ACT02.トラウマレベルの鬼講師
4.駅構内
―碧生―
電車から降りようとしたら、誰かの傘に足を引っ掛けて転びそうになった。
そういえば夕方から雨だったっけ、と頭の片隅で考えながら改札へ続く階段を急いで駆け上る。
左腕にはめた腕時計で時間を確かめた。大丈夫、まだ間に合う。
昨夜、少しでも歌詞のアイデアを出そうと遅い時間まで机に向かっていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
起きて大慌てでシャワーを浴び、髪を乾かすのもそこそこに家を飛び出した。今日は新しい曲の振り入れがあるから、遅刻するわけにはいかない。
改札の前に辿り着くと多くの人で混みあっていた。何本もの線が乗り入れている駅だから仕方ないのかも知れないと思ったが、どうやら外国人観光客が上手く改札を通れずにもたついているせいらしい。
頼む、早くしてくれ。
若干焦りを覚え始めたところで、不意に背後から声を掛けられた。
「エクスキューズミー?」
「えっ?」
ぎくりとして、振り返る。
見上げるような長身に、彫りの深い顔だち。巨大なバックパックを背負った金髪の男性が、俺を見下ろして困った様に眉尻を下げた。
「~~~?」
「え、え?いや、あの」
冷や汗が吹き出す。最初の一言以外、何を言っているのか全然聞き取れない。
「の、ノー!ノーイングリッシュ、じゃ、なくてええと」
こういう時何と言えばいいのか、中学校くらいで習ったかも知れないが咄嗟に出てこない。そもそも俺は勉強が得意じゃないし、現役の学生だったとしても上手く答えられないと思うけれど。
いや、そうじゃなくて。
一体、どうすれば。
「~~……?」
突然、背後から流暢な英語が聞こえてきた。
驚いて振り返る。いつの間にか、近くにスーツ姿の男性が立っていた。
黒髪に、涼し気な一重瞼の目元。日本人に見えるが、薄い唇から流れるように出てくる英語の発音は明らかにネイティブだ。
どうやら俺の代わりに質問に答えてくれたらしい。金髪の男性はほっとした様子で、礼を言って去って行った。
男性の視線が俺の方を向く。
「あ……ええと」
もしや、この人も日本語が通じないんだろうか。
でもとにかく、礼を言わなければ。
「ありがとうございました。助かりました」
ごく自然な発音で、どういたしまして、と返って来た。なんだ、やっぱり日本人だったのか。
そうだ。急がないと。
改札の方を見ると混雑は解消されていた。急いで行こうとしたら、あの、と呼び止められた。
「ところで、僕も道を尋ねたいのですが」
「え」
思わず身構える。
上京してきて何年か経つが、この駅は出口が多くて分かりづらい。よく知らない場所を言われたら、日本語でもお手上げだ。
それに、上手いには違いないが彼の日本語の発音は、少しだけ外国訛りがある気がした。
「俺で分かるところなら……」
「ありがとうございます。あの、ここなのですが」
彼が出して来た名刺を見て、面食らった。
「えっと……じゃあ、俺も今からそこへ行くんで、ついて来てください」
***
駅から徒歩五分、というとすぐ近くに感じるけれど、まっすぐに歩けば着く場所ばかりではない。
今時、道に迷ったらスマホですぐ調べられるだろうと思いがちだが、地図を見ても分かりづらい場所というのは存在する。俺の所属する芸能事務所が正にそうだった。
「ここです」
振り返り、建物を指さす。裏路地に面している割には真新しい外観のビルで、事務所の他に、所属アーティスト専用の練習室もある。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえ……」
「あれー、碧生!」
声がして振り向くと、ビルから一人の青年が出てくるところだった。アッシュブラウンの髪の毛が風になびく。
俺が所属するアイドルグループ『star.b』の、ダンスレッスンと振付を担当してくれている、松岡朝陽くんだ。
「朝陽くん、ごめんなさい。遅くなって」
「ほんとだよ、もう。遅刻ー」
それより、と朝陽くんが俺の背後に佇む男性に視線を移し、笑った。
「なんで二人一緒に来たの?びっくりした」
「へ?」
振り向くと、男性は持っていた鞄から茶封筒を取り出し、朝陽くんに差し出した。
「朝陽、これ」
「ああ、ありがと」
「それとこれも」
再び鞄の中に手を入れる。出てきたのは、薄水色のハンカチに包まれたタッパーだった。
「昨日、おかずたくさん作ったから。食べて」
「まじで!ありがとー!」
嬉しそうな朝陽くんにお弁当らしきものを手渡すと、男性は俺の方を見て軽く頭を下げてきた。
「じゃあ、ありがとうございました」
「ああ、はい」
「またねー、亮」
朝陽くんが無邪気に手を振る。亮と呼ばれた彼はにこりともせず、朝陽くんに向かって手を振り返すと、来た道を戻って行った。
「朝陽くんの友達?」
聞いてみると、朝陽くんは頷いた。
「そう、同じマンションに住んでたの。最近、俺は引っ越しちゃったんだけどね。ご飯一緒に食べたりしてたんだ」
弁当楽しみだなー、と嬉しそうな顔をしてから、そういえばと俺の方を見る。
「亮と、どこで会ったの?」
「たまたま駅で声掛けられたんですよ。迷子になってたみたいで」
「ああ、なるほど。亮、ちょっと方向音痴だもんなあ」
「へえ……って、時間やばっ」
腕時計を見ると、すっかり練習開始時間を過ぎていた。
「うわ、本当だ」
俺の腕時計を一緒に覗き込んだ朝陽くんが目を丸くする。
「碧生、先に行ってて。俺、これ事務室に出してこないといけないからさ」
朝陽くんが茶封筒を振る。
「分かりました」
返事をし、練習室へと急いだ。
それにしても一体、あの男性―亮さんは、何をしにここへ来たんだろうか。
あの茶封筒の中身は、何だったんだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます