その2

 浮く両足、擦り付けるように着地して、四歩後退、途端に鳴り響く動悸、溢れる脂汗、ガチガチに固まる俺の両手から、身代わりに砕け散ったマネキンの残骸が溢れて落ちる。


 納得の一撃だった。


 俺の体を吹っ飛ばす重量、盾にしたマネキンを砕く破壊力、殺意を否定できない拳、だがそれよりも恐ろしいのは、これほどまでの攻撃を放ちながらその直前まで気配がなかったことだ。


 今一瞬、反応できたのでさえ拳が押し出す風圧を感じられたから、それがなければ、何もわからなかった。


 九死一生、今月一番の臨死体験、放った相手は闇かった。


 人、ではあるのだろう。


 拳のある二本の腕、頭に体、二本の足、けれどもその全てが闇に、小蝿か毛玉か何かモヤのようなものに包まれていて輪郭があやふやだった。


 異形、それが壁に立っていた。


 例えるならば背伸び、高いところにある何かを取ろうと手を伸ばす動作で、マネキン直そうとしていていた俺へ、拳を突き上げた様子だった。


 常識の通じない相手、圧倒的不利、火力不足、人員不足、経験不足、早々に逃げるべき、という時代は等の昔に過ぎ去った。


 これまでの経験で学んだこと、こういう相手は必ずしも全てが常識の外にいるわけではないということだ。


 例えば拳、次あげていたのを下げる動作、その最中にこぼれ落ちるのは今し方砕いたマネキンの破片だった。


 それが通行通り、下へ、落ちる。


 つまりこいつは周囲の重力を操るとかそういうのではないということだ。


 そこから観察と推察を続けていけば、実際は壁に立っているのではなく、引っかかってるということ、上側の縁に右足の指を引っ掛け、残る左足で落ちないように支えているに過ぎないとわかる。


 つまり物理法則からは逃れられていない。


 ならば殺せるだろう。


 俺が銃を引き抜くのと同時に異形が動く。


 右足を引っ掛けたまま左足で壁を蹴り、ぐるりと遠心力、壁上へと立つ。


 そしてそこから一歩前へ、踏み出し落下し着地すと一呼吸、俺へ向かって突撃してきた。


 その全てに音がない。


 無音、けれどそれだけと俺、発砲する。


 パン!


 命中、けれども音はなく、止まりもしない異形、ただ着弾した右肩のモヤが弾けて広がり、そして元に戻っただけで痛みすら感じている素振りはない。


 ただがむしゃらに前へ、その突き出した右手の下を掻い潜って俺、場所を移動するように回避する。


 べキリ。


 やっと音が鳴ったのは異形に踏み潰されたマネキンの胸、破けた布地の下にブラジャーは見られない。


 そして異形、それに一瞥向ける気配さえ見せずに俺へと向き直る。


 この感じ、覚えがある。


 ひょっとすると最悪かもしれない予感確かめるべく俺は立て続けに発砲した。


 パンパンパン!


 三発連射、その全てが異形の顔面近所へ命中、同じく弾けるモヤ、三発目にしてやっと、一瞬だが、その下が露わとなった。


 ミイラ男、顔にブラジャーらしき布を何枚も巻きつけて、その隙間から片目だけが覗いている。


 そしてその目には、一瞬で把握することのできない複雑な赤い文様が浮かび上がっていた。


 これを俺は知っている。


 これは、悪魔に魂を売り渡したものの目だった。


 実際に悪魔が実存するのか、魂などあるのか、それを売るにはどうすればいいのか、こちら方面には疎い俺だが、それでも『契約者』とか呼ばれるこの手の人種との戦闘経験は四度、ある。


 能力は様々、共通するのは何か目的があること、その目的を達成のために異形の力を手に入れていること、そしてその力のためにその他沢山を失っていること、そして重要なのは止めるには殺すしかないということだ。


「たかが下着のために」


 思わず呟いた俺の声が届くことはない。


 向かってくるのは偶然……いや。


 ひらめきに俺、警棒引き抜き突っ込んで来る異形の足元へと投げつける。


 バフン。


 命中、足に絡まった警棒、受け身も取れずに顔面から、派手な転倒にも音はない。


 そして立ち上がるためにまずは警棒を退かすという知能さえ失われている異形の前で俺は服を脱ぐ。


 先ずは防刃ベスト、無線機やら色々引っ付いてるのをまとめて脱ぎ捨ててシャツへ、ボタンを引きちぎりながらその下のブラジャー曝け出す頃には流石の異形も立ち上がっていた。


 突進、その前に、俺はつけていたブラジャーを剥いで丸めて投げ捨てた。


 ギュ!


 マネキン踏む音、急な角度で異形、わかりやすくブラジャーの方へ、前屈み、拾い上げ、両手で広げてマジマジ観察する。


 男の、おっさんの身につけていたほぼ新品のブラジャー、そんなのでも良いのかと、あるいは魂失ってまで求めたものがなんなのかわからなくなってるのかと、哀れみを感じながら俺は銃を撃った。


 パン!


 異形にではない。異形には一発程度意味がないだろう。


 撃ったのは上、電柱と電柱の間にある、電線の一本だった。


 音もなく落下する黒い線、それが黒いモヤに触れた瞬間、閃光に弾けた。


 バヂヂヂヂヂ!!


 至近距離で花火が全部燃えたかのような音と光、その真ん中でモヤを吹き飛ばし、全身ブラジャーぐるぐるの恥ずかしい格好で、全身硬直させている下着強盗、電気処刑はすぐに終わった。


 そして訪れる闇、それから湧き出る複数の困惑の声、見上げれば街中にも関わらず夜空に星が輝いて見える。


 大規模停電、どうやら俺が撃ち抜いた一本は撃ち抜いてはいけない一本だったらしい。


 そのための復旧、なぜこうなったのか説明しなければなるまい。それにこいつを殺した事実に対する事情聴取、今回あちこち応援入っているから一ヶ所二ヶ所では空かないだろう。それに相手が本当に悪魔契約者ならば本庁からまた担当部署が飛んできてあれこれ説明しなければならない。そしてその後にようやくマネキンを守れなかったこと、命令無視して応援呼ばなかったこと、その他小言を署長経由で聞かされることになる。


 何がうんざりかと言えば、その間中ずーーーーーーーっとこの格好のまま、着替えができないであろうということだ。そして聴取の最初になぜこの格好かと問われ、事情を話し、ブラジャーのところで笑われる。


 ……俺は禁煙をやめた。


 とにかく一服、煙を吸い込むため、タバコの入っている防刃ベストを、暗闇の中手探りで探しだした。


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