第21話 Happy birthday

 ……なんだこれ。

 いや、夢なのはわかる。こんなことはあり得ない。でも、こんなにはっきりした夢があるだろうか。

 私と一ノ瀬が高校で出会って付き合う。それだけで説明できる夢だった。しかし、あり得ないことが多すぎる。

 一ノ瀬はほぼ現実のままだったけど、私はほぼ別人ではないか。いや、性格はあまり違わなかったけど、一ノ瀬と付き合う私なんて私ではないだろう。勝手に心中でフって、少し罪悪感が芽生える。

 夢の中の私がおかしい理由を考えてみると、京子が出てこなかったからだろうか。

 もし、京子と会わなかったら私は私ではないだろうと考えたことはあるけど、夢の中の私の性格や言動は、それほど現実の私とかけ離れていないように見えた。

 明確な違いは、両親が中学まで家にいたことだろう。でも、いたからといって私にちゃんと接していたのかは夢ではわからない。

 ある日突然、京子の存在がこの世から消え、誰の記憶からも消えたら、私は一ノ瀬と付き合うのだろうか?

 私はそんなに軽薄な人間なのだろうか。いや、そもそも記憶から消えたら軽薄も何もないだろう。

 答えの出ない問答を一人で繰り返す。何もわからない。

 夢は記憶の整理だと聞いたことがある。経験や見たものから作られるそれは、自分の奥底に眠る想いの発露なのかもしれない。

 そう考えると、私は一ノ瀬のことを……。

 いやいやいやいや……。一ノ瀬のことはいい友人だと思ってるけど。付き合いたいかと言われると、そうではないはず……。

 夢についてあれこれ考えても仕方がないので、部屋を出て準備をしよう。変な夢のせいで随分早く起きた気がする。。

 時計を見ると、時刻は8時半。いつもより4時間も早い。

 二度寝する気分でもないので、このまま起きて準備をしよう。そう考えてベッドを出た。

「あ、おはようございます、センパイ」

「はうあっ!?」

 部屋から出ると、いつものように気配を感じさせない一ノ瀬が廊下に立ち、急に声をかけてきたので、また妙な声を出してしまった。

「なんか話しかける度に驚いてません?」

「いや、いつも急に話しかけてくるアンタが悪いんだよ」

「急って言われても……」

 この口ぶりだと、本人に気配を殺している自覚はなさそうだ。自動発動能力か?

「まあいいや。おはよう」

「朝ご飯食べます?」

「えっ、あるの?」

 普段は二人とも昼過ぎに起きるので、この家には朝食という概念が消え失せていた。だから、冷蔵庫には朝食の種になるものは入っていないはずだ。

 京子は早起きで朝食を食べる派だったから、自分で用意して食べていた。

 そういえば、こんな早くに一ノ瀬が起きているのも珍しい。ついに働く気になったのだろうか。

「グラノーラくらいしかないですけど」

「いいや、それで。いつ買ったの? それと牛乳も」

「今朝ですけど」

「え? あの一ノ瀬がこんな朝早くから買い物に行ったの?」

「馬鹿にしてます?」

「ごめんて」

「いい加減、生活リズムを整えたほうがいいかなと思いまして。社会に出なきゃいけませんし」

 一ノ瀬が至極真っ当なことを言っている。お姉さん嬉しいよ。

「えらいぞ一ノ瀬」

「ふんす」

 これでもかというほどドヤ顔をしている。だが、こいつはまだ無職だった。働く気があるので、ニートの定義からは外れるのだろうか? まずはバイトから始めると言っていたが、定職に就いたらお祝いをしてやろう。

 そう考えつつ、器にグラノーラを入れて牛乳を注ぐ。グラノーラなんていつ以来だろう。あまり食べた記憶がないけど。

「そういえばさ、一ノ瀬」

「なんですか?」

「誕生日っていつ?」

 昨夜……今朝?見た夢のことが忘れられず、夢で知ったことと現実の答え合わせをするように尋ねる。

「12月8日ですけど」

「ぶふっ!」

「そんなに珍しい日でした?」

「い、いや……変な所に入っただけ……」

 思わずむせてしまった。

 いやいや、そんなことがあるのか? 今まで知らなかった一ノ瀬の誕生日を夢で知り、それが現実でも同じだなんて。どういう偶然だこれは。

「センパイが蒸発してた間に、誕生日を迎えてしまったんですよねこれが」

 明らかに機嫌悪そうな顔でこちらを見てくる。いや、そんな顔をされても困るのだけど。

「ごめんて。それで、今更だけど何か欲しいものある?」

「センパイ」

「なに?」

「いや、センパイですって」

「ゴホッ!?」

 こいつ、私の夢の監督でもやったのか?

