第18話 勇者の意外な行動

 メイドのマレーネが、調理場じゅうの匂いをかき集めるかのように顔をゆっくりと左右に動かしながら、すんすんと鼻を鳴らす。


「いい香りだねえ! なに焼いてるんだい?」

「シンホリイムを入れたクッキーを焼いてます」

「へえ! それはおいしそうだ。私にもおひとつ分けとくれ」

「もちろんです! 焼き上がったらお届けしますね」



 クッキーの焼き加減についてはテオドールも見ていてくれた。そのおかげで、普段ルエリアが自分で焼くよりも格段に良い色味になった。


(クッキーが完成したときに、ここまで幸せな気持ちになったのって初めてかも)


 自分が焼いたクッキーの焼き上がりを、楽しみに待ってくれている人がいる。その人の喜ぶ顔を想像するだけで、心がくすぐったくなる。

 ルエリアは、冷ましたクッキーの中で一番形のいびつなものを一枚取り上げると、そっと口にくわえた。軽く噛んだだけで、さくっという音とともに、ほろりとクッキーが崩れる。芳ばしさとともに、優しい甘みが口いっぱいに広がった。


 一枚を食べきったところで、テオドールが視線を向けてくる。


「どうだい?」

「はい、とてもおいしく焼けました! テオドールさんが手伝ってくださったおかげです、ありがとうございます!」

「どういたしまして。君のお役に立ててよかった」


 クッキーに関する会話が弾む中、手作りクッキーを丁寧に布で包んでいく。布の端をきゅっと結んで巾着状にしたものを、手伝ってくれたテオドールにお礼を言いつつ手渡す。マレーネには『召し使いのみなさんで分けてください』と、たくさんのクッキーの包みを託したのだった。




 次の日。

 朝早くに目覚めたルエリアが窓の外を眺めながら大きく伸びをしていると、ノックが聞こえてきた。

 扉越しに、はつらつとした声で呼びかけられる。


「ルエリアちゃん、朝早くにごめんねえ。もう起きてるかい?」

「あ、はい! 今出ます!」


 扉を開くなり、マレーネの満面の笑みに迎えられる。両手を取り上げられて、上下にぶんぶんと振り回された。


「ルエリアちゃん! すごいね、あのクッキー!」

「いかがでしたか? お口に合いましたか?」

「合うもなにも、おいしいだけじゃなくて食べたらなんかほっとするし、飴玉と同じようにぐっすり眠れたんだけどさ。それだけじゃなくて、ずっと痛かったところが痛くなくなってたんだよ。この間、重い袋を無理して持ったときからずっと肘の外側が痛かったんだけど、今はすっきり。他のみんなも『いつも痛かったところが今日は痛くない!』って朝から大騒ぎさ。『すごいクッキーをもらっちゃったね』って」

「きっと、シンホリイムの消炎作用が効いたんだと思います。喜んでもらえてなによりです!」

「それでさ、もしよかったらなんだけど、もう一度焼いてもらえないかい? 昨日、私も含めて先に分けはじめたみんなでどんどん食べてっちゃって、ヘレディガーさんには一枚きりしか渡せなかったんだ。ちゃんと等分してから食べなかったのは失敗だったよ」


「お安い御用です! 今日はもっとたくさん焼きますね」



 朝食を食べてから調理場に行くと、テオドールが待ち構えていた。


「マレーネさんから聞いてるよ。今日もクッキー、焼くんだろ?」

「あ、はい! お世話になります」

「私もいただいたけど、飴と似た感じの効能?って言っていいのかな、すぐ寝付けて寝覚めもよくて。手首の痛みも引いたし。すごいね。でも、魔法薬とは違うのかな?」

「魔法を使ってお菓子作りをすると、混ぜ込んだ薬草の効能が引き出されるんです。でも魔法薬を作るときに必須の【薬草から効能を引き出すために魔力を浴びせる】っていう工程を踏んでいないし、実際に薬ほどの効能は発揮されていないので、魔法薬師としては『薬を作った』っていう感覚はないんですよね」

「なるほどね。作ってる最中に自然と魔法薬みたいになっていく感じなのか」

「そうですね。あ、でも飴については効能を引き出す魔法は浴びせてるので、あっちは粉や液体という形ではない魔法薬、クッキーは魔法薬の材料で作ったお菓子、みたいな分類ができるのかも知れません」



 クッキーが焼き上がり、誰よりもまず先にヘレディガーに届けなければとルエリアが思っていると、ヘレディガーが調理場に現れた。その顔はなぜか、かすかに綻んでいる。


(ヘレディガーさんも、そんなに楽しみにしてくれてたのかな)


 とルエリアが思いつつクッキーを包もうとした矢先、ヘレディガーが話しかけてきた。


「ルエリア様。できればご本人様には私がこれを申したことは伏せておいていただきたいのですが……。先ほどルエリア様がクッキーを焼かれている最中、ギルヴェクス様がこっそり様子を窺いにいらしておりましたよ」

「え!? そうだったんですね……!」


(ギルヴェクス様って、そんな可愛らしいことするんだ……!)


