第27話 禁忌の薬

「ギルヴェクス様……!?」


 ルエリアはギルヴェクスの消えた辺りまで走っていくと、そこで足を止めて辺りを見回した――そんなことをしても無意味だと分かった上で。

 何が起こったかは容易に想像がつく。被術者と同行者とをつなぐロープが何かしらの原因で切れて、同行者だけが被術者の記憶の世界の中に取り残されたのだ。


 起きてはならない事故が起きてしまった。

 ぐしゃりとその場にへたり込む。

 想定外の出来事に襲われて、息ができなくなるほどに激しく心臓が騒ぎ出す。


「そんな……。わ、私、ギルヴェクス様の、記憶の世界の中、に、置いて、いかれちゃっ、た……」


 今まさに目の当たりにしている現実を言葉にすれば、絶望感に押しつぶされそうになる。


「ロープ、切れちゃったんだ……。あんなに補強したのに、どうして……?」


 虚空に問いかけたところで、答える者は誰もいなかった。




 記憶の世界に置き去りにされてしまった同行者は、自力で脱出するしかない。

 そのたったひとつの方法は、実にシンプルだった。



 



 そうすれば、現実世界に帰還できる。

 その手段を選ばなければ、現実世界の体は衰弱していき、いつしか死に至る。


 薬で作り出した世界で人をあやめた上で脱出するか。

 それが嫌だからといって、治療を途中で投げ出すか。

 考えるまでもなかった。


「はは……。そっか。私、今から、ギルヴェクス様のこと、殺さなきゃいけないんだ……」


 突如として課せられた責務の重さに、涙があふれだす。

 ルエリアは、涙が流れるに任せたまま、手のひらを向かい合わせにして、一瞬だけ風魔法を発動させた。


「うん。魔法は、使える……」


 魔法薬師であるルエリアの魔力は、本職の魔導師ほどの威力はない。人を殺すなど到底できるはずがない。

 そのため、ルエリアは別の手段を取るしかなかった。


 しゃがみ込んだすぐそばに落ちていた石畳の欠片を拾い上げ、それに向かって風魔法を当てて粉々にする。

 続けて水魔法と土魔法を当てて、小さな器を成形していった。


「はは。ヘンな形」


 心の揺らぎが、そのいびつな器の形にありありと出ている。ルエリアは、自分の魔法の下手さに失笑してしまった。

 続けて、左腕を伸ばして器の上に構える。

 右手の指先に、魔力を集中させる。

 風魔法の威力を調整し、ごく薄い板状にして――。


「くうっ……!」


 手首に切り傷を付けた。途端に傷口から血があふれだし、器に溜まっていく。

 傷口の疼きをこらえつつ、ルエリアはわざと大きめの声を出して、無理やり自分を奮い立たせた。


「大丈夫、大丈夫。この程度の傷で失血死なんてするはずない。それより前に、この世界から抜け出せる、はず……」


 自分の発した言葉の意味するところを思えば、たちまち心が押しつぶされそうになる。

 ルエリアは下唇を強く噛みしめると、今にも叫び出したい気持ちを抑え込んだ。




 歪んだ器の中に、充分な量の血液が溜まった。

 魔法薬は、植物以外でも材料にできる。

 動物からも作れるが、生き物を傷付けたり殺したりして作るわりには、出来上がるものがため、禁忌とされている。


 出来上がるものとは――人体に害のある猛毒。


 赤い水面に、両手をかざす。

 構えたところでまた、ルエリアはひとり失笑した。


「毒を作るのに、光魔法を使うなんて、ヘンなの」


 人間の血液から魔法薬を作り出すには、風、水、火、そして土と、どの属性の魔法を浴びせても薬に変化させることはできない。

 唯一、光魔法だけが、人間の血を猛毒へと変貌させることができるのだ。

『禁忌について知っておきなさい』と、幾度か師匠に練習させられた魔法薬。

 それは血の赤さがほんの少しだけ残った、ほとんど真っ黒な液体だった。


「まさかこれを実際に使う日が来るなんてね。あ、でもここは現実世界じゃないから『実際に使う』って言い方はおかしいか。あはは」


