第8話 自分まで嫌わないように

 あの人を初めて見たのは高1の冬だった。放課後に予定があったから急いで昇降口に向かうと、あの人は私より先にいた。全てに無関心で、幸福とは無縁な顔をし、何物も寄せ付けないように見えた。昇降口で見るあの人はいつも同じ表情だった。溶けない氷の像のようで綺麗だと思った。そんな感想を心の中で述べている内に、あの人は煙の用に消えていた。

 いつからか、授業が終わるとあの人の横顔を見たくて昇降口に急ぐようになった。クラスメイトに聞いても、あの人の情報は得られなかった。いつも煙のように学校から消えるから、目撃情報も少ないのかもしれない。なら足を使って探そうと、休み時間に全ての教室を回ったけど見つけられなかった。とはいっても廊下から教室内は殆ど見えないし、他クラスや上級生の教室に入るわけもいかないから全然探せていないのだけど。

 その後も昇降口以外であの人を見つけられないまま、2年生になった。2年生になっても、何も変わらない。違うのは自分の教室が変わっただけ。友達もいないし、クラスメイトの名前も覚えていないからどうでもいい。自分の名前を見つけて、クラスを確認する。新しい教室に向かおうとした時、ふと声が聞こえた。

「また同じクラスだよ、美鈴」

「そのようで…」

「あ、何その顔は。嬉しくないの?」

「別に?」

「ほんとは嬉しいくせにねー」

「はいはい…」

 それはあの人だった。隣にいるのは…確か、細川さん…だったかな。以前、全校集会で表彰されているのを見た覚えがある。細川さんがその時2年生だったから、あの人も今は3年生か。あんなスクールカースト上位みたいな人と一緒にいることに驚いたのと、意図せずあの人の名前を知ってしまったことで二つの困惑を覚えた。

 少し離れて二人が立ち去るのを見送った後、3年生のクラス分けを盗み見た。フルネームは呉島美鈴というらしい。自分で探しても見つからなかったのに、偶然名前と学年、クラスを知ってしまうとは、何か得体のしれない力が働いているように感じた。それにしても、細川さんと一緒にいる時の呉島さんの顔、昇降口で見たものとずいぶん違ったな…と思い返すと突然吐き気がこみ上げてきた。急いでトイレに駆け込み、胃液を吐き出した。

 違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う――――――――――――

 あれは違う。何が違うのかわからないが、とにかく違う。頭の中がぐちゃぐちゃで何もわからなくなった。気づけば、私は学校を飛び出して家に向かっていた。

 帰る途中も吐き気がこみ上げて、何度かその辺にぶちまけた。元から胃には何も入っていないので、胃液しか出てこない。私の身体はおかしくなってしまったのか。何度も胃液や血反吐を吐いても、一向に気分は良くならない。吐き気を抱えたまま、ようやく家に着いた。ちぎれそうな手足を引きずり、自室のベッドにたどり着いて気を失った。



 目が覚めると、時刻は朝7時を過ぎていた。あれほどの吐き気も、目が覚めると消えていた。口の中に血と胃酸と唾液が混ざった味が広がっているので洗面所で口をゆすいだ。鏡には、この世の者とは思えない顔をした自分が映っていた。

 急いでシャワーを浴びて、朝食を済ませ、胃液と血反吐にまみれた制服とは別の制服に着替えて、外に出た。いつもと変わらない道のりなのに、何かがおかしい。何がおかしいのかわからないまま、学校へ向かう。15分ほど歩いたところで、また急激な吐き気がこみ上げてきた。ダメだ──────

 またその場で胃液を吐き出してしまった。今度は人に見られ、心配そうに女性が近づいてきた。「大丈夫です」とだけ言って、その場を後にした。私はそのまま学校に行けなくなった。病院に行っても、特に体に異常はないと言われた。心理的なものだろうとの診断が下された。思い当たる節は一つしかなかった。



 あれから数年が経った。私は高校を退学した。あの時感じたものは一体何だったのだろうか。高校をやめ、呉島さんを目にすることもなくなったので、これからもわからないままだろう。高校をやめてから、私は特に何もせず家にいる。今のところ、家を追い出されることもない。病気だと言われたから、両親も負い目があるのかもしれない。高校をやめてから覚えたのはタバコだけだった。もちろん、まだ未成年だからコンビニでは買えない。だから、その辺の男にタバコを貢いでもらい、親にバレないように夜、近くの公園で吸っている。

 なぜ吸おうと思ったかというと、昇降口から煙のように消える呉島さんと、タバコの煙が似ているように思えたからだ。だから、呉島さんを忘れないためにタバコを吸うようになった。今日もいつものように散歩に出て公園に向かうと、ベンチに人影が見えた。いつもこの時間には誰もいないのに。遠巻きにベンチに座る人を確認した。どこかで見たことがあるような気がする。少し近寄って、人影を観察する。心臓が跳ねた。息を殺しているせいか、心臓の音が、より鮮明に聞こえる。ベンチに座っていたのは呉島さんだった。なぜこんな所にいるのか。

 深呼吸して心を落ち着かせる。しかし、落ち着いてどうするというのか。このまま気づかれずに呉島さんが立ち去るのを待つのか。でも、近づいたらまた……

 もう一度呉島さんを確認する。何をしているのかと思うと、ライターで火をつけようとしていた。タバコを吸おうとしているのかもしれない。しかし、なかなか火がつかないようだった。タバコを吸うのも、ライターを使うのも初めてなのだろうか。意を決して、呉島さんのもとへ歩き出す。

 不思議なことに、あの頃のような吐き気はこみ上げてこなかった。

「ライターはこうやって火を付けるんですよ。」

 薄闇の中に火を灯して、そう言った。

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