 ロケーションも日時も違うけど、驚くほど展開をなぞられている。

「今日はよくむせますね。冗談ですって」

 誰のせいだと思ってるんだ。

 現実の一ノ瀬と、夢の中の一ノ瀬に全然違いが見られない。私の一ノ瀬エミュレート力が育っているのか? そんな能力、育ててどうする。

「はあ……。で、もう一回聞くけど、何か欲しいものある?」

「うーん、センパイ以外と言われると特にないですねえ」

「いや、冗談だったんじゃないんかい」

「そりゃあ、それを否定したら……ねえ?」

「ねえって……。わかった、私のセンスで選ぶから。文句言わないでよ」

「言いませんよ。多分」

「多分かい」

「よほど変なセンスしてなければ言いませんよ。まあ、センパイのセンスって悪くないとは思ってますから。一応」

「一応かい」

 よくわからない信頼を得ているけど、私は京子以外に何かをあげたことがない。京子には実用性を重視して、ブックカバーや栞をプレゼントしてきた。

 一方、一ノ瀬の趣味は何も知らない。唯一あげたのはタバコくらいだが、誕生日にタバコを渡すのはどう考えても不適切だ。しかも、まだギリ未成年だ。今更だけど。

「センパイの誕生日はいつなんですか?」

「私? 4月8日だけど」

「なるほど。じゃあ楽しみにしててください」

「あんまり期待しないでおく」

「えー?」

 その頃までには、一ノ瀬が働いているといいなあと思いながら、空腹を満たす以外の理由では食べたいと思えないグラノーラを完食し、食器を洗う。

「そういえば、センパイ、今日起きるの早くないですか? 早く出かけたりするんですか?」

 夢の中のアンタのせいだよと言いたいけど、夢の中の一ノ瀬と現実の一ノ瀬は別だから、言っても意味がない。

 ふと思ったけど、高校を辞める前の一ノ瀬は、普段からオドオドした感じだったのだろうか。本人に聞いても教えてくれないだろうし、高校時代の一ノ瀬を知る人物といえば教師くらいしか心当たりがない。

「いや、なんか早く目が覚めちゃってさ」

「じゃあ、これからは私が早めに起こしてあげますよ」

「なんで起こされなきゃならないの」

「だって、一人で起きてても寂しいですし」

「知らんがな……」

「えー、一緒に早朝の散歩とか行きましょうよ」

「えー……」

 今は昼から講義を入れているのをいいことに、昼まで寝るのが日常だが、社会に出たらそうもいかないのは分かっている。

 だから、一ノ瀬の提案を受け入れたほうがいいかもしれない。ただ、だるいという感情が先に立つ。

 いっそ、フリーランスにでもなって、いつ起きてもいいようにするかなどと、将来の事を少し考えた。実現できるかは別として。誇れるスキルもない私が、何で食っていくかもさておき。

