第30話 英雄たちの最期
ルエリアとギルヴェクスの視線の先で、勇者ギルヴェクスの記憶が再現されていく。
勇者一行の四人のうち、まず闇魔導師マチェアナ・サシェレアラが膝を突き、その場に倒れ込んだ。
「はは。もー無理。歩けないわ、あたし……」
フードがめくれて、真っ白になった髪が広がる。彼女は古代魔法を習得する代償として、美しい茶色の髪を失ったのだという。
「マチェアナ……!」
かたわらに座り込んだ治癒魔導師リヒツェイン・セルンケルが魔法を発動し、何も起こらないことに焦りはじめる。
「私の解呪魔法が効かない……!」
ほっそりとした手が掲げられて、仲間を制する。
「リヒツェイン、もう、いいって。魔王のヤツ、あたしの渾身の古代魔法、跳ね返してきやがって、ホント生意気……。あーあ、あたしの魔法、こんなに強かったんだ……。こんなの五発も叩き込めば、そりゃ魔王も、死ぬよね……。ははっ、あたし、頑張ったと思わない……?」
「ああ、マチェアナ、君は本当によく頑張ってくれた……!」
神器の鎧をまとった勇者ギルヴェクス・マグナセニアが、衰弱した仲間の手を両手で握りしめる。
その目には涙が浮かんでいた。
治癒魔導師がロッドを構えて何度も魔法の光を放つ。しかし何も起こらない。
失望一色に顔を染め、床に手を突く。汚れきった白いローブをまとう肩を震わせて、悔しげにつぶやく。
「どうして解呪できないんだ……!」
「そりゃ、そうさ……。古代魔法なんて、世界であたししか、使えないんだから……あんたの手に負えなくて、当然」
「すみません……」
マチェアナは、もう目が見えていないようだった。光を失った赤い瞳で宙を見つめる。息を切らしながらも、真っ青になった顔に笑みを浮かべる。
「子供の頃から『使うな』って言われ続けてきた魔法、全部、思いっきりぶっぱなせて……、本当に、楽しかった……。ありがとな、ギルヴェクス。ここまで、連れてきてくれて……」
「マチェアナ……!」
闇魔導師マチェアナ・サシェレアラは、それきり二度と目を開けることはなかった。
ルエリアは思った――魔王城の外を闊歩する魔族の中に、攻撃魔法を跳ね返す能力のある魔族など存在しなかった。
ましてや世界で唯一、闇魔導師マチェアナ・サシェレアラしか使えない古代魔法が跳ね返される可能性を考えつく人なんて、この世にいただろうか。
最終決戦の際は、これ以外に恐らく、数多の想定外の出来事に翻弄されながら戦っていたのだろう――。
ルエリアは胸の前で両手を組み合わせると、記憶の世界で息を引き取った偉大なる魔導師に祈りを捧げた。
仲間の亡骸のそばに座り込んだ治癒魔導師リヒツェイン・セルンケルが、今度は自身に何度も治癒魔法を掛けはじめた。しかし効果が発動したことを示す光はまったく現れない。
魔力切れを起こした光の消え方をした次の瞬間、糸の切れた操り人形のように倒れ込んだ。
息を切らしながら、悔しげにつぶやく。
「私の解毒魔法で解毒できない毒なんて、あるものなのですね……」
ルエリアはその光景を見て、疑問を抱かずはいられなかった。
(治癒魔法で解毒できない毒って、一体なんなんだろう。魔族が治癒魔法すら無効化する猛毒を使いこなすなんて聞いたことない。魔王はそんなに別格だったの……?)
倒れた治癒魔導師リヒツェイン・セルンケルを、勇者ギルヴェクスが抱き上げる。
「リヒツェイン……!」
呼びかけられた治癒魔導師が、血の気の失せた顔を微笑ませる。
「ギルヴェクス様。今まで、ありがとう、ございました……。各国の元首に謁見し、堂々と神器の重要性を解く貴方のお姿、本当に、立派でしたよ。はじめは眠れなくなるほど緊張していたのに、成長、しましたね……」
そこまで話したところで、顔をしかめてもがき苦しみはじめた。見る間に皮膚が変色していき、肌の出ている部分はすべて暗い紫色に染まった。
「っ……。神聖国の、外には……、素晴らしい世界が広がっていた……。貴方との旅、とても楽しかったです。貴方が心穏やかに過ごせることを、祈っています。ギルヴェクス様。貴方は幼い頃からつらい思いをしてきたのだから、どうか、幸せになってくださいね……」
そう言い切って、がくりと力を失った。
「ううっ……、リヒツェイン……!」
勇者ギルヴェクスが、目を閉じた仲間を抱き締めて嗚咽を洩らす。
そこへ盾騎士ウェグート・ドラセニクルがゆっくりと歩み寄る。彼もまたひどい怪我を負っているようで、ずっと肩で息をしている。まるで足かせを付けられているかのように、足取りが重かった。
盾騎士ウェグート・ドラセニクルが、掠れきった声でギルヴェクスに呼びかける。
「ギルヴェクス。いったん助けを呼びに出よう。魔王のオーラが消失したのを感知して、外で待機している支援隊がこちらに向かってきているはず、……ううっ」
全身鎧の盾騎士が、がしゃんと金属音を鳴らしながら膝を突いた。背丈ほどの巨大な盾が、がらんがらんと石畳の上に転がる。
続けて盾騎士は、おびただしい量の血を吐き出した。内臓をやられているようだった。繰り返し吐血したあと、もう起きていられないという風に、自ら仰向けに倒れ込んだ。
その顔は黄色く染まり、奇妙な斑点が浮かび上がってくる。
ルエリアは、初めて見るその症状に目を凝らした。
(あの皮膚の変色は? 毒じゃないみたい。もしかしてあれって病気じゃないの? 魔王が病原菌を操って、ひとりの人間だけを狙って感染させたとでもいうの? 魔族がそんなことできるなんて……!)
