第31話 勇者の宴
ルエリアが手首に巻いたブレスレット状のロープに触れて帰還の手続きをした瞬間、記憶の世界から目覚めていた。
まぶたを押し上げて、まばたきを繰り返す。何度か深呼吸して、現実世界に戻ってきたことを実感する。
そうして安全を確認していると、ルエリアより先にギルヴェクスが隣でゆっくりと起き上がった。
その目には涙が残っていたが、瞳には光が宿っていた。
「ギルヴェクス、ルエリア……! よくぞ無事に戻って……!」
ヘレナロニカがベッドに歩み寄ってくる。その後ろにはヘレディガーが控えていた。
その隣には医師のゼルウィドがいて、淡い茶色の目を見開いていた。ギルヴェクスの明らかな変化に驚いているのかも知れない。
ギルヴェクスが一同を見渡して、その眼差しに力と優しさを宿す。
「ヘレナロニカ、ヘレディガー、ゼルウィド。今まで迷惑を掛けてすまなかった。皆、本当にありがとう」
「ギルヴェクス様……!」
ヘレディガーとゼルウィドが声を揃える。低い声と高い声がぴったりと重なった。
その場にいる全員が笑顔になる。
(よかった、うまくいって、本当によかった……!)
ルエリアも静かに起き上がり、安堵の息をついた。
緊張感がゆるんだ、次の瞬間。
ぐううう……。
と、ルエリアの腹が鳴った。
「ほぎゃあっ!?」
ルエリアの腹から発せられた爆音に、部屋がしんと静まり返る。
まず、ギルヴェクスが小さく噴き出し――それから部屋中が和やかな笑い声に包まれた。
「うわあああ……恥ずかしい……!」
思い起こせばルエリアは、緊張で朝から何も口にできていなかったのだった。
自分を抱き締めるようにして、今さら音の発生源を押さえ込む。
ベッドの上で寝返りを打つ。ルエリアが恥ずかしさに汗を浮かべていると、すぐ背後から、ギルヴェクスの穏やかな声が聞こえてきた。
「ヘレディガー。テオドールになにか軽食を作ってくれるよう頼んできてくれないか。皆で分け合って食べられるものを。量は多めで」
「はい! ただいま!」
ヘレディガーがはつらつと返事して、ほとんど走るスピードで部屋を飛び出していく。
ルエリアは、いつだって冷静な執事の、まるではしゃぐような挙動を初めて見た気がした。驚きに胸が弾む。
(みんな、とっても喜んでくれてる。うれしいな。ギルヴェクス様が元気になってくださって、本当によかった)
ギルヴェクスとヘレナロニカ、そしてゼルウィドの三人が言葉を交わしている。ルエリアは、もう一度鳴りそうな腹を押さえながら、三人の視界の外でこっそりと顔を綻ばせたのだった。
その後はヘレディガーが飲み物を用意し、テオドールとメイドのマレーネが大量に料理を運び込んできた。
ギルヴェクスの指示で屋敷中の召し使いが集められて、ささやかな宴が始まった。衛兵たちは持ち場を離れるわけにはいかないからと、代表のひとりだけが挨拶にやってきた。ギルヴェクスはその騎士に、テオドールに用意させた差し入れの料理を渡していた。立派な騎士が感激して恐縮する様子を、ルエリアは微笑ましく見守った。
ギルヴェクスが、料理の数々を興味津々と見渡す。
『今度はあれを食べてみよう』、『これは何かな』と言いながら、少量ずつ口にしていく。
次々と食べ物に手を付けていく様子にテオドールが涙を浮かべ出す。ついには涙をあふれさせて、目元を腕で隠して肩を震わせはじめた。
ソファーから一同を見守っているヘレナロニカが、自分の向かいにヘレディガーを座らせる。
「君も飲食せねば、宴に参加したうちには入らぬぞ」
「恐れ入ります。いただきます」
ヘレディガーが手に持ったグラスに、ヘレナロニカがワインを注ぐ。ヘレディガーはそれを数口だけ飲み進めると、口元を微笑ませながらそっと息を吐き出した。
給仕に動き回るメイドのマレーネは、ずっと朗らかな笑みを浮かべている。ギルヴェクスは他の召し使いに席を譲るためか、壁際の小さなソファーに腰掛けていた。
その隣を陣取った少年医師のゼルウィドは、温かな眼差しをしたギルヴェクスから何か話しかけられていた。さらさらの金髪頭を優しく撫でられる。少年は、見る間に顔を赤くして、涙目になり――。
ついには握った両手を目に当てて、『ふえええ……』と完全に子供の声で泣き出した。
少年の泣き声が目立ってしまわないように、皆の声が一段と大きくなる。
和やかに過ごす間、ルエリアはヘレナロニカの隣で遠慮なく料理を口に運んでいた。ひと口サイズに切ってあるソーセージを夢中で頬張る。数種類の香辛料の混ぜ込んであるソースが絡めてあり、一度食べはじめると止められない味だった。
ルエリアは料理を一皿平らげると、ナプキンで口を拭いてから、小声で話を切り出した。
「ヘレナロニカ殿下。私、ギルヴェクス様の記憶の中で、気になる光景を見たんです」
「ふむ……聞かせてもらおう。ただし、なるべく深刻な顔をせぬようにな」
果実水のグラスに口を付けたヘレナロニカが、ちらとギルヴェクスの方を見る。余計な心配を掛けたくないということだろう。
ルエリアは、雑談している風に見せるために、頬をさすって顔の緊張を解いた。
