10.卵がゆ
―碧生―
唄っていた。
広い空間で一人、マイクもつけていないのに、不思議なくらい声がよく響く。
気持ちよかった。
このままずっと、唄っていたい。
―……じょうずだねえ。
不意に懐かしい声がした。
碧生は、本当に歌が上手だねえ……。
***
抱きかかえたクッションの手触りがあまりに気持ち良くて、もう一度寝直そうと寝返りを打った。
「……?」
壁だと思ったら、妙に柔らかい。それがソファの背もたれだと気づくのに、数秒要した。
そもそも腕の中に抱え込んだクッションは、自分の部屋にある物ではない。
「……」
ようやく覚醒し始めた頭で考える。
何で俺は、ソファで寝ているんだっけ。
「あ、起きた?」
「っ?!」
背後から突然声をかけられ、文字通り飛び上がった。
「あ、」
「いっ……た」
思い切りソファから落ち、打ちつけてしまった尻をさする。
「大丈夫?」
「いや、大丈夫とかじゃなくて」
何を考えているか分かりづらい無表情で俺を見下ろしている、英先生を見上げる。
「なんっ……何、どういう事?ここどこ、何で先生が」
「まあ、落ち着こうか」
先生が、俺と一緒に床に転がり落ちたクッションをゆっくり拾い上げる。
「ここは僕の家です。昨日の事は、覚えてる?」
「昨日……」
「その様子だと、覚えてないのかな」
「ちょっと待って……」
寝癖ではねた前髪を掻きむしる。
昨日は千隼の誕生日だった。だから、メンバー全員で焼肉屋に行って、乾杯して。
「……俺、酔ってた?」
恐る恐る聞くと、まあ、と曖昧な返事が返ってきた。
「泥酔って、ああいう状態の事を言うんでしょうね」
「え」
「飲み過ぎて、内海さんにしがみついたまま眠っていました。たまたま朝陽と僕が同じ店にいたから、送って行くつもりで車に乗せたんだけれど」
少し、先生がバツの悪そうな表情になる。
「夜だから道に迷ってしまって。仕方なく、うちへ連れて帰ってきました」
「……すみません」
身に覚えがなさ過ぎて、顔から火が出そうだった。
正直、どのタイミングで気を失ったのか全く分からない。記憶がない間、一体自分はどんな状態だったのか。
「ところで、体調はどう」
「え?」
「具合が悪いとかは」
「いや、別に……」
ぐう、と腹から盛大な音が鳴った。
「食欲は、ありそうですね」
いっそ笑ってくれればいいのに、淡々とそれだけ言い残すと先生はキッチンへと向かった。
「……っ」
恥ずかしさに身悶えながら、さっきのクッションを抱き寄せる。何でこんな事に。
キッチンから、ほんのりと良い匂いが漂ってきた。また腹の虫が鳴き出しそうになり、慌ててクッションで押さえつける。
「牧野さん、こっち来て」
「え?」
「朝ごはん用意したから」
呼ばれるがままキッチンへ行ってみると、テーブルの上に湯気を立てた器とスプーンが置かれていた。
「お粥、食べられる?」
「うん……」
席に着き、いただきます、と手を合わせてからスプーンを手に取る。薄っすら黄色いのは、溶いて入れられた卵だろうか。
一口食べると、薄味ながらダシのきいた良い香りがした。
「美味しい……」
素直な感想が口をついて出る。
「え、先生が作ったの」
意外に思って聞くと、心外だとでもいうように眉が微かに動いた。
「そうだけれど」
「え、すごい。料理とかするんだ」
「牧野さんは、しないんですか」
「しないよ。やった事ないし」
喋りつつ、食べる手が止まらない。
「お腹空いてたんですね」
少々呆れた声が降ってくる。
「昨日お酒ばかり飲んで、ろくに食べなかったんでしょう」
「しょうがないじゃん、知らない間に寝ちゃってたんだから」
羞恥で耳が熱くなる。
「ていうか、ほんとに美味しい」
半分以上平らげたお粥をかき混ぜる。
「なんか、ばあちゃんの味に似てる気がする……」
「おばあちゃん?」
「うん……」
そういえば。
ソファの上で目を覚ます直前、何か懐かしい夢を見ていた気がする。
「おばあちゃんと、一緒に住んでいたんですか」
「うん……うちの両親、共働きだったから。風邪引いたりすると、ばあちゃんが看病してくれたんだよね。こうやってお粥作ってもらってたなあ」
メンバーにもあまり話したことがない身の上話が、勝手に口をついて出てくる。
「なるほど。お粥が、言うなれば母の味なんですね」
「あー……うん、そんな感じ」
急に恥ずかしくなって、残ったお粥をスプーンで忙しなくかき集めた。俺は何でそんな事を急に、ぺらぺらと。
「先生、一人暮らし?」
話題を変えようとして聞いてみると、先生は頷いた。
「ていうか……先生、何歳?」
「朝陽と同い年」
「え、えっ?そんな若いの」
「……失礼な」
「いやその、大人っぽいから」
慌てて誤魔化す。正直言うと、三十は越えていると勝手に思っていた。
そもそも先生は、最初の自己紹介で名前しか教えてくれていない。年も初めて聞いたし、知らないことばかりだった。
「先生って、何者なの」
「何者、とは?」
「いや、そもそも何で中国語の先生なのかとか。英語もペラペラだったし。普段は何してるの」
「普段は、大学で中国語を教えています」
「知ってる。それは悠貴に聞いた」
「はるき……ああ、櫻井さん?」
何か思い出すように、こめかみに手を当てる。
「僕の授業、取ってたんだ」
「そう。それで悠貴が、英先生は本当に怖いとか言ってて」
余計な一言が口から出てしまう。
先生が、小さくため息を吐いた。
「もしかしてそれかな、原因」
「え」
「牧野さん、いつも嫌そうに授業聞いてるでしょう。もしかして嫌われているのかと思っていたんですが」
「……ええと」
気まずくなり、頭をかく。
「そうじゃなくて、単純に勉強が苦手なんだよ、俺。先生が嫌とかじゃなく」
「机に向かうのが嫌?」
「そう、それ」
勢い込んで返事しながら、せっかく授業しに来てくれている先生に向かって失礼だったな、と反省した。
「だからその、先生の事が嫌いとか、そんなんじゃないから」
……大体、好きとか嫌いとか思うほど知らないし。
心の中で付け加え、残ったお粥を平らげた。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
きちんと手を合わせる。
先生は立ち上がると、寮まで送るよ、と車のキーを手に取った。
「大通りまで出るから、道教えて」
「……迷子にならない?」
若干の不信感を込めて聞くと、ちょっとだけむっとした表情を返された。
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