第22話 花の名

 センパイのマフラーを手に入れてしまった。

 センパイの匂いが私の匂いで上書きされていくのは分かっている。だから、定期的にこのマフラーとセンパイに渡したマフラーを入れ替えれば、センパイの匂いを維持できるのではないかと考えている。

 ……いや、私は変態か。センパイのマフラーをなんとかして手に入れようとした時点で、変態っぽさがすごいのは言うまでもないけど。

 最初にセンパイのマフラーを借りたとき、全身がセンパイの匂いに包まれて多幸感で満たされた。もうこれなしでは生きていけないと思って、思わずセンパイのものに似ているマフラーと手袋を選び、その後交換してもらおうと考えたが、まんまと上手くいってしまった。こんなことを素直に言ったら、絶対に交換してもらえないし、ドン引きされるだろう。

 そして、手に入れたセンパイのマフラーからセンパイの匂いを摂取し続け、気がつけば家に戻っていた。

 冬が終わったら、どうやってセンパイの匂いを摂取したらいいのだろうか。私物を嗅げば……いやいや、もうどうしようもない変態だろうそれは。

 センパイのせいでどんどんおかしくなってしまっている。責任取ってほしい。

 もう、私はとにかくおかしいのだ。おかしいので、センパイの部屋に忍び込んでベッドに寝転ぶのも、「おかしい人界隈」では普通のことなのだ。

 どうしようもない変態と化してしまったことを自覚しつつ、センパイの枕の匂いを嗅ぐ。

 ここに住みたい。天国だ。

 嗅ぎすぎて窒息しそうになったので、枕から顔を離すと、ベッドに飾られた写真に目が行った。センパイと細川先輩だろう。幼稚園、小学校、中学校、高校の順に入学式と卒業式で撮った写真が新しいフォトフレームに入れられ、几帳面に並べられている。最近飾り始めたのだろうか?

 大学はそれぞれ違うと言っていたから、無いのだろう。だが、あってもおかしくない成人式の写真もそこには無かった。センパイは私の一つ上だし、今年が成人式だったはずだが、どうしたのだろう。

 私が寝ている間に行ったのかもしれない。まあ、センパイのことだから、細川先輩が行かないなら自分も行かないと決めたのかもしれない。答えは聞かないと分からないが、別に聞く必要もないだろう。私も成人式には行くつもりはない。

 そんなことを考えたり、センパイニウムを過剰に摂取しすぎたり、午前中動きっぱなしだったりしたせいか、寝転がっているうちに意識が薄れてきた。一眠りしよう。このままここで寝たらまずいという意識は1ミリくらいあったが、体が動かず、もう無理だった。おやすみなさい。



 目が覚めると、センパイが私を見下ろしていた。

 冷や汗が止まらない。超大型巨人が壁の上から見下ろしていたとき、ウォール・マリアの民はこんな気分だったのだろうか。

「おはよう」

 センパイは困惑した顔でそう言ってきた。

「おはようございます!」

 私は飛び起きてベッドの上で正座をした。

「なんで私の部屋の、私のベッドで寝てんの?」

「エト……」

 申し開きのしようがなく、巷で流行っている何か小さくて可愛い奴のような言葉しか出てこない。

「言えないの?」

 刺すような目で見られている。この目つき、耐えられない。ゾクゾクする。

「えーと……センパイの匂い“も”好きになって……センパイのベッドでセンパイの布団に包まったら最高だろうなって……えへへ……」

 正直に言うと、センパイが今度はゴミを見るような目で見てきた。また新たな趣味に目覚めてしまうかもしれない。

「あー……うん……。もう許可なくやらないでね」

 地獄のような空気が漂っている。いっそ殺してほしい。というか、「許可があればやっていい」みたいな言い方はなんだろう。聞いてみたいけど、聞いたら張り倒されそうなので黙っておくことにした。

「す、すいませんでした……」

「というか、私の匂いって……どんな匂い?」

 センパイが自分の腕を嗅ぐ仕草を見せる。自分の匂いなんて、わかるはずもないのに。

 とはいえ、私もセンパイの匂いを言葉で表すことはできない。好きな人の匂いだから好きなのか、好きな匂いだから好きなのか、自分でもわからない。

 センパイは香水をつけないし、化粧も控えめだから、それらの匂いはほとんどしない。シャンプーなどの香りでもないそれは、おそらく素の匂いなのだろう。素材の味。うーん……細川先輩に意見を聞いてみたい。