深く息を吸い込み、意を決して、ギルヴェクスの記憶の世界で見た光景を話しはじめた。
魔王が古代魔法を跳ね返せたこと。
治癒魔法で解毒できない毒を喰らわせてきたこと。
冒険者時代に聞いたことのない、即時に発症する病気を操り、ひとりだけを狙ってぶつけてきたこと。
「それは……」
ヘレナロニカは深刻な声でつぶやきながらも、穏やかな表情を装っている。
「……思い当たる節はないこともないが、迂闊に口にできることではないな。貴重な情報をありがとう、ルエリア。あとは、ギルヴェクスがさらに落ち着きを取り戻した際に尋ねることとしよう」
魔王を倒しても、完全に平和が訪れたわけではないのだろうか――。ルエリアが胸騒ぎを覚えていると、ヘレナロニカがテーブルにグラスを置いて、ルエリアの方に向き直った。
「それより、ギルヴェクスが回復して本当によかった。改めて、ありがとう、ルエリア。君のおかげだ」
(ま、まぶしい……)
淡い水色の瞳が喜びに輝けば、そのあまりの美しさに目が泳いでしまう。高貴な人とここまで近距離で語らうなど、あとにも先にもこれ一度きりだろう。
直視できない眼差しから視線をずらすと、ギルヴェクスがソファーから立ち上がっていた。
召し使いひとりひとりに歩み寄り、肩に手を置き、柔らかな笑みを浮かべる。
「ヘレディガー。ずっと僕を
「命の恩人である貴方様に、これからも、誠心誠意お仕えさせていただきます」
音もなく立ち上がったヘレディガーが、目を潤ませながらゆっくりと御辞儀した。
続けてギルヴェクスがメイドのマレーネに振り返り、申し訳なさげに目を細める。
「マレーネ。今まで散々、八つ当たりしてしまってすまなかった」
「いいんですって。これからも、どーんと受け止めますのでいつでも飛び込んできてくださいね! 今すぐでもいいですよ! ささ、どうぞ!」
満面の笑みを浮かべたマレーネが、思い切り両腕を広げて『抱き付いてこい』と言う。
それを見て、ギルヴェクスが歯を見せて笑う。まだ顔がうまく動かせないのか、その表情は硬かった。
「それは……照れくさいから遠慮しておく」
「ええ? 遠慮なさらなくたっていいのに!」
次の瞬間、部屋中が賑やかな笑い声に包まれた。
続けてギルヴェクスが部屋の隅に歩いていき、皆を見守るテオドールの前に立つ。
「テオドール。せっかく素晴らしい料理を作ってくれていたのに、今まで口を付けなくてすまなかった。これからまた、おいしい料理を作ってくれるだろうか」
「もちろんです……! ギルヴェクス様のお召し上がりになりたいものなら、どんなものでも張り切って作らせていただきます!」
テオドールが一度は止まっていた涙をまたあふれさせる。その泣き顔に、ルエリアも涙を誘われた。頬を押さえるふりをして、こっそり指先で目尻の涙を拭った。
召し使いのひとりひとりに声掛けを終えたギルヴェクスが、腹の前でこぶしを握り締めて、表情を引き締める。
「たくさん食べて、たくさん寝て、体力を取り戻さないとな。元通り動けるようになったら、僕の仲間たちの家族に会いに行こう。魔王城の封印も僕のせいで先送りになっていたな。それに先遣隊と随行隊の慰霊、ハスナヒア国へ神器の返却も……」
「ギルヴェクス。ゆっくりでいい。ひとつひとつ、向き合っていこう」
「ああ。ありがとう、ヘレナロニカ」
ヘレナロニカに振り向いたギルヴェクスが、凛々しい笑みを浮かべる。
その顔付きの頼もしさに、ルエリアはどきっとしてしまった。
(ギルヴェクス様って、本来はこんなにも自信に満ちあふれたお顔をなさる方だったんだ。素敵な笑顔を取り戻すお手伝いをさせてもらえて、とってもありがたいな、幸せだな)
心に湧いたぬくもりに浸りながら、勇者の笑顔をじっと見つめる。
ルエリアは両手を合わせて指先を唇に添えると、改めて、事態が好転したことにそっと安堵の息を洩らしたのだった。
***
勇者ギルヴェクス・マグナセニアを回復させるという大役を終え、ルエリアは出立の準備を進めていた。とはいえ荷物は鞄ひとつのため、あっという間に終わってしまったのだが。
すっかり住み慣れた客室の窓から、外を見る。
昨日まで降っていた雨はやみ、水たまりが日光を浴びて輝いていた。
男女の笑い声が響く。庭にはギルヴェクスとヘレナロニカがいて、剣を交えていた。ずっと体を動かしていなかったギルヴェクスは動きが鈍かった。一方的に押される形となっていたが、それでも楽しげに笑っている。
きっと昔から、ああして勇者と姫とで剣の鍛錬を続けてきたのだろう――。ルエリアは窓ガラスに手を添えると、お似合いのふたりを見つめてぽつりとつぶやいた。
「ギルヴェクス様、ヘレナロニカ殿下。どうか、お幸せに」
そう言葉にした途端、きゅっと胸が締め上げられる感覚がした。
「あれ、またこの感じ。ヘンなの。ゆっくり休ませてもらったのに、まだ疲れてるのかな、私」
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