ブレストガード強奪

その1

 警察なんて仕事をしていると笑いのセンスが狂っていく。


 夜、北区、人通りの乏しい道、周囲は寝静まった住宅街、電柱の一本から照らし落とされる小さな灯りの中にポツンと立つのはマネキンだった。


 目鼻もない真っ平な顔で、金属のポールで立たされているプラスチックの体には、誰の主事だか知らないがセーラー服を着させられていた。


 ただそれだけ、荷物もなければ頭にカツラもない、詠めでも人形だとわかる人形、この緊急事態にこいつを見張るのが、俺へ直々に下された指令だった。


 ……始まりはもう三ヶ月も前になる。


 最初に『下着強盗』と耳にした時、正直俺は下卑なジョークだと思った。


 内容はそのまま、夜一人で帰路につく女性を襲い、無理やり下着を、主にブラジャーを引きちぎり、強奪するという、正しく下着の強盗だった。


 被害者数、届が出ているだけでも二十一件、初めは週に一度のペースだったが、他の性犯罪同様にペースが上がり、今でははほぼ毎日となってしまっていた。


 打開できない状況に、署長はこの事件を最重要手配とし、管轄を超えて全警察官総力を用いて対処するとの号令を出した。


 そしてその署長自らが行う合同説明会、集められたその他大勢に浮かぶのは嘲笑だった。


 アグレッシブな割にマニアックな犯行、たかが下着のために実刑確実の強盗を働く愚かな犯人、そしてその犯人を捕らえられない所轄やら担当部署やら、そしてそれにここまで話を大きくする署長へ、陰口を添えた嘲笑いが広がっていた。


 しかし、流石にそれも説明会が始まるまでだった。


 古いスライドで大きく映し出されたのは被害者の顔、受けた傷、事件の悲惨さだった。


 ほぼ全員が顎の骨を砕かれていた。


 それも強力な一撃をまともに喰らって、誰の目にも痛みが伝わるほど強烈だった。


 目に見えて輪郭が変わっているもの、折れた骨が飛び出ているもの、さらには首関節や脳にもダメージを負ったもの、命を落としてもおかしくはない大怪我ばかりが並んでいた。


 これが二十一件、そして犯行ペースが上がるのに比例して被害者のダメージも悪化していった。


 死人が出るのも時間の問題、その前に解決をとの思いに笑うものはいなかった。


 そうして始まった捜査と警備、制服組の俺は当然警備巡回側なのだが、下された命令は酷いジョークだった。


「えー君の担当はここだ氷河君」


 名目上、俺の直属の上司となっているハゲ男は命じたのがここだった。


「えーここで君には囮捜査をしてもらう」


 今でも耳に残るむかつく声で、あのマネキン指差しながら命じやがった。


「えー具体的にはだね。ここであのマネキンを見張って、犯人出てくるのを待って、出てきたら通報っと、なっとるよ」


「……本気ですか?」


 銃弾の代わりに出てきた俺の問いに、目に見えてビビるくせに態度はできまま返してきた。


「もちろんだとも。えーこれは上層部が専門家たちと協議の結果下された命令だ。プロファイラーも可能性は高いと言っている。それに」


 カチリ、ニューナンブの檄鉄を起こしてようやく自称上司、無駄口を慎んで真実を語り出す。


「……他の応援部署からの要望だ。条件と言ってもいい。君と共に働くぐらいなら退職すると、署名運動まで起こりかけてた。彼らを納得させるための譲歩だよ」


「この緊急事態に?」


「だからだ。君が優秀なのは認めるが、それでも署名運動始めようとしている連中の方が有用だ」


「連中程度、いくら集めても意味がないですよ。むしろ被害が広がる」


「君ぃ」


「口頭での報告にはありませんでしたが報告書にはしっかりと記されている共通事項、殴られた被害者は殴られたことで初めて犯人を認識できた。つまり。これは明らかに俺の担当です」


 言うだけのことは言った。だが無能は無能だった。


 ……そうしてこのように俺は命令に従っていた。


 無視して、独自に動こうかと今も思っているが、それで犯人が捕まればまだしも、普通に命令違反、下手すれば俺が犯人にされかねない。


 残念だが、あと一人か二人、犠牲者が出るか、あるいは警察官自身が襲われでもしない限り現状は変わらないだろう。


 それまでは、耐えるしかない。


 と、夜の道、向こうからやってくる影、見ればサラリーマン風の男、しっかりとした足取りで足早に、けれど俯いた視線でこっちに来る。


 周囲を伺う様子はなし、顎を砕くパワーもなさそうだ。何よりその手の気配がない。


 ならば犯人ではないだろう。放っておく。


「うぉ!」


 サラリーマン、目の前にマネキンが来るまで気がつけなかった。


 派手なリアクション、飛び退き、構え、マジマジと見つめてやっと人形だと理解する。


 そして首を傾げると、マネキンへと手を伸ばす。


 まさか犯人だったかと銃に手を伸ばす俺、だがサラリーマンは静かにマネキンを持ち上げると、道の横にずらして置いて、そのまま行ってしまった。


 犯人ではなかった。


 安堵の混じるがっかり、静かに隠れていた草場から這い出てマネキンへ、横に置かれていたのを元の位置へと戻すと擦れていたい。


 女性はいつもこんなものをつけているのかと思いながら、ブラジャーの締め付けをずらす。


 ……ジョークではない。


 相手が何者で、何が目的で、如何なる存在か不明ならば、俺自身が囮になる可能性もないわけではない。実際、被害者の年齢や職業、顔面偏差値はバラバラ、男性にしか見えないものもいれば、実際にブラジャー付けてるだけの男性もいた。

 ならば俺がつけない理由がない。


 むしろマネキンよりも生身な分だけ囮に相応しい。


 理論武装は邪魔者を排除するため、犯人逮捕に恥辱などとるに足らない。


 だからわざわざ非番の日に試着して、今後使う予定のない胸当て買って身につける繊細さ、ない他の連中に逮捕は難しいだろう。


 思ったら気配がした。


 微弱、微量、気のせいにできるレベル、それでもと振り向いた俺の目の前に拳があった。


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