「まあいいか。じゃあ、明日から起こしてよ」

「えっ、起きられるんですか?」

「馬鹿にしてんの? というか、アンタは昨日7時に起きられなかったじゃん」

「ぐぬぬ……」

 最近、一ノ瀬を手玉に取れることが増えてきた気がする。私も少しは成長したのかもしれない。

「はい、じゃあ散歩行こうか」

「え? 今からですか?」

「どうせ暇なんだからいいでしょ。ほら、レッツゴー」

 強引に一ノ瀬の手を引っ張って、外へ出た。寒い。

 勢いのまま外に出たから、防寒具も着けてないし、寒いのは当たり前だ。

「さむっ! 明日からにしません?」

「今日寒いって言ったら、どうせ明日も寒いって言うんでしょ。そもそも散歩しようって言い出したのはアンタでしょ」

「き、今日からとは言ってませんしもう早朝でもないですし……」

「屁理屈言うな。そもそも早朝のほうが寒いでしょうが」

 一旦戻って手袋とマフラーを装備する。ちゃんと装備しないと効果は無いのだ。

「あ、センパイだけずるい」

「ずるくないし。そういえば、アンタまだ実家から他の服とか持ってきてないの? 動物園行った時はちゃんとした服着てたけど」

「いやまあ……一人で戻るのが怖くて。服はあれだけ買っておいたんですよ」

「なるほど。なら今から行こうか。今くらいの時間なら大丈夫でしょ?」

「仕事に行ってるでしょうしね。センパイが一緒だと心強いです」

「じゃあ行こう。しょうがないからまたマフラーを貸してやろう」

「恋人巻きしません?」

「誰が恋人じゃ」

「ちぇー」

 この家から一ノ瀬の家まではそれほど遠くないし、11時くらいまでには帰れるだろう。

 1月も半ばを過ぎ、さらに冷え込みが厳しくなった気がする。夏は暑く、冬は寒いこの県は非常に生きづらい。

「セーンーパーイー」

 少し後ろにいた一ノ瀬が呼ぶ声がしたと思ったら、急に後ろから抱きついてきた。何してんだこいつ。

「何してんの……?」

「いや、手が冷たすぎるのでポケットを借りようかと」

「借りようかと、じゃないでしょ。歩きづらいんだけど」

「でも、あったかいですし」

「手袋も欲しいの?」

「いや、このままがいいです」

「殴るぞ」

「は、はひ」

 そういうと一ノ瀬が離れた。なんなんだこいつ。

「なんなの一体」

「スキンシップですよ」

「人目につくところでやるんじゃないよ」

「家でならいいんです?」

「良くないが」

「なんで!?」

 あーだこーだ言いながら寒空の下を歩いているうちに、一ノ瀬の家に着く。

 それにしても、一ノ瀬の父親はいきなり娘がいなくなったことに何も思わないのだろうか? 捜索願を出しているならニュースになるかもしれないが、今のところそんな様子もない。

 一ノ瀬は法律上、すでに成年だから、自立して出ていったと解釈もされるのかもしれないし、私が誘拐犯だとかになったり……しないよな? そもそもあの家で住んでいるのは一ノ瀬の意思だし。

「車がないので、いないですね。入りましょう」

 一ノ瀬が自分の家のクリアリングを完了して、鍵を開けて入っていくのに続く。

 仮に私がいるときに鉢合わせたらどうなるのだろうか。絶対に遭遇したくない展開を想像してしまう。

 大の男と対峙して、一ノ瀬を守れるのだろうか。護身術など習ったことがない私には、到底無理だろう。それは自分でもわかる。京子がいたら投げ飛ばしてくれるだろうけど。

 相変わらず埃一つ落ちていなさそうな廊下とリビングを通り過ぎ、一ノ瀬の部屋に入る。一ノ瀬の部屋も、以前来たときと寸分違わない光景で、この家は時が止まっているのではないかと感じた。

「必要なものを詰め込むので、座って待っててください。冷蔵庫のお茶、飲んでいいですよ」

「いや、いいよ。おとなしく待ってる」

 一ノ瀬がクローゼットを開け、あまり使い込まれていないキャリーケースに服を詰め込んでいる。その中に下着が見えて、思わず目をそらしてしまった。何を意識しているんだ、私は。

 そういえば、私は京子の下着姿を見たことがない。いや、見たいとかそういうわけではない。多分。恐らく。メイビー。

 そんなよこしまなことを考えていたら、あまり時間が経たないうちに、一ノ瀬がキャリーケースを閉じた。もう準備が終わったのだろうか。

「おまたせしました」 

「もういいの?」

「まあ、服と下着くらいしかいらないですし、それもあまり持ってないので」

「そっか」

「もう帰らないでしょうし、持っていかないものは全部捨てていくつもりですね」

 一ノ瀬の部屋を見渡しても、思い出と言えそうなものは何一つない。もともと、この家に未練はないようだ。

 私も、実家にそういうものは殆どなかった。あったのは京子との思い出の品だけ。それも一つ残らず持ち出した。

 実家の私の部屋には、もう私もいなければ、私を構成するものもない。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫……あ、ちょっといいです? 姉の部屋を見てみたくて」

