第26話 勇者の記憶の世界

 ごおおお……と、激しく風のうなる音に、小声のつぶやきが重なる。


「……ここは……」

「うまく、行ったみたいです」


 ギルヴェクスが呆然と辺りを見回す横で、ルエリアは第一段階を突破できたことに、ほっと胸を撫で下ろした。

 とはいえ安堵を誘うような光景では決してなかった。ところどころ穴の開いた床、ぼろぼろになった石の壁。ひびの入ったガラス窓、今にも崩れ落ちてきそうなほどに傷んだ天井。


 魔王城は、山頂の忘れ去られた古代都市にあった。そこに遺されていた古城を魔族たちが勝手に占拠し、原始的で粗末な手法で修繕して根城としていたという。そのせいか、最上階であるこの場所には隙間風が常に吹き込んできていた。


 空気の冷たさにルエリアは身震いした。

 この感覚もまた、ギルヴェクスがここへと訪れた際に感じたことだ。



 ギルヴェクスと向かい合ったルエリアは、自分たちが使っている魔法薬について説明しはじめた。


「今、同行者である私がこの世界にいる誰かに干渉して、起こる出来事を変化させたとしても現実は変わりません。そして、この世界の主であるあなたが記憶の世界の住人に干渉しようとすれば、ただちに目覚めるのでそもそも干渉できません」

「そうか……」


 消えゆく語尾を追うかのように、ギルヴェクスの視線が下がっていく。

 もしも今、同行者であるルエリアが何かしらの方法で勇者の仲間たちを救ったとしても、その先の未来はない。

 この世界は、今いる狭い範囲しか構築されていない。生き残った仲間たちがここから去ろうとすれば、時の流れはただちに止まる。


 ここへと来たのは被術者の願望を叶えるためではない。そんなことをすれば、現実との乖離に堪えきれず、心が破壊されてしまうことだろう。



 ルエリアたちは、階下から上がってきたところに立っていた。

 長い廊下の先、左の壁側に玉座の間の巨大な扉が見える。

 普通の王城であれば兵士がいて、開閉をおこないそうなところだったが、その扉は開け放たれたままだった。開閉すらできないくらいに傷んでいるのだろう。



 ギルヴェクスが呆然と城内を見ている横で、ルエリアはさらに説明を加えた。


「この世界から目覚める方法は、記憶の世界の主が誰かに触れてしまった場合以外にもあります。ひとつは、魔法薬の効果が切れること。それと、もうひとつ」


 腕輪のように、自分の手首に巻かれたロープを掲げてみせる。


「現実世界で結んでいるロープは、このようにブレスレット状になっています。これに私が所定の触れ方をすれば、いつでもあなたは目覚めることができます。もし帰りたくなったらすぐ、私に教えてください」

「……わかった」



 一歩一歩、ためらいを見せながらギルヴェクスが歩を進める。

 うつむき、床に空いた穴を避けて歩きながら、ぽつりと話し出した。


「床が傷んでいるだろう? どの階も、ひどい有様だった。魔族の攻勢は階を上がるごとに熾烈さを増していったし、足元に気を付けながら戦うのは骨が折れたものだ。一度だけ、全員で下の階に落ちたりもしたしな」


 足を止め、廊下の先を見据えて、また視線を落とす。


「最上階へと続く階段が見つけられず、すべての廊下の先を見て回ったんだ。ここに辿り着くまでに僕らはすっかり疲弊してしまい、一旦引き返すか進むか意見が分かれて……。最終的に、僕が進むことを決定した……」


 そう言ってギルヴェクスは唇を噛みしめた。

 もしもそこで引き返していたら、未来はどうなっていたのだろうか――。


 ルエリアは、考えても仕方のないことを思わず考えてしまい、強く首を振って思考を打ち消した。

 隣を見れば、ギルヴェクスが顔をしかめていた。きっとルエリアと同じように、ありもしない未来を思い描いてしまったのだろう。


 完全に動きを止めたギルヴェクスを、ルエリアはじっと待った。

 ギルヴェクスが向かい合うべき場面は、玉座の間で繰り広げられる。記憶の世界の主がそこへと近づかない限り、時の流れは止まったままだ。

 今ルエリアたちが使っている魔法薬は、そういう効能の薬だった――。被術者が一番向き合いたくない場面へと確実に向き合わせる魔法薬。

 治療のためとはいえ残酷だと、ルエリアはこれまでの施術記録を読みながらずっと思っていた。


 それでも、ギルヴェクスの心に前向きな変化をもたらすことが、きっとできるはず――。

 そんなことを考えながらギルヴェクスを見つめていると、ふと目蓋が下ろされた。

 ギルヴェクスはしばらく目を閉じて、幾度か深呼吸を繰り返すと――再び顔を上げて、重い足取りで歩き出した。


 一歩、また一歩と、玉座の間に近づいていく。

 そこではまだ、ギルヴェクスの仲間が生きている。

 彼らの最期に、どんな言葉を交わしたのだろう――ルエリアが、いつぞや遠巻きに見た勇者の仲間たちを頭に描いた瞬間。


 どーん……、と。


 凄まじい地鳴りに似た音が、玉座の間から聞こえてきた。


 今までに聞いたことのない轟音に、ルエリアは全身を飛び上がらせた。


「今の音は……?」

「今のは……。魔王が……力尽きて倒れたときの音だ……」


 心臓が早鐘を打ちはじめる。ルエリアは緊張にぐっと息を呑んだ。傷付きぼろぼろになった勇者の仲間とギルヴェクス自身、そして初めて目にする魔王がこの先に待ち構えているのだ。


(私が怯んでちゃダメ……!)


 腹の前で両手を握りしめて、恐怖を抑え込もうとする。

 次の瞬間。


「っ……!」


 突如としてギルヴェクスが踵を返して駆け出した。


「ギルヴェクス様!」


 ルエリアもすぐにそのあとを追いかけた。

 ギルヴェクスは衰弱しているはずなのに、記憶の世界の中では現実の体力が影響しないのか、その足の速さはルエリアが全速力で駆けても徐々に引き離されていくほどに速かった。

 逃げたところでまた玉座の間の時間の流れが止まるだけだ。しかし逃げ出すということは、向き合う覚悟が揺らいでしまったということに他ならない。


「ギルヴェクス様、一旦仕切り直しましょう! 今、目覚める手続きをしますから……」


 そこまで叫んだ瞬間。


 ふっ、と。

 ギルヴェクスが姿を消してしまった。

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