第9話 これが、感情ですか。
「ハンナ、何か変わったか?」
私は、ベッドで仰向けになるハンナに声をかけてみた。ハンナは、パソコンのKのキーを人差し指で押して、映画の視聴を一時中断した。
今回のインストールとアップデートは、過去に例を見ない大がかりなものだった。第一に、感情という概念の取り入れ。さらに、痛覚の追加に伴う神経系のアップデートと、CPUにおける情報処理の更なる高速化のアップデートを同時並行で行った。
「いいえ。特に何か変わったことはありません、マイスター。」
私は試しに、ボールペンの先端をハンナの手首に押し付けてみた。痛覚が新たに搭載されていて、感情を持った彼女は、いかなる反応を示すだろうか。人間のように、「痛っ!!?」と言ってくれれば大成功だ。
ハンナの、粉雪のように白い手首には、ボールペンのインクの黒い跡が残った。
「マイスター。」
「どうだ、ハンナ?」
「痛いです・・・やめてください・・・」
なんと、痛みを検知している、認識している!なんと、涙を目尻から頬へと伝わせている!感情のインストールとアップデートは、完璧に成功した!
「これが・・・人間が常日頃から味わっている「痛み」なのですか・・・?これが、人間の「悲しみ」という感情なのですか・・・?」
「そうよ、ハンナさん!これが、私たち人間の感覚なの!ヒヒヒヒヒ・・・」
ハンナに歩み寄って、手を握ったのはコハネだ。恍惚とした表情で、新たな境地へと達したロボットを歓迎しているようだった。
「コハネさん、怖いです・・・」
「キャハハ!私のことを怖いって認識してる・・・!凄いですよ、先輩!!」
ピエロ化粧のように、口元を三日月型にして頬を釣り上げたコハネ。彼女を眼前にして、ハンナは「怖い」という感情を訴えた。目尻からは相変わらず多量に涙を流していて、表情はコハネから溢れる狂気に対する恐怖で、歪んでいた。
「す、凄いことだね。確かに。」
私は、ハンナに顔を寄せるコハネを引き剥がして、改めて我が娘に向き直った。
「ハンナ、さっきはごめんな。力が強すぎたかもしれない。」
「そ、そうですよ。もう二度と、痛い思いさせないでくださいね・・・マイスター。」
「ああ。約束する。」
私は、ぺこぺこ頭を下げながら、ハンナの全身に取り付けられていたコードや回線を全て取り除いた。彼女の手をとり、ゆっくりと立ち上がらせた。
「マイスターのボールペンでこんなに痛いということは・・・」
「ん?」
「兵隊さんたちの傷って・・・」
ハンナは、枕元のパソコンの画面に振り返った。画面の中の砂浜には、海岸で待ち構えていたドイツ国防軍の機関銃によって貫かれた、多数の連合軍兵士の亡骸が転がっていた。
「マイスター!」
「うおっ!?」
ハンナは泣き面のまま、私の胸元に飛び込んできた。ハンナの細い体躯によって、私は研究室の若干埃っぽい床に倒された。
「そんなに泣かないでくれ・・・」
ハンナの腕が私の後ろ首にまで回る。豊満な胸が私の薄い胸板と重なって、心の臓の奏でを感じる。彼女のその様子、姿は、人間そのものであるように思えた。
「だって、だって・・・私、怖くなって・・・うぅ・・・戦いも、戦争も・・・」
ハンナは、仰向けに倒れた私の胸に顔をうずめて、赤子のようにわんわんと泣き呻いている。これでは、あまりにも悲しみという負の感情が過剰である。
一度顔を私に向けて上げたハンナ。その頬と鼻元は、真っ赤に染まっていた。
「大丈夫よ、ハンナちゃ~ん。私のところにおいで。へへ・・・」
私の傍らで膝を折って、ハンナを手招いたのはコハネ。ハンナは、ばッと体を起こすと、今度はコハネの薄い胸に飛び込んだ。
私は、腰をさすりながら立ち上がった。よく腹部を見てみると、ハンナの涙の洪水の跡が、白衣に黒っぽいシミを刻んでいたのを発見した。こんなに涙を流すようになるなんて・・・私の予測では困難であった。
「コハネさんんん・・・うぅ。」
「大丈夫、大丈夫。私も、アドルノお父さんも、何時だってあなたの傍にいるでしょう?っへへ。」
「お、お父さん?私が?」
「そうでしょ、先輩?この子を産みだしたのは、先輩でしょう。」
コハネは、腕にハンナの白髪伸びる頭を抱えながら、私の方にニヤけ顔を見せた。憧れの自立型ロボットを胸に抱けて、ご満悦であった。
私は頭を掻く癖を止められなかった。今まで何の気なくハンナのことを「我が娘」と呼んでいた。しかし、ハンナの方から私のことを「父親」と認識されることは、どこか気恥ずかしかった。
「アドルノお父さん・・・コハネママ・・・」
「そ、その呼び方は止めなさい、ハンナ!せめて私は、今まで通り「マイスター。」と呼んでくれ!」
その呼び方では、第三者から誤解を生みかねない。私は慌てて、泣きっ面のハンナに訂正を求めていた。まあ、コハネのハンナに対する興味とか、母性みたいなものはあるようだから、「ママ」呼びは特段気にならないのだが・・・私自身が父と呼ばれることには、抵抗感と、やはり気恥ずかしさがある。
「先輩、ハンナちゃんの感情の修正が必要ですね・・・まぁ、私はこのままでもいいと思いますけど・・・へっ。」
「そうだなぁ・・・このままじゃあ、悲しみの感情というか、感受性が強すぎるような気がする。」
コハネの胸の中で、未だボロボロと涙をこぼすコハネは、人間っぽくてよろしい。しかし、これでは任務や、海物との戦闘ができる状態ではない。
私は早速、先ほどのアップデートの修正を迫られた。
「とりあえず、ハンナ、充電室に戻ってゆっくりしたらどうだ?感情があるって、付かれるだろう?」
「マイスター・・・充電室まで付いて来てくださいますか・・・?私、一人じゃあさみしいです・・・」
「・・・子供じゃないんだから・・・」
私は深いため息とともに、ハンナが伸ばした右手を取って、研究室を出た。
「ふふ・・・かわいいですよね、先輩。」
「・・・困ったな。」
ハンナの左手には、コハネの手が繋がれていて、私たちは家族のように三人並んで、充電室への廊下を歩いた。
と、曲がり角に人影が。あのガタイの良い男は・・・
「おうおう、アドルノ君。いつの間に妻子を持ったのだ!?」
「やめてください、局長!撃ち殺しますよ!」
シーライン局長のシュレイヒャーは、葉巻を吹かしながら、私たちを一見して豪快に笑った。____失せろ。さっさと自分の仕事をしろ。というか、この人タバコ休憩しかしてないな!?
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