「姉? いたの?」

「いましたよ。母とどこかへ行きましたけど」

 初耳だった。母親は、人が生まれる以上、存在しないとおかしい存在だから、今いないのは何かしら理由があるのだろうと想像はつく。ただ、姉については本人から聞かないと想像もつかない。

 京子にきょうだいがいないことは、本人から聞いたことがあるけど。

「そんな軽く言う話?」

「気にしないでください。ちょっと見てくるので、待っててください」

「わかった」

 そう言って、一ノ瀬が部屋を出ていった。

 私が見ても意味はないだろうし、顔も知らない人物の部屋には興味がなかった。それでも、一緒に来てくれと言われたらどうしようかと思ったところだ。

 一ノ瀬は母親や姉と仲が良かったのだろうか? 父親との関係が最悪なのは言うまでもないから、せめて母親や姉とは悪い関係ではなかったことを祈りたい。

 それにしても、この家はあまりにも生活感がなく、息が詰まる。本当に人が住んでいるのかと思ってしまう。実の娘にあれだけの暴力を振るうのだから、それはもはや人間の形をした何かだと思うけど。

 直接的な暴力がなかったとしても、私は育てることを放棄されていた。ベクトルは違うが、同じようなものかもしれない。

 そんなことを考えていたら、部屋の扉が開いて一ノ瀬が戻ってきた。

「おまたせしました」

「ん、じゃあ帰ろうか」

「何も聞かないんですか?」

「聞いてどうすんの」

「なんで見に行ったのかとか、気になりません?」

「別に?」

「ですかー」

「なんなの。聞いてほしいの?」

「んー……別に何もなかったので言うこともないんですけど」

「なんだそりゃ」

「はっはっは」

 笑っているが、どこかいつもと違う顔をしている気がした。気になるけど、触れないでおこう。

「なにわろてんねん。じゃあ本当に帰るよ」

「はーい」

 一ノ瀬家を出ると、時刻は10時前だった。

 このまま帰っても、まだ時間には余裕があるが、特にすることもないので帰るしかないかと思ったが……。

「コートとかマフラー、持ってなかったの?」

 私のマフラーだけをつけて、相変わらずスウェット姿で寒そうな一ノ瀬に尋ねる。

「えーと……ありませんでした。そういえば、持っていた記憶もないですね。あはは」

「なにがあははじゃ」

「まあまあ、なくても死ぬほどの気温じゃないですから」

「いや、震えてるじゃん」

 そんな格好で早朝の散歩なんか無理だろう。

「あはは……」

「アホなの? 」

「はい、アホです……」

「認めるのか……」

「くっついてもいいですか?」

 返答も聞かずに一ノ瀬が腕を絡ませてくる。

「いいけどさ……まだ時間ある?」

「誰に聞いてるんですか?」

「威張るな。今から買い物行くよ」

「何買うんです?」

「アンタのコートとかだよ」

「えっ? 買ってくれるんですか?」

「そんな格好じゃ、冬の早朝に散歩なんて無理でしょうが」

「気合でなんとか」

「アホか」

「アホですよお」

 一ノ瀬がヘラヘラと笑いながら自嘲した。



 電車で数駅離れた大型ショッピングモールに向かい、早めの昼食を済ませてから店内を物色する。平日の昼前とはいえ、思ったよりも人が多い気がする。

 そういえば、このモールができてから結構経つのに、一度も訪れたことがなかったと気づく。老朽化や規制強化で一度建て替えたらしいが、それ以前にも来たことがない。

 この辺に住む子供たちの溜まり場になっているのは容易に想像できるが、自分にはそのような経験がない。ないない尽くしである。

「あの、センパイ……」

「どうしたの」

「疲れました……」

 朝から実家に行ったり、広いモール内を上下に移動したりしているせいで、引きこもりニートの一ノ瀬が完全に体力の限界を迎えたようだ。貧弱すぎるだろ。

「アンタね……さっきご飯食べて休憩したばかりでしょ」

「そろそろお昼寝の時間でして」

「知らんわ」

 そのまま無視してモール内を進む。案内パネルを見てもざっくりとしか把握できないし、店の雰囲気もよくわからない。結局、実際に見て回るしかない。

