第19話 別々の呼吸を懸命に読み合って

『美鈴、起きてる?』

 起きてる。

 起きてるけど??????え??????

 あまりにも唐突に京子から連絡が来て、頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。

 当然、心の準備なんてできていないし、反応が遅れてやってくる。一刻も早く何か返さなきゃいけない。

『おおおおおおお起きてる』

 手が震えて、思い切りミスった文をそのまま送ってしまった。送ってしまったらもう取り消せない。鼓動が早くなる。普段聞こえないはずの心臓が鼓動する音が聞こえてきて、世界が鼓動以外の音を失ったような感覚だ。

『会って話せる?』

 焦っていることはスルーされて、少し安心したのも束の間、今度は鼓動が止まったような感覚に陥った。

 話せる。もちろん話せる。話したいに決まっている。

 それを伝えなきゃいけない。

 なのに、指が固まって、なかなか動いてくれなかった。

『うん』

 たった2文字しか打てなかった。もっとあるだろ、「いつ?」とか「私も話したい」とか。

『良かった。明日大丈夫? バイトある?』

『うん』

 だから、「うん」じゃないだろう。思い通りに指が動かない。動け、動け、今動かなきゃ、何にもならないんだよ。動いてよ。

『じゃあ、明日夜に行くね。おやすみ、美鈴』

『うん』

 だめだ、これは。こんなんで京子に直接会って話せるのか? せめて「おやすみ」くらい返せよ、私。

 その後、なかなか寝付けなかったのは言うまでもない。


 京子が来るのだから、家の掃除をしなきゃならない。

 年末に大掃除はしたけど、細かい掃除は月2くらいしかやらないし、そもそもこの家が広すぎるのが悪い。

 京子と住んでいた時は、基本的に京子に任せっきりだったなあ、と振り返る。私がバイト漬けだったとはいえ、そこは申し訳なかった。

 京子が出ていって、一ノ瀬と住み始めてからは一ノ瀬が掃除担当になって……結局何も変わってないな?

