その2

 キン。


 扉は閉まり動き出すエレベーター、中の三人、はしゃぐのは男ただ一人だった。


「うひょーうひょひょひょうっひょっひょー!」


 歓喜極まって漏れ出るキモい声、体を左右に揺らし、鼻息荒く、興奮を全身で表している。


 その前で銃を突きつけられたままの俺はひたすらに焦りと冷や汗に溺れていた。


 このままではまずい。


 俺は心のどこかでこれが手の込んだイタズラなんじゃないかと思っていた。


 あるは勘違いか、妄想か、そうでなくてもなんかこう、詐欺とか実験とか、ちゃんと説明できる現象だろうとは予測していたし、そう信じてもいた。


 しかし実際は、人どころか物かもわからない異常事態、こんな所で別世界を引き当てたのだと、そしてこれからそこへ連れて行かれているのだと、そう納得させるだけの説得力が、乗ってきた女にはあった。


 真っ白な肌に真っ白なワンピース、大きな白い帽子を被る横顔は、間違いなく美人だった。


 ただ、それは見えている部分だけの話だ。


 チラリ、見間違いを期待してもう一度、鏡になっている扉を見る。


 反射、女の顔、こちら側を向いていない反対側、隠れている部分、宇宙だった。


 真っ暗、立体感のない闇、その中に小さな光を疎に散らしてあった。


 少なくとも、人や物には見えなかった。


 思うに、この女が女の見た目なのは俺と男が見えている部分だけなのだろう。それ以外は人の外見に似せる必要がないからと、手を抜いている。ハリボテセットの裏側と同じ、そんなのが、乗っていた。


 ……最悪な気分だ。


 無性にタバコが欲しい。ダメならミント菓子でもいい。


 とにかく何かを味わいたい気分だった。


「異界ゴー! 異界ゴー! 異異界ゴーっゴゴー!」


 ついには歌い出した男、こいつは今すぐ殺すべきだろうか?


 女の方が影響は大きそうだが、それが良い方向に行く気がしない。


 ならばどうするか、思案している間にエレベーターは止まった。


 キン。


 もはや何階かも数えていない階、扉が開くと、女は自然と降りようとする。


「なぁ」


 それを反射で止めようとして、思わず手を伸ばす。


 ヴォン!


 強烈な異音、同時に女の姿が激しくブレて、一瞬透けて見えた。


 これに驚き手を引っ込めるのと、背中に猟銃突きつけられるのとほぼ同時だった。


「やめろ! 彼女を下さなかったら異界に行けないじゃないか!」


 言われてだったら止めなくては、判断した時にはもう遅い。


 女はエレベーターの外へ、そしてやたらと早く扉が閉まる。


 キン。


 再び二人きり、歌はないが荒い鼻息は残り、空気が湿る。


「なぁ」


「黙れって言ってるだろ!」


「いいから聞けって。俺は職業柄、信じてもらえないだろうが、こういう変な空間には何度も巻き込まれてるんだ」


「変じゃない! 異界だって!」


「異界も一緒だ! 共通する教訓は『どんなに良さげでも近づくな』だ! ぱっと見綺麗に見えてその実足を踏み入れたらえらい目に遭うんだよ! それも死んだ方がマシってジャンルのな! まだ間に合う! 猟銃も監禁も忘れてやる! だから!」


「黙れ騙されないぞ! そういうお前は帰って来れてるじゃないか! うまいこと言って利益独占したいだけなんだろ!」


「帰って来れたのは! 俺だけなんだよ! 他はみーんな助けられなかった! 俺だけが残っちまったんだ! だけどお前は戻れる。だから」


 キン。


 エレベーターが止まり、扉が開いて、閉じた時、鏡に映った男は、よりしっかりと銃を構えていた。


「……それでも、戻れはするんだろ?」


 ボソリ、呟く。


「だったら大丈夫、俺だって戻れる」


「だから」


「だって俺は、主人公だからな」


 キラリ、鏡の反射の向こう、男の顔のゴーグルの反射が抜けて、チラリと見えたその眼差しは、手遅れだった。


「なんの変哲もない声優専門学校学生の男が、ひょんなことから異界へと迷い込む。そこで出会った師匠に鍛えられ、俺は英雄の道を直走る。現実世界に戻るのは、スピンオフかな」


 これはもはや思想ではなく認知の違い。


 脳構造レベルで話が通じていない感じ、ここがこうでなければ間違いなく薬物検査を求めるところだ。


 つまりは手遅れ、もう助からない。


 ここを脱したところで、また別の場所で似たようなことをして、人を不幸にする。


 だったらここで殺してやるのが人情だろう。


 思った矢先、俺の体が扉へ押し付けられる。


「これからが大切なんだ。これから一階まで降りるまでの間、ずっと一階のボタンを押し続けなければならない。一瞬でも指を離したら異界に行けなくなる。だから邪魔をするな」


「おい!」


 返事は銃口、押し付けられる痛み、それに逆らい無理矢理首を捻って顔を見れば、男は目も唇もひん剥いて、俺の前の閉じられた扉に夢中となっていた。


「聞け! おい! 聞けって!」


 もはや男から返事はない。


 だが代わりに、扉の向こうから振動が伝わる。


 小さく擦れる音を立て、この金属の向こう側、何かが蠢いているのがわかる。


 開いたら、この向こうに、何かいる。


 ガゴン!


 そこへ予期せぬ振動に俺の体が扉より一歩下がる。


 キン。


 そして扉が開いた。


「おい降りるな! まだだぞ! 押すなよ! まだ引き返せるぞ! もう一度考えろ! いいかおい!」


 ……返事は無かった。


 そして背中へ押しつけられる銃口も無かった。


 恐る恐る、振り返ると、男の姿もなかった。


 扉の向こう、一階は、一階だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る