして一人補習?」

冗談だったのに、真面目な表情がこちらを向いた。

「牧野さんがしたいなら、いくらでもするけれど」

「……や、遠慮しとく」

スープを飲んで誤魔化す。

「もしかして、それで来たのかと思った」

「え?」

「その、補習しに。……そんなわけないか」

いくらこの人が"鬼講師"呼ばわりされているからって、何もそこまで。

「……違うよ」

静かに否定された。

「ご飯食べてるか、心配だったから」

無意味にスープをかき混ぜていた手が止まる。

「……え?」

「一人になると」

先生が話を続ける。

「きっと、ご飯食べるのが億劫になるでしょ。そのまま、喉を通らなくなるかも知れない。だから少しでも食べた方がいい」

いつも何を考えているか分かりづらい先生の表情が、微かに揺れる。

「僕が、母親を亡くした時そうだった」

「……っ」

心臓が、不穏な跳ね方をした。

あの時、と先生が話を続ける。

「安い慰めの言葉なんか要らないから、誰か一緒にご飯を食べてくれる人がいて欲しかった。そう思っていたから」

先生はそこで言葉を切ると、半分以上残っていたスープの器を手に取った。

「……先生、お母さん亡くしてるんだ」

「うん、何年も前の事だけれど。だからもう慣れたよ。一人でも平気」

どこか言い聞かせるような言い方に、胸が苦しくなる。

「先生、一人っ子?」

「うん」

「……俺ね、兄ちゃんがいるの」

もう冷めてしまったスープの表面に、視線を落とす。

「二歳上でさ。めっちゃ頭良くて、スポーツも得意なの。何でも出来るの。……俺と違って」

どうして急にこんな事を話しているのか、自分でも分からなかった。

でも、聞いてほしかった。

「小さい頃からずっと、出来の良い兄ちゃんと比べられて育って。だから劣等感の塊なの、俺。でも歌だけは皆んな、俺の方が上手いって褒めてくれたんだよね。なのに歌手になりたいって言ったら、親は反対してさ。でも、ばあちゃんは違った」

―……じょうずだねえ。

つい最近見た夢の中で、聞こえた声をまだ覚えてる。

碧生は、本当に歌が上手だねえ……―

「碧生がテレビに出て、歌ってる姿を見せてくれって、ばあちゃんだけはそう言ってくれてたんだ……」

……握りしめた手は、もう握り返してこなかった。

色をなくした唇が、俺の名前を呼んでくれることも、もう二度とない。

「……おばあちゃん、聞いてくれていたんでしょう?牧野さんの歌」

「うん……家に、CD置いてあった」

「そう。なら大丈夫」

先生の声が、優しく耳に響く。

「きっとこれからも、どこかで聞いてくれているから」

「……うん……」

「もう、食べないんですか?」

聞かれ、スプーンを握り直した。

「食べるよ。せっかく……」

「ん?」

「せっかく、先生の奢りだもんね」

悪戯っぽく小さく舌を突き出して誤魔化し、すっかり冷めたスープを口に運んだ。

―せっかく先生が会いに来てくれたんだから、元気出さないと。

本当はそう言いたかったけれど、照れ臭さが勝ってしまって、言えなかった。

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