 そんなわけで、今日からは自分で頑張ろうと思い、寝不足ながらも朝早く起きて、大学に行くまでの間に掃除をすることにした。

 一ノ瀬を叩き起こして手伝わせるか?とも思ったけど、普段掃除は一ノ瀬に任せているので、今日は起こさないでおこう。

 掃除機の音で起きたら仕方ないということで、手伝わせよう。

 まずは拭き掃除から始める。

 クイックルワイパーに乾拭き用のシートを取り付けて、床を拭いていくが、これすらも面倒くさい。

 大掃除したばかりだし、そこまで汚れていないだろうと、つい楽な方へ逃げたくなる。意志が薄弱すぎる。

 二人で住むには広すぎるリビングを必死に拭き、結局シートを4枚も使ってしまった。

 そして、掃除機をかける。腰に負担がかかるから掃除機も嫌いだ。

 コードレスなので、充電が必要なところも面倒くさい。掃除なんて大嫌いだ。

 うんざりしながら掃除機をかけ終えた頃、時刻は10時過ぎ。

 一ノ瀬は掃除機の音でも起きなかった。震度5くらいの地震が来ても起きないくらい鈍感なのかもしれない。

 もしかして起きていて、部屋でゴロゴロしているのかもと思い、一ノ瀬の部屋の扉を開けてみたが、やはり寝ていた。耳栓とアイマスクをつけて。

「こいつ……」

 掃除機のけたたましい音でも起きないとは、そういうことか。というか普段からこうやって寝ているのか、こいつは。

 見なかったことにして、一ノ瀬の部屋の扉を閉じた。

 一ノ瀬の部屋を勝手に覗いて思ったけど、私は京子の部屋に入ったことがない気がする。扉越しに少し見たことはあるけど。

 京子が出ていってから、かなり時間が経ったし、埃が積もっているかもしれない。

 今日は泊まっていくかもしれないのだから、掃除しなきゃならないのだ。

 という名目で、私は京子の部屋に入った。

 あの日以降、そのままの状態で放置されているけど、きちんと整理整頓されていて、私の京子の部屋のイメージと完全に一致していた。

 だけど、ベッドの掛け布団は乱れたままで、主が消えてしまったことを示しているようだった。

 京子の部屋に入るのは、小学生の時以来だ。

 京子の実家の部屋は、女子の一人部屋にしては明らかに広すぎたなと思い返す。京子は高校生までずっとあの部屋で過ごしたのだろうか。

 感傷に浸っている場合じゃない。昼過ぎには出なければいけないのだから、掃除をしよう。床を拭き、掃除機をかけ、埃を取るくらいでいいだろう。

 普通の一人部屋より少し広い程度だから、リビングよりは楽だった。

 掃除を終えて、乱れた布団を整えようとベッドに近づくと、ベッドの小物置き場に写真立てが並んでいるのが目に入った。

 見てもいいものかと少し悩んだが、一度目に入ってしまうと、視線と意識が奪われてしまう。

 写真には、私と京子が二人で写っていた。

 幼稚園の卒園式から高校までの入学式、卒業式の計7枚。

 向かって右側が私で、左が京子。それぞれが違う利き手でピースをして、反対の腕同士を組んでいる。どれも全部、同じだった。

 そう、ずっと一緒だったんだ、私たちは。

 大学は別々になり、京子は実家に戻ってしまった。どこでボタンを掛け違えてしまったのだろう。

 すべては私のせいだと思う。

 京子と同じ大学に行けるわけがない、女同士で好き合うなんておかしい。

 何もかも、最初から無理だ、意味がないと諦めてしまっていたのだ。

 だから、次こそは後悔したくない。

 もう、京子から何かをもらいたくないなんてことは言わない。我儘になろう。

 そんな決意を胸に、大学へ向かった。



 寝不足と、今夜のことでソワソワして、試験が目前だというのに講義の内容が全然頭に入らなかった。

 ただでさえ後期の講義を2ヶ月もサボったせいで、果てしなくヤバい。全落単もあり得る領域だ。

 このまま全部を取ろうとするより、必修だけに絞ったほうがいいかもしれない。

 相変わらず自分から友人を作る術を知らないので、大学に友達がいないのは言うまでもなく、試験の過去問や傾向の情報も手に入らない。頼れるのは自分だけだ。

 バイトも、当然ながら身が入らなかったが、やることは無意識にこなせるから、多少能率が下がるくらいで大きな影響はなかった。いっそここに就職したほうがいいかもしれないが、大学に行っている意味がなくなる。

