第16話 涙で濡れた部屋に

 あの後、京子はすぐに走って消えた。それから、気づいたら私は家にいたらしい。「らしい」というのは、今ここに私がいるからそうだろうという推測だ。

 京子に「あの言葉」を言われてから、プツンと電源が切れたように記憶がない。それからは、ただ生きるために自動的に動いていたのだろう。もう、生きていても仕方ないのに。

 私のすべてを否定することを言われたのだから、そうなるのは当然だ。

 それでも、自動で動いている間に死を選ばなかった私の深層心理は、一体どういう構造をしているのだろうか。

 まだ、生きる理由があるのだろうか。

 なぜ、こうして意識が戻ったのだろうか。

 今は何月何日だろう。確認しようと携帯を手に取ったが、電池が切れている。

 あの日、京子から連絡が来たときは半分くらい残っていたはずだ。どのくらい放置していたのだろう。

 ひとまず携帯を充電して、テレビをつけて番組表から日時を確認する。

 10月17日、午前3時24分。あれから半月ほど経っていた。

 冷蔵庫には何もない。自動運転の私がすべて食べ尽くしてしまったのだろう。ひとまず、何か食べるものを買いに行こう。

 まだ電源がつかない携帯は持たず、財布とタバコと携帯灰皿だけを持って外に出る。

 秋も少しずつ深まっていて、夜はそれなりに冷える。残暑シーズンの格好で出てきてしまったのは失敗だった。

 いつもの公園前のコンビニでおにぎりと飲み物を買って、公園へ向かう。

 ベンチを照らす電灯は切れかかってチカチカしている。かなり鬱陶しい。

 ベンチに座っておにぎりを頬張る。京子はもう帰ってこないのだろうから、高校までの頃のように、こういうものだけを食べる生活に戻るのか。

 京子が帰ってこないのに、あの家に住み続けていいのだろうか。良くないに決まってるけど、どうすればいいのか分からない。実家に戻ればいいのか。誰もいない実家に。

 あの家を出てから、母とは連絡も取っていないし、まだあの場所に住んでいるのかも分からない。そもそも、中学に入ってから顔を見たのは片手で数えるほどしかないし、会話をした記憶もない。

 考えるのが億劫になったので、積み重なっている問題を意識の外へ移し、タバコに火をつける。

 結局、飲酒は習慣にならなかったけど、タバコは習慣になってしまったようだ。だいたい一ノ瀬のせいだと思うけど。

 帰ったら一ノ瀬に謝ろう。長い事連絡もせずに、公園に来なかったのだからきっと怒ってるだろうし。もう大丈夫……ではないけど、明日は一ノ瀬と会おう。と、この時は軽く考えていた。

 夜……? ご飯を食べて帰路につく。

 最低限、起動できるくらい充電された携帯の電源を入れると、大量の通知が表示された。

 一番最初の通知は……京子からだ。手が震える、吐き気がこみ上げる、目がチカチカする。パンドラの箱を開けるような気分で、全文を表示した。

『ごめん。その家は卒業まで住んでていいから。私はもう帰らない。今までありがとう、美鈴』



 また記憶が飛んでいる。床には吐瀉物。何が起きたのか、見ればわかる。

 この前の出来事も、あのメッセージも、すべて夢だったらよかったのに。目が覚めなければよかったのに。

 床をこのままにしておくわけにはいかないから、とりあえず掃除をしよう。せめてトイレで吐けよ、私。見た瞬間吐いたんだろうけど。携帯も少し汚れているが、壊れてはいなかった。

