風をあつめて

☆☆☆公開日☆☆☆

 

 2024年5月7日


☆☆☆キャッチコピー☆☆☆


 ノルウェイの森に置き忘れてきた


☆☆☆紹介文☆☆☆



 何か書きたくなったときの、短編置き場。 基本的に女と男が出てきます。 中身はないことが多いかもしれません。



☆☆☆本文☆☆☆


 5月になって、そしてしばらくして、GWが明けた。


 僕は相変わらず、大学の講義が終われば、図書館へ行って本を読んだり、都合があえば友達と近くの喫茶店へ入り、どうでもいいことばかりを話している。


 最近読んだ本はといえば、思い出したかのように本棚から取り出した村上春樹の『ノルウェイの森』だ。本棚といっても、書店の本棚ではあったが。その場合は本棚とは言わないのだっけ。知らんけど。


 高校時代の彼女が村上春樹が好きだった影響もあり、僕もその流れに乗っかったという感じの出会いだった。それまでは、ハルキストなどという俗語がネガティブな印象を世間に与えていて、自己紹介などでは、あまりその名を大きく言えない状況であることは、薄々ではあるが把握している、その程度の認識だった。


 当時の彼女Bは、平凡で読みやすい言葉で、恐ろしくナメクジのように粘着質に胸のなかを這い廻られているような感触が、好きなんだと言っていた。


 「なんとなく分かるような気もするよ」僕はそう言って、村上春樹のもつ文体の平凡性と特殊性を、その背反性を、想像した。少しも想像できるものではなかったが、なんとなく彼女の不鮮明な読後感というものの体験はしているような気もしているので、うなずく程度には彼女に同意を示した。


 彼女Bはそれからも、その短い付き合いのなかで、何回も村上春樹を勧めてきた。そのために、僕は大学入学後もしばらくのあいだ、ハルキストとはほど遠い位置から、彼の書物を撫でるように読み続けてきた。きっと、そのくらいの態度が、向き合い方が、丁度いいんだとでもいわんばかりに。


 しかし、それも長くは続かなかった。賃貸アパートの3階に住んでいた寒い冬の日だった。いつものように、僕は昼頃に起きて、ビールを呑んでから、またコンビニでビールを買い足して、軽い食事を近くの蕎麦屋で済ませてきた。


 そして、午後遅くの講義に間に合うように、急いでアパートに帰り、移動中の文庫本を手に取ろうと本棚を物色しているときに、恐ろしい出来事に気づいてしまった。



「本にカビが生えてる」僕は信じられないほど気力の籠っていない、そんな悲しみに溢れた、悲壮な声をあげた。


 

 カーテンを開けてみると、結露が窓ガラスいっぱいに広がって、床に滴り落ちていた。窓側にあった、アマゾンで購入した組み立て式の本棚は、結露に濡れて、そのカビを広く住まわせてしまっているようだった。


 結露の積み重ねが招いた惨事だった。僕の不注意が招いた人災でもあった。



「なんて日だ」僕はそう言わずにはいられず、しかしキャンパスに向かわないわけにはいかず、一冊だけマシな文庫本を手に取り、ノートPCとリュックと少しの軽食を雑につかみ取り、アパートの廊下から寒空をちらりと見上げて駆け抜けていった。


 その日の夜、僕は全ての文庫本やら単行本を捨てることになった。カビが生えても本の内容は全く持って変わらないというのに。僕は捨ててしまった。


 そのときに、村上春樹の本は、跡形もなく全て、僕の本棚から消えてなくなってしまった。彼女Bの存在も、記憶も何もかも全てが、どうでもよくなった瞬間であったように思う。



「生ぬるい風。5月とは思えない日差し。こんな日にはどうしようもなく風を求めてしまう。頬を心地よく撫でていく風。風。風。なにか昔の記憶がふっと蘇ってくるような、風、風。風……」



 僕は風をあつめて、はっぴいえんどのあのやる気のない、心地のよい声を思い出しながら、自転車を漕いでいる。

 

 

 忘れたと思っていた高校時代のあの、『ノルウェイの森』から抜け出せなかった、あの雰囲気。彼女Bとずっとずっと、堕落した付き合いをしていた頃の、あのどうしようもなくやる気のない日々に満足していた自尊心。



 全てが、突発的に、しかし柔らかく、脳内で次から次へと断片的にその情景を映し出していく。



「直子。なおこ。なほこ。菜穂子。堀辰雄。堀越二郎。風立ちぬ。ジブリ。自分。いま、僕はどこへ向かっている?」



 大きくなれば、大人のように立派になれると、そんな無邪気な期待を心のどこかに抱いていた。僕はいつになれば、あのときに見えていた彼らのような大人になれるのだろうか。



「僕は彼らのように見栄なんて張れないや、少しも」僕は喫茶店の脇に自転車を留めて、なかにいると連絡があった、今の彼女のところへ向かう。


 彼女はフランス文学を専攻しているお嬢様だ。外資系企業の社長パパさんがとにもかくにも、彼女をお嬢様に仕立てあげたんだと、出会った数秒後に彼女は心底嫌そうに語った。僕はその、お嬢様でありながら自らの立場を、まるで田舎者が貴族階級を妬んでいるかのような物言いで蔑む、そんな矛盾的な態度が気に入っていた。



「君は変わってるね。この大学にいるお嬢様の誰よりも」僕がそういうと、彼女は「あなたは平凡ね。私が出会った男性のなかで最もまともな人間ね」そんな村上春樹の文章でありそうな物言いで、僕のことを褒めたとも貶したとも、どっちとも言えないような曖昧なメッセージを伝えた。僕はその日のうちに彼女をアパートに呼び込み、酒を呑んで、彼女を抱いた。



 ぼくは喫茶店のなかに入り、いつもと違う席に座っていた彼女を見つけられないでいた。



「ねぇ、こっちよ」彼女は、声と仕草で僕を呼んだ。左手には、真っ赤な表紙の、僕が昨日貸してあげた村上春樹の「ノルウェイの森」が掴まれていた。



「これ、ひどい小説ね」彼女はそういって、僕にアイスコーヒーを渡した。僕は何も言わずに、追加でサンドイッチを注文した。



「高校時代の思い出だよ」



「ひどい思い出ね」彼女はそう言って、今日あった少しの事件を抑揚のある声で、楽しそうに語った。



 彼女にはどうやら、抑揚がないと駄目らしかった。




「自生しているイチョウは今では、ほとんどないんですって。だから、銀杏が食べたいなと思っても森には行っては駄目よ。恥ずかしい気持ちを堪えながら街路樹の付近にしゃがんで取るしかないのね。それか、素直に買うかよ。それにしても、イチョウは弱いのね。生かされているみたい、私たちに」



「それは僕たちも変わらないだろう」




 喫茶店では、Emotionsの『Best Of My Love』が、空間の脇で控え目に流れていた。




「……それもそうね」彼女は、おもしろくなさそうな顔をして、次の話題にとんでいった。




 僕の意識はまだ、5月の風の自転車の、生暖かな過去の思い出のなかに、その存在を散りばめていた。



【完】 

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