少なくともルエリアが戦ったことのある魔族に、そういうやっかいな攻撃をしてくる魔族など一匹もいなかった。もしいたとすれば、たちまちその情報は冒険者の間で共有されるはずなのだから。
勇者ギルヴェクスが盾騎士ウェグートのそばにへたり込み、その血まみれになった胸甲の上に手を置いて悲痛な叫びを上げる。
「ウェグート! 君まで……。しっかりしてくれ……! 僕をひとりにしないで……!」
ウェグートが、小手をはめた腕をのろのろと持ち上げて、うなだれるギルヴェクスの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
血の溜まった喉をがらがらと鳴らしながら、涙を流す勇者に語り掛ける。
「ギルヴェクス。俺たちの分まで、平和になった世界を謳歌しろよ。俺の家族にも、会いに行ってやってくれよな。息子たちが楽しみにしてるんだ、お前に会えるのをさ……」
「一緒に行こうよウェグート! 僕ひとりじゃ、誰にも顔向けできない……!」
その悲痛な叫びは届かなかった。盾騎士ウェグート・ドラセニクルは、最期のひとことを遺した瞬間の笑顔のまま、動かなくなった。
そこで記憶の世界における時間の流れが停止した。
ギルヴェクス・マグナセニアが向き合うべき場面が終了したからだ。
倒れた三人の仲間と、うずくまるひとりの勇者。まるで古びた絵画のように、静止した光景が色あせていく。
ルエリアは、泣き叫びたくなる衝動をぐっと抑え込んだ。口に手を当て、下唇を噛みしめ、その痛みで辛うじて嗚咽を飲み込む。手の甲を、涙が濡らしていく。
(せっかく魔王を倒したのに。みんな、こうして死んでいったんだ)
勇者ギルヴェクスは魔王を倒した時点で魔力を使い果たし、仲間が死にゆく様をただ見守ることしかできなかったという。どんなにつらかったことだろう――。
腹をひくひくさせつつ声だけは必死にこらえていると、ルエリアの隣でギルヴェクスがくずおれた。
何度も床を拳で叩き、泣き叫びはじめる。
「うっ、ううっ、ううう……! ウェグート、リヒツェイン、マチェアナ……!」
こぼれ落ちる涙が、ぼろぼろの石畳に沁み込んでいく。
ルエリアもかたわらに座り込むと、涙を落とす勇者を見つめた。悲愴な横顔に、胸が引き裂かれそうになる。
静まり返った玉座の間に、むせび泣きだけが響き渡る。
数分か、十数分か、数十分経ったのか。ルエリアがただただ見守り続けていると、ふとギルヴェクスが咳き込みながら、思いを吐露しはじめた。
「僕は、泣いちゃいけないんだって……、皆の前でも、ひとりでいるときも、ずっと涙をこらえていた。彼らを助けられなかった僕には泣く資格すらないんだって、そう自分に言い聞かせていたんだ」
子供のように、丸めた両手で涙を拭う。何回拭っても、曇天のように陰る瞳は透明な雫をあふれさせるばかりだった。
「本当は、憶えていたんだ……。彼らの最期の言葉は、一言一句たがわず憶えていた。だけど、自分だけが生き残ったことが、どうしても受け入れられなくて……。彼らの最期を自分の勝手な妄想で汚して、自分を罰するために使ってしまっていた。なんて身勝手なことをしてしまっていたんだろう……!」
ルエリアは、懸命にギルヴェクスの言葉に耳を傾けた。彼の心に募る思いをひとつたりとも聞き逃さず、すべて受け止めてあげたい――。
ギルヴェクスがぐっと手の甲で目元を拭い、顔を上げる。濃い空色を取り戻した瞳で、眼前に広がる仲間の最期の姿を凛と見据える。
「彼らこそ、真の英雄だ。僕にできることは、仲間たちの偉業を語り継ぐことだ。家にこもっていては、それすらできない。彼らの家族に会いに行かなくては。彼らの最期を伝えられるのは、僕だけだから……」
膝に手を置き、ゆっくりと立ち上がる。全身で息を吸い込み、ふう、とひとつ大きく息を吐き出すと、まだ座り込んだままのルエリアに手を差し出してきた。
泣き腫らした目を、わずかに綻ばせる。
「ありがとう、ルエリア。僕をここに連れてきてくれて。僕がこれから成すべきことを思い出すことができたよ。さあ、帰ろう。僕らの帰りを待ってくれている皆の元に」
「はい、ギルヴェクス様……!」
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