 今回は昨日までのように長い時間が飛んでおらず、10月18日の朝だった。

 台所へ雑巾を取りに行き、部屋に戻ろうとすると、床が点々と濡れていた。

 さらに床を濡らしながら、部屋に戻り、自分の吐瀉物を拭き取る。

 吐瀉物を拭き取っても、上から降るものが床を濡らす。拭いても拭いてもきりがない。

 このまま、私の体から水分が漏れ続けるような錯覚を覚える。

「うっ……あああああ……」

 小さい穴が開いたような漏れ方から、ダムが決壊したような溢れ方に変わる。

 床にうずくまって、赤ん坊のように泣き喚く。

 京子は、今更私一人置いて、構わず消えていった。

 京子は私が一人で生きていけるように、母の代わりに生きる術を教えてくれた。それは、いつかこの日のためだったのだろう。

 生きてはいける。でも、それは「生きている」と言えるのだろうか。

 人が「生きている」と言うには、生きる理由が必要だと思う。

 おいしいものを食べたい、見ているドラマの続きが見たい、ゲームの続きをやりたい。どんな些細なことでもいい。

 だけど、生きる意味がなくなったのに生きているのは、ただ死んでいないだけの存在だ。今の私はそれになってしまった。

 でも、自死は選ばない。選んでしまったら、私のすべてを自分で否定してしまうことになる。

 卒業までに、この先どうやって生きるか考えようと思っていたのに、ずいぶん早まってしまった。

 やっぱり、私は全然覚悟ができてなかったよ、美鈴。

 いつまでもうずくまって泣いていると、下の階に涙が染みそうだったので立ち上がる。

 他の通知を確認すると、一ノ瀬とバイト先からだった。

 バイト先には、突然体調を崩したと送っておいた。嘘ではない。適当に謝っておいたら、クビにはならずに済んだ。

 一ノ瀬は……毎日0時にメッセージを送ってきていて、着信も何度かあった。なんとなく、既読をつけないように確認する。

『今日はこないんですか?』『大丈夫ですか?』『もしもーし』『生きてますかー?』

 本気で心配してくれているのだろう。一ノ瀬は、そういうやつだ。

 一ノ瀬は、こんな私を助けてくれるだろうか? 頼めば助けてくれると思う。私にはもう、一ノ瀬しか頼れる相手がいない。

 でも、こんな自分勝手な理由で一ノ瀬を頼りたくないし、合わせる顔がなくなっていた。

 『当分会えない』

 それだけを送って、携帯の電源を切った。



 あれから、なんとか講義にもバイトにも出られるくらいにはなって、気づけば12月も後半になっていた。

 バイトに関しては、体調を理由に少し時間を減らしてもらって、9時過ぎには帰れるようになった。

 それはそれとして、単位がかなりヤバい気がする。二ヶ月半も講義をサボってしまったし、そもそも行く意味あるのか?という状況になっている。

 ……一ノ瀬は公園にいるだろうか。様子を見に行ってみようか。いつもの時間より3時間ほど早いのだから、いるわけがないだろうけど。

 あんなにも一ノ瀬に会うことを拒んでいたのに、足が自動で動いているかのように、公園に来てしまう。

 切れかけていた電灯はついに切れて、ベンチの周りは深い暗闇に包まれている。

 これでは誰がいるかわからない。人の気配は感じないけど、一ノ瀬はもともと気配を感じさせないやつだから、もしかしたらいるかもしれない。

 携帯のライトを照らしてベンチの周辺を探してみたけど、誰もいなかった。

 どこかホッとしている自分がいる。一ノ瀬に会いたいのか、会いたくないのか、どっちなのだろう。

 コンビニで買った66番のタバコは、渡す相手がいないから意味のないものになってしまった。前に一ノ瀬と一本ずつ交換して、吸ったことがあるけど、私の好みではなかったから自分で吸いたくはない。一ノ瀬も、私が吸っているやつは好みではないようだった。

 ベンチに置いていこう。もし一ノ瀬が来ていたら拾っていくだろう。他の誰かに拾われてしまうかもしれないけど。

 そうして、そっとタバコだけを置いて、公園を後にした。



 翌日、12月24日。クリスマスイブ。

 私は特に思い入れはないけど、世間的には特別な日らしい。

 小学生の頃、京子がクリスマスパーティに呼んでくれて、一緒に過ごしたことを思い出す。思い出らしい思い出はそれだけだ。

 特に何も変わらない一日を過ごして、帰路につく。ただ過ぎていくだけの時間が流れる。

 昨日置いたタバコはどうなっただろうか。気になって公園に来てみた。

 相変わらず切れたままの役に立たない電灯の代わりに、携帯のライトでベンチを照らすと、タバコはなくなっていた。

 一ノ瀬が持って帰ったのだろうか。それを確かめる術は……あるけど、ないことにしておこう。

 目的を果たしたし、帰ろう。公園を出て、家へ向かう。

「センパーーーーイ!!!!!!」

 ぎょっとして振り向くと、100メートルくらい後ろに一ノ瀬がいた。

 私は全速力で走り出した。履いている靴がスニーカーでよかったと思う。

「何で逃げるんですかーーーーー!?」

 無視して持てる力のすべてを、走ることに向ける。全速力で走るのなんて、高校の体育祭以来だ。

 それも、200メートルしか走ったことがない。家までは近いとはいえ、1キロくらいある。このまま走り抜けるのは絶対に無理だ。すでに肺も脚も悲鳴を上げている。

 振り向いて確認すると、距離は縮まるどころか開いていた。一ノ瀬、足遅いな……。

 息も絶え絶えになりながら家にたどり着き、オートロックを開けようとカバンの中から鍵を探すが、こういうときに限ってすぐ見つからない。

 モタモタしていたせいで、一ノ瀬に追いつかれてしまった。根性あるな、こいつ。

「はっ……はっ……な、なんで逃げるんですか……センパイ……」

 限界を迎えたようで、一ノ瀬が喋りながら倒れ込んだ。

 とりあえず、倒れた一ノ瀬を家に運び込んだ。

「だ、大丈夫? 水、飲む?」

「はあ……はあ……し、死にそうです……」

 あれから10分くらい経っているのに、一ノ瀬の呼吸は整わない。引きこもりニートがいきなり激しい運動をするとこうなるのか。結局、一ノ瀬の呼吸が少し整うまでに30分ほどかかった。

