第10話 この体抜け殻になる日まで抱きしめるよ
幼少期から、親の敷いたレールから少し逸れつつも、進む方向は間違えずに生きてきたと自負している。
親には私立校に行けと言われたが、一晩中泣きわめいた結果、大学だけは絶対に指定の場所に行くようにと言われ、高校までは美鈴と同じ場所にいられるようになった。
公立校というのは様々な人間が集まるるつぼのようで、中学に入った頃、どこからか私の家が裕福だと聞きつけ、たかりや嫌がらせをしてくる輩がいた。私はそういうことを一言も口にしていなかったのに。
だから、美鈴に害が及ばないように、学校でも学校外でも、なるべく近づかないようにしていた。
そういった事情や、部活に入ったこともあり、幼稚園や小学校と比べて美鈴と過ごす時間が大幅に減った。
それは私にとって果てしない苦痛だった。美鈴と過ごす時間が減ることは、呼吸を奪われるのと同じだった。
毎日毎日慢性美鈴欠乏症と、両親からの期待に押しつぶされ、ストレスで体調を崩し、ご飯を食べてもすぐに吐いたり、眠れなかったり、動悸が激しくなったりした時期があった。よく生きてこられたな。
私にとって、美鈴以外はどうでもよかった。自分より美鈴が幸せなら、それでよかった。
でも、美鈴が幸せそうにしていた時期は、ほとんどなかったと思う。
美鈴の家庭は普通ではなく、親はほとんど育児を放棄していた。
家親は家を留守にすることが多く、たまに帰ってきては最低限のお金を置いていくだけだった。
だから、高校にも大学にも行く金は美鈴の両親から出るはずがなかったが、私は美鈴に勉強させ、学費免除で進学できるようにした。
私は美鈴を少しでも普通に、一人でも生きられるようにしようと頑張った。
美鈴は親から誕生日を祝ってもらったことがなかったので、誕生日が特別で楽しい日だということを教えた。
クリスマスや正月などの行事も、できるだけ一緒に過ごした。
私といる時、美鈴は嬉しそうな顔をしてくれていた。それは間違いない。教室で横顔を盗み見れば、白紙のノートのように無表情なのに、私と一緒にいる時だけ少し微笑んでくれていたからだ。これは私にしか見分けられないだろうと自負している。
美鈴が大好きで仕方ないけれど、親の敷いたレールが終着を迎えそうで、人生が詰みかけている。
結婚は人生の墓場だと言うけれど、まさしくその通りで、美鈴には冗談めかして話したけど、よく知らない相手との結婚が避けられない状況だった。
その結婚相手に、お父さんの会社を継がせるんだと。それが目下、私が放置している問題である。
問題を投げ出して美鈴と逃げようかと何度も考えたけれど、たぶん美鈴はそれを望まないだろう。
それは、昨日半日一緒に過ごした時の会話からも明らかだった。
美鈴も私のことを考えてくれていて、身を引こうとしている。
だから、私もこの問題を放置しておくわけにはいかないけれど……。
「どうやって解決したらいいんだろうね」
美鈴が誕生日に買ってくれた白いクマのぬいぐるみを抱き上げ、どうにもならない感情を吐き出す。もちろん、何も返してくれるわけもなく、そっと元の場所に戻した。
こんなこと、相談できる人もいないし、どうにもならない。本当に詰んでいる。
いっそ一人で失踪しようかとも考えたけれど、確実に美鈴が悲しむからやめた。
いくら考えても起死回生のアイデアは浮かばない。私の人生はほとんどレールに沿ってきたから、悪くていいアイデアが浮かぶはずもなかった。
習い事は数え切れないほどやってきたけれど、こういうときにまったく役に立たないのだから、意味があったとは思えない。
考えるのをやめてベッドに寝転んだ。そういえば、美鈴が帰ってくるのが遅い気がする。普段なら0時すぎには帰ってくるのに。バイトが伸びたりしているのかな。
先日のことがあったから、少し顔を合わせづらい。
でも、美鈴が帰ってくるのに、出迎えないという選択肢はない。
そうこうしているうちに、美鈴の気配を感じたので飛び起き、玄関の前で待機する。
ガチャリと扉が開く音がした。
「ただい……うわっ」
「おかえり」
私は出来るだけ笑顔で出迎えた。
「なんでそんな所に立ってるの……?」
「いいじゃん、ご飯食べるでしょ?」
「う、うん」
靴を脱いで上がってきた美鈴の手を取って、リビングまで引っ張っていく。
美鈴の横に立ったと同時に、違和感を覚えた。どこかで嗅いだことのある匂いがする。でも、どこで嗅いだのか、なんの匂いなのかは今はわからない。