「何かお探しですか?」

 ふと目に留まった店に入り物色していると、店員に声をかけられてしまった。普段こういう店で服を買わないので、こういう場面には全く慣れていない。

「えっと……」

「あ、コートとマフラーを探してるんですけど」

 気づけば一ノ瀬が横にいて、助け舟を出してくれた。場所だけ聞いて店員を追い払ったようで、こちらに手招きしている。

「ひどいですよ、置いていくなんて」

「いや、置いていったわけじゃないけど……ありがと」

「センパイって、私とか細川先輩以外と普通に話せるんですか? 心配になりますよ」

「私のことはいいから。ほら、これとかどう?」

 京子以外の同級生とはほとんど話したことがないし、バイトでも同僚とは最低限の仕事に必要な会話しかしていない。世間話なんてまるで覚えがないことをごまかしつつ、一ノ瀬の身長のくるぶしまで着丈のあるコートを手に取って見せた。

「んー……言っては悪いですけど、何でもいいというか……」

「アンタね……まあ、私も着られればいいって感じだけどさ」

「これでいいですよ。センパイのセンスに任せるって言いましたし」

「本当にそれでいいの?」

「なんでもいいというわけではないんですから。私もこれ気に入りましたよ」

 本当かどうかはわからないが、そう言われたら納得するしかない。

「そっか。じゃあ、マフラーと手袋は……」

「あ、私が選んでもいいですか?」

「え? いいけど」

 急に一ノ瀬がそんなことを言い出す。なんでもいいし、私のセンスでいいんじゃなかったのか。

「これがいいです」

 一ノ瀬が手に取ったマフラーと手袋は、私のものとよく似ていた。それを指摘するのは自意識過剰な気がして、やめておくことにした。

 会計を済ませ、モールの外へ出た瞬間、北風が頬を殴りつけてきた。

「さむっ!」

「ほら、今着なよ」

 会計後も、なぜか私が持っていた袋を一ノ瀬に渡す。

「センパイ、ハサミ持ってませんか? タグ紐を切りたいんですけど」

「そんなものあるわけ……あったわ」

「あったんですか」

 こんな状況を想定していたわけではないが、カバンに眉毛用のハサミが入っていた。この小ささでもタグ紐を切るくらいなら十分だ。

 コート、マフラー、手袋のタグを切り、一ノ瀬に渡すと、一ノ瀬がコートを着た。

「おー、あったかいですね」

 スウェットの上にコートを羽織り、まったくいいコーディネートになっていない一ノ瀬を見て、思わず笑ってしまった。

「それはよかった」

「センパイ、ちょっとお願いがあるんですけど……」

「何?」

「手袋とマフラー、交換してもらえませんか?」

「え? そっちは新品なのに?」

「センパイのが欲しくて」

「なにそれ……まあ、いいけど。ほら」

 そう言って、モールに入るとき返してもらったマフラーと、カバンに入れていた手袋を渡した。

「巻いてくれませんか?」

「子供か……ほら」

「あったかいです。ほら、センパイも」

「いや、私はいいから……」

「そんなこと言わないで、はい」

 私の匂いなど染み付いていない、新品のマフラーが首に巻かれる。

「はい、どうも」

「ふふ」

「何笑ってんのさ」

 相変わらず、こういう時のこいつの笑顔は……かわいい。

「嬉しいなあって。センパイのマフラーをもらっちゃいましたし」

「なんか変態っぽい」

「ひどっ」

「はいはい、そろそろ大学行くから」

「りょーかいです。じゃあ、私は帰りますね」

 とはいえ、駅までは同じ道なので、一ノ瀬と横に並んで歩く。

 午前中から歩き回ってそこそこ疲れたせいで、一ノ瀬と一緒に家に帰りたくなるけれど、そうもいかない。留年だけは避けたいのだ。

 モールから駅まで歩き、一ノ瀬とは反対方向の電車に乗る。

 先に電車に乗った私に一ノ瀬が手を振ってきたので、控えめに振り返した。

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