「で、なんで逃げたんですか?」

「それは、その……」

「連絡しても全く反応ないですし、電源は切ってるし、公園にも来てくれないし」

「ご、ごめん……」

「ごめんじゃなくて、なんでって聞いてるんですけど?」

 珍しく一ノ瀬が怒っている。

「まあ、聞かなくてもだいたいわかりますけど」

「まあ、うん……京子に会わなきゃよかったって言われた」

 自分で口に出すのも辛くて、涙が溢れそうになる。

「はあ? あの細川先輩がそんなことを?」

「それから私も記憶がなくてさ。気づいたら半月くらい経ってて」

「なるほど」

「それで、一ノ瀬にも会わせる顔がないなって思ってさ……」

「へえ……それでタバコだけを公園に置いたりとか?」

「あれ、やっぱり一ノ瀬が拾ってたんだ。その……無視しててごめん。本当はあんなこと送らずに、謝らなきゃいけなかった」

「別に……いいですよ。私はセンパイに会いたくて会いたくて、毎日毎日その辺を駆け回ってたのに、今日まで会えなかったことくらいしか怒ってないですから」

 どこまでが本当なのかわからないけど、忸怩たる思いがこみ上げる。

「う……その……ごめん」

「いいですってば、もう。それで、どうするんですか? どうしたいんですか?」

「どう……したいって?」

「細川先輩との関係、このままで終わっていいんですか?」

 よくない。言い訳がない。だが、ああなった京子に何を言えば、何をすればいいのだろうか。

「よくない……けど、どうしようもないでしょ」

「どうしようもないことはないでしょう。今までの関係が修復できなくても、いい方向に進まなくても、最後に会って文句の一つや二つ言うとか、やり残したことがあるでしょう?」

 ……それはそうだ。私はまだ、京子に面と向かって好きだと伝えたことがない。

「で、でも、言ったって何にもならないから……」

「あーもう、じれったいですね!なるとかならないじゃなくて、自分がどうしたいかで考えましょうよ!」

「私がどうしたいか……」

 京子の気持ちは置いておいて、私が京子に何を伝えたいのか。京子と何をしたいのか。

「山に登りたい」

「山?」

「小学生の時にさ、京子が家族と登山に行ったんだって。その時に見た星空がすごかったって。それで、いつかその山を一緒に登ろうって言ってたんだ」

「センパイは登山未経験でしたよね」

「まあ、うん。その山は小学生の京子でも登れた初心者向けらしくてさ。だから、今の私でも行けるかなって思うんだけど」

「もう冬ですし、挑戦は春先ぐらいでないと厳しいんじゃないですか? 私も登山したことないのでよくわかりませんけど」

「それは確かに。あと道具とかも必要だよね」

「じゃあ、ゆっくり準備していきましょう」

「ありがとう、一ノ瀬。相談に乗ってくれて」

「なんですか改まって。私は都合のいい後輩なので、使い倒してくれていいんですよ?」

「なにさ、使い倒すって」

「えへ。まあ、それは置いといて、センパイ、期間限定で一緒に住みましょうか?」

「な、なんでいきなりそうなるの?」

「だって、今のセンパイ、危なっかしいですから。私が見てないと、なにかの拍子に消えてなくなってしまいそうですし」

 それは……そうだ。ひょっとすると、私の飛んでいた意識は一ノ瀬によって呼び戻されたのかもしれない。

「でも、食費とかどうするの? 私はそこまで払えないけど」

「いい加減、働こうかと思ってて」

「ええ!?」

 天地がひっくり返るくらいの驚きの一言が発された。

「驚くところですか!?」

「だってニートのアンタがいきなり働くとか言うから」

「まあ、事実だからしょうがないですけど。いい機会ですし、自立してあの家を出ようかと思うんですよ。いつまでもあの男に養われてるのも癪ですし」

「それは、うん。いいと思うよ」

「そういうことで、楽しい共同生活を始めましょうか」

「ていうか、アンタ家事は何ができるの?」

「あー、馬鹿にしてますね? こう見えて料理以外は一通りできるんですから」

「結局、二人とも料理はできないわけだけど」

「それは……頑張りましょうよ! 二人で!」

「まあ、うん。頑張る」

 京子が出ていった家に、一ノ瀬が来て、私にも一つ、生きる目標ができた。

 ひとまず、人に戻れたことに安堵した。

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