「どうと言われても……うーん……清潔感のあるような香り?」

 なんとなく頭に浮かぶイメージを、なんとか言葉にしてみる。

「えー……よくわからん。気になるなあ……」

 自分の匂いが好きだと言われてもわからないセンパイは、不服そうな表情を浮かべている。

「細川先輩にでも聞いてみます?」

「なんで京子に?」

「あの人、頭が良いですし、私よりも良い答えを持っていそうじゃないですか? それに、センパイとの関係も深いですし」

「まあ……うん。じゃあ聞いてみる」

 そう言いながら、センパイはスマホで文字を打ち始めた。

 その間に、私もセンパイの匂いを言い表すのにぴったりな言葉を考えてみることにした。

 どこかで嗅いだような気がするが、具体的な記憶はない。外で嗅ぐいい香りに該当する匂いは、植物のものだろうか。

 そう考えると、花のような香りな気がしてきた。しかし、花の名前といえばバラ、百合、菊、カーネーションくらいしか思い浮かばないし、それらの匂いとも一致しない。うーむ、全然わからない。

 スマホとにらめっこしながら、いろいろな花を検索してみる。しかし、そもそも名前と見た目が一致しない花は、匂いも私の記憶とは一致しないだろう。

 諦めてセンパイの枕を吸うことにした。

「なにしてんの?」

 バレた。ヤバい。

「ちょっと正座の体勢で疲れて……」

「別に正座しなくてもいいでしょ。京子が言うには、鈴蘭の匂いに似てるんだってさ」

 なるほど、美鈴だけに。名は体を表すとはこのことか。センパイの両親は、鈴蘭から名前を取ったのだろうか。だとしたら、とてもいい名前をつけたと思う。

 しかし、そう言われても鈴蘭の匂いが頭に浮かんでこない。名前を言われると、あの花か、とビジョンは浮かんでくるのだけど。

「センパイはお花の香りなんですねえ」

「なんか恥ずかしいからやめて。とりあえず納得したしご飯食べるわ」

「食べてらっしゃい」

「なんで私の部屋に居座る気でいるんだ。はよ出ろ。アンタも食うんだよ」

「てへ」



 センパイの手料理も、そこそこレベルが上がってきている。いや、元から美味しかったけれど、最近は作るもののバリエーションが豊富になってきた気がする。

 私とセンパイで日によって分担しているけれど、私はあまり料理が上達していない。センパイは文句を言わないけれど。

 今日はセンパイが料理を担当したので、私が食器を洗う。気がついたらそのような分担になっていた。

「そういえばさ」

「はい?」

「鈴蘭って、実際に見たことある?」

「うーん、あるようなないような……。センパイの匂い、なんとなく花っぽいなと思ったんですけど、鈴蘭と言われてもイマイチ匂いがピンとこないので、ないのかもしれません。写真でなら見たことありますけど」

「そっか。私も全然なんだよね」

「センパイって、自分の名前の由来を聞いたことあります?」

「ないねえ」

「ですかあ。そういえば、鈴蘭って4月から5月くらいに花が咲き始めるらしいですよ」

「へー。私の誕生日も4月だし、そういうことなのかも」

 確かにそうだ。やはりそういうことなのかもしれない。

「でも、私の名前をそんなに深く考えて付けたりしたのかなあ。両親は私のことなんて、もうどうでもよくなったわけだし」

 ……またこの人は、自分が望まれて生まれたわけではないかのようなことを言う。センパイのことが好きでたまらない人間が、この世には少なくとも二人いるというのに。

「……誰だって自分の子供が生まれるときは、嬉しくて真剣になるものだと思いますよ」

 無責任なフォローをしてしまう。自分の親も途中まではまともだったとはいえ、それがセンパイに当てはまるとは限らないのに。

「そういうもんなのかなあ……」

「わかんないですけど」

「まあ、うん。ごめん、こんな話して」

「謝らないでくださいよ。そうだ、春になったら鈴蘭を見に行きませんか?」

 以前行った動物園には植物園が併設されていて、鈴蘭も展示されるようだった。さっき調べたことを活かして、さりげなくデートに誘ってみる。

「いいね。楽しみにしとく」

 快諾されてしまい、春が来るのが待ち遠しくなった。とはいえ、春が来るとマフラーでセンパイの匂いに包まれることができなくなるのが気になる。春夏秋はどうやってセンパイの匂いを摂取しようか。

「お風呂沸いてますよ」

「じゃあ、先に入るね」

「ごゆっくり」

 センパイがお風呂に行くのを見送る。

 そういえば、これまで意識していなかったけれど、お風呂上がりにはその匂いが薄れるのだろうか? 気になる。まあ、すぐに答えは出るけど。

 話し相手もいなくなったので、ぼーっとするしかない。いや、そろそろバイトを探さないと、センパイに殴られてしまう。

 車や自転車などの足もないし、わざわざ電車を使ってバイトに行く気にもならない。必然的に徒歩で行ける範囲を選ぶしかなさそうだ。

 そうなると、候補はあのコンビニだろうか。調べてみると、アルバイトを募集中らしい。

 夜中から早朝の時間帯だとセンパイと散歩に行けないし、朝は忙しそうだから無理。夜も忙しそうだし、やはり昼から夕方のシフトがいい。どの時間帯でも週2日からOKらしいが、昼からだと最低4時間勤務になるらしい。うーん、頑張れるのだろうか。いや、頑張るしかないのだけど。