 タイムカードを切って携帯を見ると、京子から「もう家にいる」との連絡が来ていた。

 「今から帰る」、と返答しておく。今度はちゃんと返せた。

 今日は無理を言ってシフトを短くしてもらっていたから、ちょうど良かった。

 しかし、一ノ瀬が多分家にいるだろうし、一ノ瀬が迎えたのなら京子はさぞ驚いただろう。

 今は一緒に住んでいると伝えておけば良かったかもしれないが、そこまで気が回らなかったし、動転していたから仕方ない。

 まあ、多分一ノ瀬が説明しているだろうからヨシ。

 一刻も早く帰りたいが、京子が来ているので、ケーキを買っていこう。

 閉店間際に滑り込みでケーキ屋に入り、何を買うか悩む。

 自分と京子の好みはわかるが、一ノ瀬の好みはわからない。適当に買っていけばいいだろう。

 店員さんに迷惑をかけないよう、なるべく早く選んで店を後にした。

 家に近づくほどに動悸が激しくなる。何故だ。緊張しているのか私は。

 いつも通り家に帰るだけ。ただそこに、京子がいるだけだ。

 数ヶ月前は当たり前だった状態だ。ただそれに戻るだけ。たった数時間かもしれないけど。

 オートロックに近づくと、さらに足取りが重くなった。手袋を外して立ち止まり、カバンから鍵を探す。こんな動作、歩きながらすればいいのに、足が止まってしまう。

 再び歩き出すと、まるで鉄下駄を履いているかのように足が重く感じる。服やカバンの重さが10倍になったようだ。持っているケーキの箱まで重く感じる。

「何してるんですか? センパイ」

「ほああ!?」

 何度目だこれは。気配もなく近づいて、いきなり後ろから声をかけないでほしい。

「今から帰るって言っておいて、全然帰ってこないものですから、迎えに来たら亀みたいな速度で歩いてるセンパイを見つけたわけですけど」

「いちいち全部説明しなくていい」

「ははーん、緊張してるんですね?」

「……」

 何も言い返せない。実際、嘔吐しそうなくらい緊張している。

「ほら、細川先輩が首を長くして待ってますよ」

 一ノ瀬が私の左手を握って歩き出した。冷たい手の体温が伝わる。いつから待っていたんだろう。

 でも、その冷たさが私の頭を少し冷やしてくれる。少し、緊張がほぐれた気がする。

 亀のような歩みだったのが嘘みたいに、あっという間に玄関にたどり着く。

 一ノ瀬が出てきているのだから、鍵はかかってないはず。後は扉を開けるだけだ。

「じゃあ、頑張ってくださいね。センパイ」

「え?」

「いや、私お邪魔でしょう? だから、タバコ吸ってこようかと」

 私は邪魔だとは思わない。それに、一ノ瀬をこの寒空の下に放り出すわけにもいかない。

「邪魔じゃない。一緒に聞いて」

「へっ? いや、でも……」

「いいから来る!」

 自分でも引っ込みがつかなくなって、一ノ瀬の手を引っ張り、家に入る。

「ただいま!」

「も、戻りました……」

「お、おかえり……」

 外でのやりとりが聞こえていたのだろう、京子が少したじろぎながら出迎えてきた。

「久しぶり、京子」

「美鈴、元気だった?」

「あんまり。そっちは?」

「全然」

「そっか。一緒だ」

「じゃあ私は部屋にこもってますので……痛い痛い!引っ張らないでください!」

 逃げようとする一ノ瀬の腕を、釣り竿にかかった獲物のように引っ張り上げる。

「逃げんな」

「鬼ですかセンパイは。なんで夫婦喧嘩を聞かされないといけないんですか」

「誰が夫婦だ」

「めっちゃ仲良いじゃん、二人とも」

「いいから早く話始めてくださいよ。そのケーキは私が並べますし、お茶も用意するんで」

「うん。ありがと」

「で、何から話そうかな……まず、あの日はごめん」

「いいよ……京子だって辛かったのはわかるから」

「美鈴に会わなきゃ良かったなんてことはない。絶対に。だけど、あの時私の口から出たのは嘘じゃなかった。美鈴と会わなければ、こんなに苦しまずに済んだと思ってさ。でも、美鈴と会わなかった私って私だと思う?」

