第12話 怖かったら叫んで欲しい
センパイからの連絡を待つこと2週間、ようやく「明日都合がついた」と連絡が来た。
普段から思っていたけど、0時過ぎにしか会えないし、本当に忙しいのだろう。
その忙しい合間を縫って、私に会いに来てくれている……かはさておき、センパイは毎日公園に来てくれていた。
何もない私にとって、センパイと話す30分は待ち遠しい時間で、今や欠かせないものになっている。
その30分が何倍にもなる日が、1日でもあるかと思うと楽しみで夜しか眠れない。
今日もセンパイと会うまで、何も意識せず、ただただ時間を飛ばすように過ごす。
親が家にいるとき、無闇に家を歩き回ると、穀潰しだの出来損ないだのと罵られ、殴られるから、私は息を殺すようにして生活している。
おかげで、親が帰ってくるとトイレに行くことさえままならない。
この家を出るのが一番だと思うが、またあの時のように身体が壊れてしまうかもしれないと思うと、恐くて踏み出せなかった。嘘だけど。
「普通」の人間のレールを外れて何年も経った私は、今さら戻ることもできず、ただ無為に歳を重ねている。
あの日、「細川先輩」と「センパイ」が一緒にいるのを見てから、私の中で何かが狂い始めたのは、間違いない。
だから、「私」が「センパイ」と一緒にいることで、私の何かが修復されるのではないか。そんなことを期待して、センパイとの距離を縮めようとしている。
再会……?してからセンパイと仲良くなれているという実感が嬉しかった。向こうはどう思っているのかわからないけど。
そういえば、自分から誘っておいて自分の懐事情について確認をしていなかった。
ろくに稼いでいないのに、どこで遊ぶのだろうか。
いくらなんでもセンパイに全額奢ってもらうわけにもいかないし、ましてや父がお金を出してくれるわけもない。
タバコ代もかかっている。センパイはタバコが無くても来てくれるだろうけど、私が吸わないと落ち着かないようになっているので欠かすことができない。
どうしよう、困った……今日センパイに相談してみよう。そもそも、どこで遊ぶかもまだ決めていないし、それによって予算も変わるだろう。
時間を確認すると23時を回っていた。そろそろ公園に向かおうと部屋を出て玄関に向かうと、普段この時間にはいない父に遭遇してしまった。絶望的だ。
「こんな時間にどこへ行くんだ?」
「関係ない。話しかけないで」
そう言うと、すぐに右手が私の頬を叩いた。
「うっ……」
「何だ、その口の利き方は?自分の立場がわかってるのか?」
「子供に手を上げておいて、何が立場だよ」
今度は拳が顔に飛んできた。
「ぐっ……ううっ……」
痛い痛い痛い痛い。
「何度しつけても分からないな、お前は」
痛みでうずくまっていると、横腹に蹴りが飛んできた。
「あぐっ……がはっ……」
「お前は、誰に、食わせて、もらっているんだ?ええ?」
何度も蹴られ、サッカーボールのように体が転がる。追い打ちをかけるように、すかさず顔を床に叩きつけられ、床にこすりつけられる。痛みで呼吸ができない。五臓六腑が悲鳴を上げる。口の中が切れる。鼻血が出る。脳髄が揺れる。世界が回転する。
痛みに耐えるうちに、限界を超えたのか意識が途切れた。
目が覚めると同時に痛みが襲う。体を起こすだけで激痛が走り、のたうち回りそうだ。
どれくらい気を失っていたのか。時計を確認すると、2時を指していた。
「セン……パイ……」
痛みに耐えながら家を出た。いつもの時間から2時間も経っていて、センパイがまだいる保証もないのに。
家から公園までがとても遠く感じる。高校に行けなくなった日のように、手足が千切れそうな感覚になる。
いつもなら10分もかからない公園の入口に着いた頃には、もう3時を回っていた。
センパイはもう帰っているに決まっているのに、私はいつものように公園に来ている。同じ時間に同じように動く命令を刻まれたロボットのようだ。
「一ノ瀬……?」
痛みに意識が集中していて、周りが見えず、意識の外から声が聞こえた。
「ちょっと……大丈夫なの? その顔……」
ああ、センパイが私を心配してくれている。それだけで少し痛みが和らいだような気がした。
「大丈夫じゃないです……」
素直にそういった。
「連絡したのに出ないから、その、心配したんだけど」