普段の美鈴からはしない匂いだった。なぜか不快な感覚がする。
「どうかした?」
「ん、別になんでもない」
無意識に足を止めていたらしい。気のせいだろうか、美鈴の表情もいつもと違う気がする。
気のせいということにして、作り置きの料理を温める。
「今日ちょっと遅かったね。襲われたりしなかった?」
遠回しにふざけを入れつつ、探りも入れてみる。
「誰が私なんか襲うのか……。ちょっとバイトが長引いただけだよ」
「私とか?なるほどね」
美鈴は嘘をつく時、ネックレスを触る癖がある。今はというと思い切り触っていた。
なぜそんな嘘をつくのか?問いただしたい気持ちは強いけれど、嘘をつくということは、言いたくないのだろうから無理には聞かない。
それに、たった30分ほど帰宅が遅れただけだ。そこまで気にすることでもない……と思う。
でも、嘘をつかれてものすごく頭がモヤモヤしている。今すぐ暴れ回りたい気分だ。
「襲ってきたことないじゃん?」
「フッ……確かにね。襲ってほしいの?」
「ノーコメントで……」
「可愛いやつめ」
「うっさい」
まあ、襲う勇気もないけど……。ここで襲う勇気があったら、とっくに親に反抗して美鈴と添い遂げてる。どこかの連邦兵か。
私は、ああやって自分の立場を忘れて、迷惑を顧みずに全てを放り出す人間は好きになれないけれど、憧れてしまう。それが私の目指す自分だからかもしれない。
温めた夕飯を取り出してテーブルに並べる。レンジに入れたわけでもないのに、思考が巡りすぎて私の頭も温まっている気がする。
美鈴がいつもと違うことをするのが、非常に嫌な予感を呼び起こし、焦燥感が巡る。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
美鈴をじっくり観察するが、いつもと同じ顔だ。とてもかわいい。
切れ長の目、小さめの耳と鼻と口、肩くらいまでの黒髪のストレートヘア。クールビューティーだ。
やはり、見た目には何も変わったところが見当たらない。もし何かあれば、私が見逃すはずもない。
「なんでそんなにガン見してくるの……」
「食べてるところもかわいいなって」
「バカじゃないの……」
「真剣に褒めてるのに」
「視線がものすごく気になるからやめて」
「じーーー……」
「声に出すな」
やはり、変わったところは見当たらない。違和感といえば、正体不明の匂いだけだ。何の匂いなのかはまだ思い出せない。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
美鈴は食器を洗って片付けてくれる。分担しているわけではないけれど、自然と洗い物は美鈴の担当になっている。
「ねえ、今日一緒に寝ない?」
「何、いきなり……」
「だって、昨日は途中で終わっちゃったし?」
少し意地悪く言ってみると、美鈴はバツが悪そうに顔を背けた。
「その……ごめん」
「ごめんって?」
「昨日はあんな感じになって……」
「そっち?じゃあ一緒に寝てはくれるの?」
「う……ん……」
「歯切れが悪いな〜?」
「一緒に寝る……寝ます……」
「何故丁寧になった」
「うっさい」
「素直じゃないんだから」
「……お風呂、入ってくる」
「沸いてるよ。いってらっしゃい」
この家で美鈴と一緒に寝たことはまだなかった。最後に一緒に寝たのは、小学生のころ、美鈴が泊まりに来た時まで遡る。
今は一緒に住んでいるのだから、そんなイベントはいつでも起こせるのに、私は何をしていたんだろう。そもそも、なぜ寝室を分けたのだろう。
大きなマンションを選んだのは失敗だったかもしれない。無駄に部屋が多く、二人で住んでも余ってしまう。実際、二部屋は空いていて物置と化していた。
狭ければ寝る場所も限られて、必然的に一緒に寝ていたかもしれない。今さらこのマンションを選んだことを後悔した。
私の人生は、両親から見れば失敗がない素晴らしいものに見えているのだろうけど、私にとっては失敗と後悔が大半を占めていた。
もっと美鈴を良い方向に導けたのではないか。私よりも美鈴を良い方向に導ける人がいたのではないか。私と一緒にいなかったほうが良かったのではないか。そんなことを考えてしまう。
私の足は錆びついていて、悲鳴を上げながら敷かれたレールを進むしかない。向かう先は出口が崩れたことが分かっているトンネルの中で、真っ暗闇。進んできた道も崩れていて、戻ることはできない。