 哲学じみたことを聞いてくる。

「それは……わからない」

 京子に出会わなかった私は、私ではないことだけは確かだ。

 京子は私に会わなくても、順風満帆に過ごせただろう。最初の出会いの時から、そう思っている。

 幼稚園で初めて会った時、知らない場所と人に囲まれて萎縮していた私に、京子が明るく話しかけてくれた。

 その性格の良さや明るさ、控えめに言っても優れた容姿、生まれ持った環境。どれもが、客観的に見てプラスだ。

 私は京子のマイナスにもプラスにもなったのだろう。

 できれば、プラスだけでいたかった。マイナスの塊のような私が、それを願うのは傲慢かもしれないけど。

「美鈴と出会って、私は壊れたんだと思うんだ。会わなければ、親の言う通りに人生が進んでたと思うし。まあ、もう元に戻り始めてるけど」

 京子は、悲しそうに笑いながらそう言った。

「ねえ、京子」

「ん?」

「もうここには戻れないの?」

「無理かな。親も実家を出るの反対だったし、私が戻って安心してるから、色々と面倒な話が進んじゃって。戻った私が悪いね」

「そっか……」

 予想通りの答えだった。私達は、もう、修復不能な所まで来てしまっている。それなら……。

「でも、会える時は会おう。また連絡するから」

「京子」

 京子を真っ直ぐに見つめる。

「な、なに?」

「山に登らない?」

「え?」

「前に登ろうって言ったでしょ。だから、一緒に登ろう」

「それはいいけど……今は季節的に厳しいし、春か秋だね」

「じゃあ、秋。私も色々準備したいし、心の準備とか」

「わかった。登山具どうする? 揃えるなら付き合うよ」

「じゃあお願い」

 多分、一度きりの登山になるかもしれないけど、それでも少しでも長く京子と一緒にいたいと思い、お願いした。

「わかった。都合のいい時に連絡するね」

「ん」

「話がまとまったようなので、ケーキですよー」

 空気読みの達人かこいつは。

「ごめん、一ノ瀬。待たせた」

「おかげで紅茶もコーヒーも冷めましたよ。我慢して飲んでくださいね。お二人とも砂糖は入れます?」

「んー、欲しいな。今日はなんとなく甘いほうがいい気分」

「はい、どうぞ、細川先輩」

 一ノ瀬が京子にスティックシュガーを手渡す。

「ありがとう」

 気のせいかもしれないけど、この二人、あんまり気まずさや距離感がない気がする。会ったのはこの前の一回だけのはずだけど、私が帰ってくる前に打ち解けたのだろうか。

「そういえば、京子、一ノ瀬が家にいて驚かなかった?」

「いや? なんで?」

ん? 驚かなかったのだろうか?

「ほらほら、どれ食べますか? 早くしないと私が取りますよ」

「いいよ、一ノ瀬からで。京子もいいよね?」

「うん」

「じゃあ……チーズケーキいただきます」

「京子はモンブランだよね」

わかっているので、モンブランを取って渡す。

「ん、ありがとう」

そして、私は残ったレアチーズケーキを取る。

「女子会って感じですねえ」

「美鈴と私はよくやってたもんねー」

「いや、そんなにやってないでしょ」

「はいはい、ごちそうさまです」

「2人に流されちゃった。悲しい」

 3人で女子会するのは楽しい。またやりたい。やれるかはわからないけど。

「京子、今日泊まってく?」

「そのつもり」

「そっか。よかった」

「何? また一緒に寝たいって?」

「えっ、一緒に寝たことあるんですか?」

「あーあー!!!」

「あ、その反応はやっぱりあるんですね……」

「美鈴、わかりやすすぎでしょ……」

「……疲れたしもう寝る」

「あーあ、細川先輩がいじめるからセンパイが拗ねちゃいましたよ」

「ごめんって」

「いや、本当に疲れたから。マジで寝る」

実際、本当に疲れている。寝不足のまま朝から掃除、講義、バイト、そして今。精神的にも肉体的にもハードな一日だった。

京子との話も終わって気が抜けると、疲れがどっと押し寄せてきた。今すぐにでも寝たい。

「そっか。明日って空いてる?」

明日は土曜日で、普段なら朝から晩までバイトだけど、何かあるかもしれないと思って休みにしておいた。

「空いてる」

「一ノ瀬は?」

「私ももちろん。言うまでもなく」

「威張って言うんじゃないよ」

「じゃあ、三人でどこか遊びに行こうか」

「え、私もですか?」

「私と遊ぶのは嫌なの?」

「いや、そんなことは全くないですけど。でもお金が無いですし」

「じゃあ一ノ瀬の分は出世払いで、美鈴と私で立て替えるとしよう」

「え? 私も?」

「あー、センパイが、私がいるのが不満だから払いたくないって言ってますよ」

「いや、言ってないしそんなこと」

「じゃあ何が不満なの?」

「いや、どうせ返すなら別に私が払わなくてもよくない……?」

「気持ちの問題でしょ。感謝の対象が二倍みたいな。わかってないなあ美鈴さん」

「そーですそーです」

 なんでこいつらこんな仲良しなんだ……。ものすごく気になる。

「全然分からん……マジでもう寝るから。おやすみ」

「じゃ、明日7時起きね」

「「えー……」」

 私と一ノ瀬の嫌そうな声がシンクロした。

「なんでアンタも嫌そうな声出してんの?」

「だって7時なんて時間に起きたことないですし」

「んなわけあるか。じゃあ、おやすみ。二人も早く寝なよ」

「おやすみ、美鈴」

「おやすみなさい、センパイ」

 今まで1つだけ返ってきていた「おやすみ」が、2つ返ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る