その2
……臭いによって人は記憶を呼び起こす。
学者の言葉でプルースト効果と言うらしいが、脳の真下にある鼻から物理的に臭い粒子を取り込み、感じていることを思えば、その影響力が大きのも納得だろう。
そしてその鼻の下、繋がっている口の中の舌にも同様の効果があると言うのは無理からぬ話だった。
だからラーメンの匂いを嗅いでその味を連想する、と言うのは然程不自然なことでもない。
だが、今のは別格だった。
鼻から抜ける香りや舌に広がる味はもちろん、そこに温もりや歯触り舌触り、喉越し、そして胃に到達する前に消える。
過去に類を見ないリアリティ、間違いなく超常現象、それがこの上ない美味ともなれば、危険度は跳ね上がる。
また、出会した。
溢れる感情、苛立ちに緊張、それらをすり抜けるようにポチャリ、滴ったのは、俺の口より溢れた涎だった。
これもまた、初めての経験だった。
ご馳走を目の前にして涎溢れることはあっても、それを口から滴らせるなんてのは漫画の話だ。
それを滴らせる、らせられている。
ただの一風、ただの一嗅ぎ、それだけでこれほどまでの影響力、最善は逃走なのだとこれまでの経験でいやと言うほど学んできた。
だが後輩は違っていた。
「いい匂い」
呟くような一言と共に、足早に公園の中へと入っていってしまう。
その直前、チラリと見せた横顔は、いつか別人で見た魅せられたものの目だった。
「おい!」
俺の声も届かず止まらぬ後輩、見捨てるわけにはいかずその後に続く。
……いや、それさえも自己弁護、ただこの先に行きたいがために自分を騙しているに過ぎない。
そこまでわかっていながら止まれないほどに、俺は術中にハマっていた。
そうして、気がつけば公園の真ん中、安全性のために見晴らし良くなってる中、大きなジャングルジムの前で、多くの人たちが半分に分かれていた。
向かって左側は、まるで魂が抜け落ちたような一群だった。
寝転ぶもの、座り込むもの、みな一様にここではないどこかを見つめて、僅かに体を揺らしている。中には仰向けにバッタリ倒れたかと思えば、そのまま大きな腹を上下に、寝息を立て始めるものもいた。
対して残り半分、右側は長蛇の列だった。
まるで枯れ草が生えそろっているような、痩せ細った身がずらりと並んでいる。その肌は暗がりでもわかるほどに血色悪く、手足も関節の節が目立つほどに肉が落ち、だけれどもその目だけが希望に輝いていた。
左右に広がる異様な光景、その狭間にあるのは、一軒の屋台だった。
今時珍しい木製の手押し車、手前にかけられた暖簾には読めない文字が書かれている。その向こうでは簡素な椅子に座った客が二人、どんぶりに頭を突っ込み無我夢中で貪っていた。
見なくてもわかる。ラーメンだ。
濃厚な豚骨に醤油を合わせたいわゆる家系スープを、縮れた太麺に絡めて啜る。トッピングは味玉にモヤシ、そして分厚いチャーシュー、長ネギは細長い白髪切りなのにこだわりを感じる。
見えていないのにただ臭いだけでその全てが、その美味が伝わってくる。
ギュルル。
鳴った腹の虫は俺のか、あるいは列の一番後ろに行こうとしている後輩のか、現実があやふやになっていく。
これは不味い。
「おい。ここを出るぞ」
まだ手の届く距離にいる後輩へ、声と共に手を伸ばすと軋む痛みがあった。
関節痛、長い時間動かさないでいたから固まっていた感じ、それが腕だけではなく足腰含めて全身にあった。
さっきまで平気だったのに、疑問と共に手を見れば、変化は目に見えて進んでいた。
乾いていく肌、痩せていく指、黄ばんでいく爪、青白く変色すると共に体温までも落ちていると感じられる。
この感覚は、酷い風邪を引いた時のような、長らくものが食べられていなかった時のような感じ、気がつけば唇も乾き、視野が歪んで、そして耐え難い空腹に襲われた。
ぐりゅうううう。
今度は間違いなく俺の腹、ナルト共に命の危険を感じる。
このままでは飢えて死ぬ。
何か、食べなければならない。
本能と理性、一致した願望、俺の足は自然と列の最後に向かおうとして、けれど最後の何かがそれを咎めた。
このままいけば衰弱事件の二の舞、少なくとも目の前にラーメン屋の屋台があるのならこれは人為的な災害に等しい。
その狙い、付き合えば戻れない。
それでもと叫ぶ本能と理性、両者黙らせるために俺はポケットからミント菓子を引っ張り出すと中身をジャラリ、ありったけを口に含んで噛み砕き、飲み込んだ。
微量ながら食事に、思考が戻ってくる。
……ここまでの影響は全て臭いによるものだ。
脳に近い分、鼻からコカインなどの薬物摂取すればその薬効は凄まじい。それがここまでリアリティのある臭いとなれば、頭だけでなく身体さえもが、食べてないのに食べた気になってしまうのだろう。
そしてありもしないラーメンを消化し、ありもしない栄養を取り入れて、ありもしないのに消費する。
それが急速な衰弱の正体、細かな原理は知らないが矛盾のない推理、ならば手は一つだ。
俺はさらにミント菓子を取り出して鼻の穴にそれぞれ捩じ込んだ。
痛み、ミントの匂い、違和感、それらを正常に感じられる程度には回復、だがこれがどれぐらい持つかはわからない。
更に一粒舐めていると、暖簾が捲られた。
食べ終わったのか出てくる客一人、その向こうで調理している屋台の店主は、人ではなかった。
白い割烹着姿、人間に見える体、けれど見えている手や顔は人のものではなく、白い脂身、豚か何かの脂肪をトロトロに煮込んだものでできていた。
そして顔は異形、目鼻の類は一歳ないのに口だけが、それも縦に裂けて牙と舌を覗かせる口だけがあった。
明らかに人ではなかった。
だったら、躊躇も必要なかった。
俺は腰よりニューナンブを引き抜き、そののっぺらぼうの顔ど真ん中へ、ぶっ放した。
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