 とりあえず応募してみよう。今どきのコンビニ求人は、WEBでもLINEでも応募できるらしい。

 名前や住所(この家の住所でいいのだろうかと少し考えたけど、この家の住所を入れた)や、面接の希望時間を入力し、応募ボタンを押した。もう後戻りはできない。いや、別にバックレれば戻れるけど……。

 面接に必要なものといえば、身分証と履歴書だろうか。

 履歴書……履歴書かあ……。

 そういえば、それっぽいものといえば、高校入試の願書くらいしか書いたことがない。だって働いたこともないし、大学にも行っていないのだから。

 あのまま高校を卒業していたら、私はなんとなく大学に行っていたのだろうか。うーん、学生の自分なんて全く想像ができない。

 高校を辞めてから、ほとんど文字を書いていない。上手く履歴書が書けるのか、そもそも文字を書けるのかと不安になる。

 そんなはずはないと思いつつも、字が書けなくなっていないか心配になり、その辺にあったペンでチラシの裏に文字を書いてみる。

 一ノ瀬真央

 学校に通っていた頃は、定期的に書いていた自分の名前だ。

 名前の由来は……「真に世界の中心になれるように育ってほしい」だったはず。

 なれるわけがないだろう。馬鹿なのか。名前負けにもほどがある。だから、自分の名前は好きではない。

 小学生の頃、「瀬」という文字がなかなか覚えられず、書けなかった記憶がある。ゴチャゴチャしていて、ほかの文字より覚えづらかったのだ。

 呉島美鈴

 好きな人の名前も書いてみる。

 読み方も字面も珍しい名字だ。字だけを見ると、「ごとう」と読んでしまう人がほとんどではないだろうか。最初に名前を見たときの私もそう思った。

 高校を辞めるときに荷物の整理をしに行った際、クラスメイトと鉢合わせた。そのとき少し会話をした中で、センパイの名前を出したら、「あの名字は『くれしま』と読むんだ」と訂正されたのを思い出す。

 もし、あの時クラスメイトに会わなかったら、センパイと再開(?)した時に一方的に名前を知っている、ミステリアスな謎の女を演じていたのが台無しになるところだった。ありがとう名前も覚えていない女子。

 名前がわからず調べていたときには知らなかったけど、校内ではそのルックスと雰囲気でそこそこ有名だったらしい。女子からも男子からも狙われていたんだとか。さすが、我が愛しのセンパイ。

 しかし、私と細川先輩以外にも目をつけているやつがいたと思うと、少し複雑だ。

 無論、あの刺すような目つきと、誰も近寄るなオーラ、そして細川先輩の鉄壁のガードがあったからこそ、誰も近づけなかったのだろうけど。私も学校で声をかけていたら、轟沈して二度と顔を合わせられなかったかもしれない。

 2年以上文字を書いていなかった気がするけど、書けなくなってはいなかった。当たり前か……なんの心配をしているんだ私は。

 しかし、履歴書か……。学歴欄には高校中退と書かなきゃいけないよなあ。今さら後悔しても仕方ないけど、やはり高校くらいは卒業しておくべきだった。でも、行けなくなったんだから仕方ない。

「お風呂上がったけど……何してんの? 私と自分の名前なんか書いて」

 そんな回想をしていたら、湯上がり美人が登場した。やはりお風呂上がりでもセンパイの匂いはあまり変わらない。なにかヤバいフェロモンでも出ている説がある。

「バイトの面接に応募したので、履歴書が必要だと思って。2年くらい文字を書いていなかったので、書けるか試してみました」

 センパイに面接のことを報告し、自ら逃げ道を塞いでおく。こうでもしておかないと、面接すらバックレそうなので仕方ない。

「え? マジ? やるじゃん」

「もっと褒めてくれていいんですよ」

「まだ面接にも行ってないだろうが」

 上げて落とすとはこのことか。

「まあ、頑張れ」

「頑張ります」

 センパイからお褒めの言葉とエールをもらった。多分、頑張れる。多分。

「じゃあ、寝るから。一ノ瀬も早く寝なよ。おやすみ」

「おやすみなさい、センパイ」

 いつもより早く寝るセンパイを見送り、私もお風呂に入る。

 早朝に散歩に行く話は生きているはずだから、私も早く寝なければいけない。

 しかし、寝られる気がしない。がっつり昼寝をしてしまったからだ。家に帰ってから、センパイが帰ってくるまで寝ていたとなると、10時間以上は寝ている計算になる。今朝、センパイに「生活リズムを整えるために早起きした」と言ったのに、我ながら大丈夫か? これ。今後、昼に横になるのはやめよう。

 シフト制なら時間帯が自由に選べるけど、そうでない職に就けるのだろうか。

 湯船でいろいろ考えているうちに、のぼせそうになったので湯船から出る。

 ささっと髪を乾かして、水を一杯飲んで床についたが、やはり目が冴えて数時間は寝られなかった。






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