携帯を確認すると、確かにメッセージと着信が何度も来ていた。
「すいません、見てのとおりで……」
「誰にやられたの?」
「父にです」
「そ……う……」
「それはそうと、遅れてすみません。本当は明日のことを相談したかったんですけど、こんな顔じゃ遊びにも行けませんね」
「そんなことはいいから……顔以外は大丈夫?」
「お腹を蹴られて……今もすごく痛いです」
「ちょっと見せてみて」
「センパイ、恥ずかしいです……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
そう言うと、センパイは私の服を少しめくった。
「青あざができてる。どれだけ強く蹴られたの?」
「それはもう意識を失うくらいに」
「……一ノ瀬の親って、普段からそんな感じなの?」
「今日は運が悪かったんです。普段は絶対に顔を合わせないようにしてますから。顔を合わせるとこうなってしまうので」
「そっか……」
私がこんな状態になっているせいかはわからないけど、センパイの顔がいつもより沈んでいる。そんな顔は見たくなかった。
あのときよりはマシだけど、私のせいでそんな顔をさせてしまったことが、体の痛み以上に心を傷つける。
「……今日はウチに泊まっていきなよ」
「へ……?」
センパイが急にそんなことを言い出して、思わず変な声が出てしまった。
「家に帰ったらまた何をされるかわからないでしょ?」
「それは……そうですけど……いいんですか?」
「いいから。ほら、時間も遅いし、早く」
そう言って、センパイは私の左手を取った。
「センパイの手、暖かいですね」
季節は秋を迎えて、夜は少し冷えるようになっているから、余計にセンパイの手が暖かく感じた。
「言わなくていい」
「あの、ありがとうございます。それと、遅れてごめんなさい」
「私だって前に3時間待たせたんだから、これでおあいこでしょ」
そう言われて、思わず涙が出た。
「すみません、本当にすみません……」
「いいから……」
そう言って、センパイは私の頭を撫でてくれた。
「ここから家まですぐだから」
そう言って、センパイは再び私の左手を取ってゆっくり歩き出した。
「歩ける?というか、その状態でよくここまで来られたね」
「なんとか……。どうしてもセンパイに会いたくて、死にそうになりながら来ました」
「あのね……携帯くらい確認しなさいよ」
「体中が痛くて、それどころじゃなかったんですよ」
「それは……うん、ごめん……」
「なんで謝るんですか?」
「私も親とはうまくいってなかったというか……放置、育児放棄?ってやつを受けててさ」
「そう……なんですか」
「一ノ瀬みたいに殴られたことはないんだけど、親はほとんど家にいなくてね」
「……」
「だから……私たちは似てるのかなって」
「そうですね……。センパイはもう実家を出てるんですか?」
「うん、実家を出て京子と一緒に住んでる」
思わぬ情報にピシッと心にヒビが入る音がした気がする。
それって同棲では?それで付き合っていないってどういうこと?どちらも初心すぎるのでは?理解不能理解不能……。
「それって、私お邪魔じゃないですか」
言いたいことは山ほどあるけど、簡潔に意地悪く言ってみる。
「あのね……前にも言ったけど、付き合ってないから」
「でも、好き、なんでしょう?」
動揺を隠せず、少し不自然な言い方になってしまう。
「……」
あの時と同じ顔だ。頭からつま先まで痛いのに、吐き気まで起こさせないでほしい。今すぐ吐くほどではないけど、生唾が出てくる。
「煮え切らないですねえ……細川先輩がそんな調子だと、私がセンパイを奪っちゃうかもしれないのに」
「は、はあ!?」
「冗談ですよ」
冗談じゃない。本当にそう思う。私は……センパイのことが好きで、好きで、大好きだった。あの時からずっと。
あの時は物陰から見ているだけで十分だったのに、センパイとの距離が近づくにつれて、もっと一緒にいたくて、話したくて、独り占めしたくて、それ以上のことを求めるようになった。
あの頃は、いくらでも話しかけるチャンスがあったのに、それをしなかった。
そして、そのチャンスももうないと思っていたのに、再び巡ってきて、今に至る。
これはきっと神様が与えてくれたチャンスだと思う。
「変な冗談言わないで」
「はーい」
「ほら、着いたよ」
