第19話 生きるために歌う
マソパジムを出た一行は、足を止めた。
「この子、どこに連れて行ったらいいかな」
レノフォードがカメムシを捕獲した手を掲げる。
「この辺で放したら?」
「人も多いし、迷惑がられちゃうよ」
確かに、リチェラー家の敷地内で放すのは気が引ける。またルディアに寄って行くかもしれないではないか。
「湖の方はどうだ?」
ロシュオルの提案に、二人はうなずいた。
***
山を少し登った先にある湖は、生活圏から離れた自然の豊かな場所だ。
「ここならのびのびできそうだね」
レノフォードは湖の脇の繁みにカメムシを放した。
ここまでの間に、カメムシが臭いを出すことはなかった。
それはレノフォードが微塵も脅威を感じさせなかったということだ。兄の優しさが虫にまで認められたようで、シェリアータは誇らしかった。
「ヴォーーー!」
突如、押し潰された悲鳴のようなものが鼓膜を突いた。
シェリアータは驚いて周囲を見回す。
「何? モンスター?」
そういうのが出てくる世界設定ではなかった気がするが……
「……あれは」
ロシュオルが指差した先に目をやると、見覚えのあるハニーブロンドの少年が湖の
「くっそ、低い音が全然出ない」
忌々しそうに座り込むと、シートの上に広げた大量の食べ物をがっついた。
「ピクニック? ……って雰囲気じゃないわね」
景色を楽しみながらおいしいものを頬張る、というよりは、課せられた苦行のようだ。
手当たり次第に
「うっ」
動きが止まり、少年はうずくまった。
えずく声に合わせて背中が揺れ、詰め込んだばかりの食べ物が大地に
身を起こした少年の顔は、げっそりと青白かった。
「吐いたら元も子もないじゃん」
水を含んで息を整えながら、地面を叩く。
「くそっ! どうしてこう半端なんだよ!」
立ち上がった少年の目は怒りに燃えていた。
「高い声がダメなら、もっと低くなれよ! オレに歌わせろよ!」
そのストレスをぶつけるかのように、少年は湖へ向け大きな声で叫んだ。
いや、違う。音に高低がつき、ビブラートがかかる。これは歌だ。
ヤケクソ気味に、叩きつけるように。
暴力的なほど伸びやかな、テノールの歌声。
「……っ、すごい」
男性用の歌の本来のキーを上げ、歌いやすい音域に変えている。重厚なはずの歌の印象がまるで違った。
「男にしては高い声だけど、うまいな」
「うまいどころじゃないわよ!」
彼の正体が噂通りならと、歌えることには期待していた。だが『リュシー姫』の実力は知らなかった。
もともと
シェリアータは少年に駆け寄った。
「ちょっと、リュシ……じゃなくて、なんだっけ、名前にリュがついた美少年!」
「は!? なんだよ、どうしてここに」
ギョッとした少年は歌を止めて体を引いた。
「貴方の歌、素晴らしいわ!」
ひどく警戒した目がシェリアータをうかがう。
「でも半端だろ、声が女でも男でもなくて」
「それが何?」
少年は虚を突かれたようだが、すぐに食ってかかった。
「何って、需要がないんだよ! 歌うところがないんだ!」
シェリアータはハッとした。
確かに、オペラは男役と女役にキッパリ分かれているのが通例だ。
『声の低くない男』の需要は極端に少ない。
「女の声を出して誤魔化してきたけど、もう出ない」
少年の年齢は15~6くらいだろうか。
急激に声の質が変わる頃だ。
「もっと体をでかくして腹に響かせれば、オレだって低い声が」
腑に落ちた。
ジムに通って鍛えているのも、
モテたいと騒いでいるのも、
無茶な食べ方をしているのも、
ずっとイライラしているのも、
誰にも必要とされない声を抱え、
歌う場所を奪われたからなんだ。
「貴方、本当に歌が好きなのね」