 希代の英雄の、幼い子供めいた挙動にルエリアは思わず頬をゆるめてしまった。


「ルエリア様のクッキーについて、マレーネがギルヴェクス様にお話しされたようです。『召し使いの間で大評判になっている』と。それでご興味を持たれたのでしょうね。『今日もこれから焼かれるそうです』と私の方からお伝えしたところ、このようにして……調理場の出入り口に立たれていらっしゃいました」


 と、ヘレディガーがギルヴェクスの動きを再現する。揃えた両手を壁に添えて、目だけを出して室内を覗き込むという、隙だらけのスパイのような姿勢。


「うわあ、見てみたかった……!」


 思わず本音を洩らしてしまい、慌てて口を押さえる。

 失礼なことを言ってしまったルエリアをヘレディガーは別段責めることもなく、口元を微笑ませた。


「ですのでぜひ、ギルヴェクス様にもクッキーをお届けして差し上げてください」

「わかりました!」



 焼きたてのクッキーの包みを大事に両手で持ち、心を弾ませながら、廊下を走るようなスピードで歩いてギルヴェクスの部屋へと向かう。


「私、にやにやしないでギルヴェクス様にクッキーをお渡しできるかな? にやついてたら、なにか企んでるみたいになっちゃうよね」


 いったん立ち止まり、胸に手を当てて深呼吸する。それを繰り返すうちに、冷静さを取り戻した。


「落ち着け、私。様子を見に来ていらしたからって、必ずしも【楽しみにされてる】とは限らないじゃない。魔法薬師がいきなりお菓子を焼きはじめたら、きっと警戒だってするよね。それに昨日、テオドールさんが『お菓子の類は今のギルヴェクス様はお召し上がりにならないかも知れないよ』って言ってたし。ヘレディガーさんには持っていくように言われたけど、ギルヴェクス様には『いらない』って言われる覚悟はしておこう」


 心を病んでいる相手に好意の押しつけをしてしまうなど、負担を掛ける行為に他ならない。

 勇者の部屋の前で足を止め、もう一度深呼吸する。

 ルエリアは表情を引き締めると、二回ノックして、扉の向こうに呼びかけた。


「ギルヴェクス様。ルエリアです」

「……ああ」


 すぐに返事が聞こえてきた。

 おそるおそる扉を開けて、中の様子を窺う。室内を見た瞬間、ルエリアは口元がゆるんでしまった。


(うわあ、クッキー食べる気まんまんだ……!)


 ギルヴェクスはソファーに腰掛けて待っていた。茶が用意されているものの、まだ口を付けていないように見える。湯気の立つティーカップは真正面には置かれていなかった。

 まるでクッキーの到着予定地を空けておいてくれたかのような配置に、ルエリアは声を上げて喜びそうになってしまった。唇を引き締めた状態で、必死に鼻から息を吸いこんで、どうにか笑いを飲み込む。


「シンホリイムを入れたクッキーを焼きました。ギルヴェクス様も、よろしければお召し上がりください」

「ああ。君がクッキーを焼いていたことは、ヘレディガーから聞いている。ありがたくいただこう」

「あ、ありがとうございます……!」


 頭を下げつつクッキーの包みを差し出す。

 ギルヴェクスはすぐにそれをテーブルの上に広げた。クッキーとシンホリイムの香りがふわりと漂いはじめる。


「いただきます」


 と小さく告げてから、丸く平たいクッキーをひとつ口に運ぶ。

 さく、さく、さく……と咀嚼音が聞こえてくる。


(お口に合うといいな)


 ルエリアは、ソファーから離れたところに立ち、祈るような気持ちで反応を待った。

 ギルヴェクスが、噛みくだいたクッキーを飲み込み、小さく息をつく。


「おいしい……」


 そう小声でつぶやいて、すぐに次のひとつに手を伸ばす。


(よかった、喜んでくれてるみたい)


 ルエリアが心の中で歓喜に飛び跳ねる妄想を繰り広げていると、ギルヴェクスの動きがぴたりと止まった。

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