話している間に着いていたらしい……なんだこの豪華なマンションは。家賃いくらくらいするんだろう。
「なんというか……大学生が2人で住む場所じゃないですよね?」
「私もそう思う」
センパイは少し笑ってそう言った。
「だから、毎日遅くまでバイトを?」
「まあ……それも半分くらいあるかな」
センパイがそう話しながら、オートロックの扉を開けた。
「京子、起きてるのかな……」
「私が二人の愛の巣にお邪魔して、本当に大丈夫ですか?」
「だから、そんなのじゃないから……大丈夫だし……」
「自信なさそうですね」
「だってこんな経験今までなかったから……話せばわかってくれると……思う」
虐待されている少女を匿う素晴らしい行動なのだから、称賛されこそすれ非難されることはないはずだ、と私も思う。
「まあ、お邪魔なら私は帰りますから」
「ダメ、絶対に返さない」
センパイが今までにないほど力強く言い切った。
「……なんか、それ口説いてるみたいですよ?」
「はあっ!?」
「近所迷惑ですよ」
「ご、ごめん……」
センパイは本当に優しいのだ。だからこそ、私は前よりも好きになってしまった。
「はい、ここが私たちの家」
そう言いながら鍵を開け、扉を開けた。
「私たち」というのが引っかかるから、いちいち言わないでほしい。
「ただい……」
センパイが言いかけて止まった。目線の先を見ると……。
「おかえ……誰……?それ……?」
「えっと……その……友達?」
疑問形にしないでほしい。そこは言い切ってほしいのに。
「呉島先輩の友達、一ノ瀬真央です。どうぞよろしく」
とっておきの余所行きの顔を作る。青あざと切り傷まみれだけど。
「その……一ノ瀬は家で虐待を受けてて、そのまま家に帰るとヤバそうだから……」
捨て猫を拾ってきて、親に怒られている時のような弱々しさだ。細川先輩の前だとこういう感じなのだろうか。こんなセンパイは見たくなかったけど、何か新鮮だ。
「さ、上がって。顔は応急処置しようか」
私の傷だらけの顔を見たからか、センパイの言っていることに嘘がないと判断したのだろう。
細川先輩は、私を受け入れてくれたようだ。
「ん、ありがとう、京子」
「いつまでも帰ってこないから、何かあったのかと思った。連絡くらいしてよね?」
「ごめん……」
「いいよ、許す。この子は私に任せて、お風呂入ってきて」
「うん」
センパイはお風呂に行った。気まずいから、細川先輩と二人にしないでほしいんだけど。
「こっち来て」
先輩が救急箱から消毒液とガーゼを取り出した。
「あちこち切れてて、青あざができてるけど、相当やられてるね」
「まあ……見ての通りです」
先輩が消毒液をつけたガーゼで私の顔を拭く。
「美鈴がネグレクトを受けてたって、聞いてる?」
「さっき、ちょっとだけ聞きました」
「そっか。他に痛いところはある?」
「脇腹に青あざができてて、痛いです」
「はい、これ。湿布ね。お風呂上がったら貼るといいよ。あとは大丈夫?」
「はい、ありがとうございます」
「改めて、私は細川京子。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「帰ると危ないなら、いつまでもここにいてもいいから」
「それは……その……」
「遠慮しなくていいよ。部屋は余ってるから」
「でも、お金とか払えないので……」
「いいから。どうせ持て余してるんだから」
「……ありがとう、ございます……」
センパイと先輩の優しさが、逆に痛い。
今まで、こんなに私に優しくしてくれた人はいなかったから。
「じゃあ、私は寝るね。ご飯食べたかったら、冷蔵庫にあるから美鈴と食べて。下着は……どうしよう?新しいのあげるけど……サイズ合うかな?」
見たところ、胸のサイズは……私が勝ってるな。ふふん。
「とりあえず、下だけもらってもいいですか?」
「はい、これ。あと、パジャマね」
「ありがとうございます」
「お風呂、上がったよ」
センパイがお風呂から戻ってきた。
少し濡れた髪、ほんのり赤みを帯びた肌、シャンプーの香り。どれもこれも私を刺激する。
「美鈴、お風呂の場所を教えてあげて。私はもう寝るから」
「ん、おやすみ京子」
「おやすみ、美鈴」
私の何倍も深い関係を見せつけられる。体の痛みは引いてきたのに、心の痛みがさらに強まる。
「お風呂、こっち」
センパイについて脱衣所に行く。