「好きとか考えたことないけど、 歌えなかったら、オレじゃないんだよ」
魂に強烈な欲が宿っているのを感じる。
それが満たされなければ死んでしまうと、言外に叫んでいるのを。
シェリアータは震えた。
「歌う場所、あるわよ」
「えっ」
「低くなくていい、高くなくていい。 そのままの声で歌って欲しい」
少年は呆然として首を振った。
「そんなうまい話が」
「うまくはないわよ、きっとひどい扱いも受けるわ。……でも」
シェリアータは少年に向けて、片手を差し出した。
「私のアートデュエラーとして、一緒に世界を変えて欲しい」
「アート、デュエラー……?」
「貴族の芸術バトルで戦う芸術家よ。勝てば王の前でも歌えるわ」
少年は前髪の下からシェリアータを値踏みした。
「勝算はあるのかよ」
「ないわ」
「おい」
「でも私は絶対にいいって信じてる」
どんなに
「貴方の歌は、絶対に素晴らしい!」
少年は、差し出されたシェリアータの手をじっと見つめた。
「世界を変えて……変わったら、どうなる?」
シェリアータは微笑んだ。
「貴方は女にモテモテよ」
少年は勢いよくシェリアータの手を掴んだ。
***
リュのつく美少年、リュカリオ・ミエルミュゲがメンバーに加わり、ミレーヌの手によって新たな妖精が描き下ろされた。
卵の妖精、『ウフ』。
イルエラの仕立てで再現された衣装を纏ったリュカリオは、可憐な美少女のようだった。
肩上で揃えられたサラサラのハニーブロンドから尖った耳がのぞき、オレンジや黄色の飾り玉を通した白い房の耳飾りが揺れる。
丸く明るい琥珀の瞳は華やかな睫毛で縁取られ、緑と金と白をベースにした衣装はシュクレやファリヌと同型で、金の腕輪には細いチェーンが渡され、二の腕を繊細に彩る。
「こんな感じ?」
リュカリオはアイドルさながらのウインクをしつつ、キュートなポーズを取った。
「「ファーーーー!!」」
シェリアータとミレーヌのインナーエンジェルが、飛んできたハートマークに吹っ飛ばされてゆく。
「 イイよイイよ、すごくイイー!!」
シェリアータは指フレームを構え、角度を変えながら心でリュカリオを連写した。
さすがリュシー姫として重ねたキャリアは伊達じゃない。どの角度も完璧だ!
ミレーヌはなにやら背徳感を感じているようだ。
「いいのかね? ここまで美少女にしちまって」
「いいんです! 男の
シェリアータは晴れやかな笑顔で親指を立てた。
「これ、本当に女にモテるの? おっさんにしかモテないんじゃ……」
「ああ……ごめん、おっさんにはモテるわ」
「はぁ!?」
あっさり答えたシェリアータに、リュカリオは話が違うと目を剥いた。
「でも、リュカの魅力を最大限に引き出して、今まで供給のなかった新しい分野を開拓するつもりなの!」
女の子より可愛い男の子。容易に実現できない分、ハマれば沼は深いはず。
「最初に寄って来るのは美少女に弱いおっさんかもしれないけど、その奥に未開拓の飢えた女性層が眠っているはず」
「つまり、最終的には女にモテモテなんだな?」
「そう、なるはず、多分」
「あやふやだなぁ」
リュカリオはため息をついたが、言うほど嫌ではなさそうだ。
「まあ当面、歌えるならなんでもいいよ」
シェリアータは満足げに一同を見渡した。
「さあ、次のアートデュエルに向けて、レッスンするわよ!」
困難かもしれないけど、この世界を変えてみせる。
お兄様のために、最速で!
『お兄ちゃんのために、最速で!』
不意に、記憶がオーバーラップした。
涙にぼやけて流れる景色、
固い地面と血の臭い。
ざわりと首筋が粟立つ。
焦ってはいけない。
そう警告された気がした。
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