美鈴という光を頼りに進んできたけれど、その光も今は見失いかけている。見失いたくない。
「京子?こんなところで寝てると風邪ひくよ」
色々考えているうちに、少し寝てしまっていたらしい。
「ごめん、一緒に寝る前に一足先に夢の世界に旅立ちかけてた」
「別にそれはそれでいいけど……」
「え〜?」
「で、どっちの部屋で寝るの?」
「うーん……どうしたい?」
「質問で返さないでほしいんだけど。誘ったのは京子なんだから、京子が決めてよ」
「じゃあ美鈴の部屋で」
「全然悩んでないでしょ?」
「ばれたか」
リビングから美鈴の部屋までは数メートルだけど、手をつないで向かう。昨日と同じように利き手同士。
「……つなぐ必要ある?」
「ムードってものがあるじゃん」
「……」
「かわいいね、美鈴」
「うっさいよ……」
なんでこうもいじらしいのか。可愛すぎるだろう。
美鈴がもじもじしているのを横目で見ながら、部屋に入る。
そういえば、ここに来て荷物を運ぶのを手伝って以来、部屋に入っていなかった気がする。
「実家の部屋とあんまり変わってないね」
「まあ、うん」
美鈴はもともとあまり物を持っていなかった。家庭事情を考えると、それも仕方ないことだけど。
部屋の家具は、ベッドと小さなテーブル、小さな本棚のみ。ミニマリストに片足を突っ込んでいる感じがする。
小さな本棚には、以前私があげたものがいくつか並べられていた。
幼稚園の頃、美鈴の誕生日に初めてあげた幼児向けの絵本。今さら読むわけもないだろうに、わざわざ実家から持ってきたという事実がまたいじらしい。
「この本、持ってきてたんだね」
指摘したら嫌がるかもしれないと思いつつ、言ってみた。
予想外のことを言われたらしく、美鈴の体が跳ねた。
「ん……だって……京子が初めてくれたものだから……」
毛先をいじりながら、そんなことを言った。
んーー、なんだこの生き物は。天使か?頭が沸騰して、血液が灼熱になったように感じ、鼓動は光の速さになった気がする。つまり、理性が飛んだので思わず美鈴に抱きついた。
「ちょっ……京子?」
「かわいい、かわいいよ、美鈴」
「ん……」
美鈴も手を背中に回してきて、より密着する。
世界が私と美鈴の心臓の鼓動以外の音を無くしたようだ。残酷なまでに完璧な世界。一生ここにいたい。まるで天国だ。
「……京子?もう寝よう?」
美鈴の声で現実に戻される。こいつ……こいつ……!
「もうちょっと……もうちょっとだけ……」
「はいはい……」
「むぎゅう」
「なんで声に出したの」
「いいじゃん。美鈴の体の抱き心地がよかったから」
「なにいってんの……いい加減寝ようよ」
「はーい」
美鈴が先にベッドに横になり、私も続いて並んで横になった。
シングルベッドなので、自然と顔が近づいた。
じっと美鈴の顔を見ていると、耐えきれなくなったのか、寝返りを打って反対を向いてしまった。
「こっち見てよ」
「やだ。寝るんだから見る必要ないでしょ」
「あーあ、寂しいなー。一緒に寝てるのに寂しいなー」
「……」
無言でこっちを向いた。素直でかわいすぎるだろ。
「こうやって一緒に寝るのも久しぶりだよね」
「うん……そうだね」
前に一緒に寝た日にあげたネックレスを寝る時もしているようで、それが本当に嬉しくて、目頭が熱くなる。色々と抑えるのが大変になってきている。
「寝る時もそれ、つけてくれてるんだね」
「なるべく体から離したくないから……」
「キスしていい?」
「なんで!?」
「かわいいから」
「だめ」
「なんで!?」
「だめだから」
「理由になってないよ」
「だめったらだめ……んむっ!?」
美鈴のうるさい口を口で塞いでやった。1分くらい。
これがファーストキスだった。私の。
美鈴はどうなのか知らないけど初めてだろう。……初めてだよね?
「ばか、もう知らないから」
怒らせて、また背中を向けられてしまった。でも、後悔はしてない。ついにやってやったぞ。
背中から抱きついて、抱き枕にしてやる。
「おやすみ、美鈴」
「おやすみ、京子」
美鈴の口を塞いだ時、さっき嗅いだ不快な匂いと同じものがしたのは気のせいだろうか。
せっかく、いい気分だったのに。そう思いながら、私はまどろみの中へと溶け込んでいった。
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