 乾いた笑い声を洩らしながら、ルエリアは小さな器を手に、のろのろと立ち上がった。



 記憶の世界の主が消えた時点で、この世界の時間は動き出している。なぜなら世界の時の流れを司る存在が、世界から離脱してしまったからだ。

 ルエリアが玉座の間に踏み込む頃には、勇者の仲間三人はすでに息絶えているようだった。

 勇者ギルヴェクスは、盾騎士のそばに座り込んで泣きじゃくっていた。

 まるで少年のように顔をぐしゃぐしゃにして、泣き声を上げている。


 一旦足を止めたルエリアは、全身で息を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、勇者ギルヴェクスの背後から歩み寄った。わざと足音を立てれば、びくりと肩を跳ねさせたギルヴェクスが素早く振り返る。

 傷だらけで涙にまみれた顔が、驚きと動揺を見せる。


「君は一体……? なぜここに人が? 支援隊が、こんなにすぐに上がってこられるはずが……」

「私は支援隊の魔法薬師です。魔力回復薬をお持ちしました。あなたが魔力を回復させればみなさんの蘇生はまだ間に合うはずです。さあ勇者ギルヴェクス様、早くこれを!」


 と言って猛毒の入った器を差し出した。



 ルエリアは、演技をするのもここまではっきりと嘘をつくのもこれが初めてだった。勇者をあざむけているかどうか、不安でいっぱいになる。

 ぼろぼろになった神器をまとった勇者ギルヴェクスは、涙に濡れた目で、ルエリアの手にした器の中身を見た。

 かすかな赤みを帯びた黒い液体を見て、ぽつりとつぶやく。


「回復薬、か……」


(気づかれた……?)


 緊張感に息を呑みながら、相手の出方を待つ。

 すると、勇者ギルヴェクスはルエリアの手から器を取り上げ――およそ回復薬とは程遠い色をした液体を、一息であおった。


「うぐっ……!」


 自ら喉を締めつけるように爪を立て、咳き込むように吐血する。勇者ギルヴェクスが血を吐く度に、静まり返った玉座の間に、がしゃっ、がしゃっ、と鎧のこすれあう金属音が響く。

 ひきつけを起こしたように浅い呼吸を繰り返しながら、曇り空に似た色となった瞳をルエリアに向ける。

 血まみれになった口元を微笑ませる。細められた目は、涙にまみれているせいか、ひときわ輝いて見えた。



「ありがとう、死なせて、くれて……」



 ぐしゃり、と。

 勇者ギルヴェクス・マグナセニアが、ルエリアの足元に倒れ込んだ。



「うっ、ううっ……、――いやあああああああああああああ!」







「――ギルヴェクス様……!」


 次の瞬間、ルエリアは現実世界に戻ってきていた。


「はあっはあっはあっ、はあっはあっ……!」


 激しい鼓動が喉や耳の中を繰り返し叩きつける。その音が、たった今、目にした光景を鮮やかに脳裏によみがえらせる。


(私の魔法薬で、人を殺しちゃった……!)


「ルエリア!」


 ギルヴェクスが顔を覗き込んでくる。

 それを目にした瞬間、勇者が笑顔で死にゆく様をまたしても思い出してしまった。

 額の上に手の甲を当てて視線をさえぎり、何度も小声で自分に言い聞かせる。


「(大丈夫、大丈夫、大丈夫……! ギルヴェクス様は生きてる、生きてる……!)」


 涙があふれだし、こめかみを伝い落ちていき、耳に溜まっていく。


(でも私、人を殺すための薬を作っちゃった――!)


「ううっ、うううう……!」


(全部私が悪いんだ、私の準備と覚悟が足りなかったから、ギルヴェクス様を殺さなくちゃいけなくなったんだ……!)


 人を殺すための魔法薬を作っている最中の苦しさと。

 その薬を飲み、癒してあげたかった人が死にゆくときの笑顔と。

 ふたつの場面が脳裏に浮かんでは消え、また浮かび上がり、ルエリアの心を責め立てる。


 ギルヴェクスのあおった毒を、自分で飲む瞬間まで思い描いてしまう。


「(私が死んでしまえばよかったのに……!)」

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