「沸いてるから、ゆっくりしていいよ。上がったらご飯食べよう」
「センパイは寝なくて大丈夫ですか?もうこんな時間ですけど」
時刻は4時を過ぎている。細川先輩がこんな時間まで起きていたのは、さっきはスルーしたけど、なかなか異常なことでは?ひょっとしてセンパイが帰ってくるまで待っていたのだろうか。
「どうせ明日……いや、今日一ノ瀬と遊びに行く予定だったから、何もないし大丈夫だよ」
「なるべく早く出ますね」
そう言って、私はお風呂へと向かった。
一糸まとわぬ状態になり、鏡で体を見ると、思った以上に傷だらけだった。そして、更に増えている。
すべてあの男に刻まれたものだと思うと、虫唾が走る。
幼少期から、あの男は事あるごとに私を痛めつけてきた。
歩き方が気に入らない、しゃべり方が気に入らない、目つきが気に入らない、俺を睨んだだろう、俺を無視しただろう。
私を目にするたび、何かしらの理由をつけて痛めつけてきた。
学校に通っていた頃は、服で隠れる位置に傷を残してきたけど、今は関係ないから、平気で顔を殴ってくる。
そして、殴る蹴るだけでは飽き足らず……。この話はいい。
そんな状態にも関わらず、母親は私を助けようともせず、いつの日か煙のように消えてしまった。
いつか、私は殺されるのではないか。誰かに助けを求めたら、その人にも危害が及ぶのではないか。
長年にわたる虐待の恐怖に怯え、私は誰にも助けを求められないまま、ここまで来てしまった。
今もこうしてセンパイの家にいると、あの男がやってきて、すべてを破壊してしまうのではないか。そんな恐怖に襲われる。
やはり、いつまでもここにはいられない気がする。
もう、センパイたちとは関わらないほうがいい。そう思ってしまうのだ。
私が壊れてしまう分には、何の問題もない。
だって、もう壊れてしまっているのだから。
「お風呂、ありがとうございました」
「ん、ご飯食べようか」
「いただいていいんですか?もともと一人分に見えますけど」
「いいから。いつもちょっと多いかなって思ってるし。」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
「物分かりが良くて助かる」
誰かとご飯を食べるなんて、いつぶりだろうか。
中学の給食以来かもしれない。
とはいえ、こんなふうに談笑しながら食べたことは、当然なかった。友達もいなかったし。
「あ、美味しい」
「でしょ?これ、京子が作ったやつ」
まるで嫁の料理を自慢する夫みたいに言うな。
「まあ、センパイは料理できなさそうですよね」
「はい、もう食べなくていい」
「冗談ですってば。私もできませんし」
「私って何ならできるんだろうね」
「なんですか、急に」
「大学卒業したら、どうしようかなあって思ってて」
「私に相談しても無駄では?」
「確かに」
センパイは笑いながら言った。失礼な。事実だけど。
そして、ご飯を食べ終えた。こうやって、センパイとご飯を食べるだけでも、幸せな気分になれた。
「ごちそうさまでした。食器、洗いますね」
「ん、ありがと」
「センパイのも洗ってあげますよ」
「自分でやるから」
そう言って、横に並んで食器を洗い始めた。
「センパイって、掃除とか洗い物とか洗濯担当なんですか?」
「まあ、そうだね」
「えらい。いいお嫁さんになれますね」
「バカにしてんの?」
「褒めてますよ」
「そ、ありがと。もう寝るでしょ?私のベッド使っていいから」
「いいんですか?」
「けが人をソファーで寝させるほど人でなしじゃないんだから。」
「……ありがとうございます」
「ほら、部屋こっちだから」
そう言うと、センパイの部屋に向かう。
センパイの部屋、ベッドかあ……。
「枕変わったら、寝られないとかある?」
「いえ、大丈夫です。よければ、一緒に寝てくれませんか?寂しいので」
「な、何言ってんの。おやすみ」
速攻で部屋から出て行ってしまった。交渉失敗。悔しい。
「おやすみなさい、センパイ」
もう届かないのに、私は就寝の挨拶をした。
センパイのベッドに寝転んでみると、当たり前だけど、センパイの香りがする。
いけない気持ちになる前に、寝よう。
目を閉じ、長い1日に終わりを告げた。
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