第58話 心を癒やす魔法(前編)

 まばゆい光がわたしとヴェグナトールをつつんだ瞬間しゅんかん、周囲の景色けしきゆがはじめた。


 結界のかべけるように消え、とりで残骸ざんがい霧散むさんしていく。

 耳をつんざくような高音がひびき、体が宙にいたような感覚におそわれる。

 意識が、まるで時空をえるかのようにまれていく。


(……っ!)


 目を開けると、そこは見知らぬ風景だった。


 雪におおわれた山々が連なり、てつく風がほおでる。その冷たさに思わず身震みぶるいする。


 遠くには氷におおわれた湖がかがやき、空にはあざやかなオーロラがっている。

 緑とむらさき交錯こうさくする光の帯が、静寂せいじゃくの中で幻想的げんそうてきらめいていた。


 美しい景色けしきだが、同時に厳しい寒さが身にしみる。

 こごえそうな空気が肺にはいみ、息をくと白いきりが立ち上る。


(ここは……グレイシャル帝国ていこく?)


 そのとき、遠くから人々の歓声かんせいが聞こえてきた。

 風に乗って断片的だんぺんてきに届く喜びの声に、思わず耳をかたむける。


 わたしの視線の先には、小さな村が広がっていた。

 粗末そまつな木造の家々が立ち並び、煙突えんとつからのぼけむりが寒空にけていく。


 中央には石造りの教会がそびえ立ち、その尖塔せんとう夕陽ゆうひに照らされて赤くかがやいている。

 村の入り口には「聖女様、ご来訪を歓迎かんげいいたします」と書かれた看板が立てられており、色とりどりの花がかざられていた。


 そして、村の広場に集まった人々の中心に、一人ひとりの若い女性の姿があった。


 長い黒髪くろかみを風になびかせ、純白のローブに身を包んだその女性は、まさに聖女と呼ぶにふさわしい気高さをたたえていた。


 彼女かのじょの周りには、やわらかな光がただよっているようにも見える。

 その姿は、まるで絵画からしてきたかのような美しさだった。


「アリア様、ありがとうございます。あなたのおかげで、主人はすっかり良くなりました」

「それは何よりです。力をくした甲斐かいがありました」


 アリアの声は、やさしくんでいた。

 その声を聞いているだけで、心が温かくなるような感覚におそわれる。


 アリアは、村人たちにやさしく微笑ほほえみかけながら、次々とかれらの願いを聞いていく。

 病にせる老人の回復をいのり、不作になやむ農夫に祝福をあたえ、孤児こじたちをきしめる。


 その一つ一つの行為こういに、深い慈愛じあいの念がめられていた。

 彼女かのじょの手から放たれるあわい光が、れた人々の表情を明るくしていく。


(これが……100年前の聖女、アリア)


 わたしは息をむ。アリアの姿は、まさに聖女そのものだった。

 彼女かのじょを見ていると、わたしなんてまだまだ聖女と呼ばれるようなうつわじゃないな、と思わされる。

 彼女かのじょの周りにただよう聖なるオーラは、わたしには到底とうていおよばないものだった。


 そんな思いがよぎったとき、突然とつぜん空気がこおりつくような感覚におそわれた。


 村の上空に、巨大きょだいかげが現れたのだ。


 黒いうろこおおわれた巨体きょたいするどきば、そして燃えるような赤色の目。

 間違まちがいなく、今と変わらない――じゃりゅうヴェグナトールだった。

 そのつばさが空をおおい、一瞬いっしゅんにして村全体が暗闇くらやみに包まれる。


「グハハハハハ……! 消えろ人間ども!」


 ヴェグナトールの咆哮ほうこうが、大地をふるわせる。

 その声に、村人たちが悲鳴を上げ、まどう。


 家畜かちくが焼かれ、作物がらされていく。

 げた肉のにおいと、土けむりが立ち上る。しかし、アリアだけは動じなかった。


じゃりゅう、ヴェグナトール。なぜこんなことをするの?」


 アリアの声は、りんとしてひびく。

 おそれの色は微塵みじんもない。その姿は、まるであらしの中に立つ一本の樹木のようだった。


 そんな彼女かのじょに、ヴェグナトールはニヤリと笑う。そのきばが不気味に光る。


「フン。お前は人間の聖女とやらか。人間どものいのりを聞き入れる存在だと聞いたぞ」


 ヴェグナトールの声には、明らかなあざけりがめられていた。

 その声にふくまれる悪意が、まるで有毒なきりのように周囲に広がっていく。


「そう。わたしは人々の願いを聞き、できる限りの助けをする。それが聖女の務めです」

「見下げ果てた欺瞞ぎまんよ! 人間とは薄汚うすぎたなく、おのれの利だけを考える生き物。貴様の本性ほんしょうを知っているぞ!」


 ヴェグナトールはそう言って愉快ゆかいそうに笑う。

 そんな侮辱ぶじょくを受けてもなお、アリアはひるまなかった。


「どうか、この村を去ってください」


 アリアの言葉は、静かだが力強かった。その声に、村人たちの希望の眼差まなざしが集まる。

 ヴェグナトールは高らかに笑った。その笑い声は、まるで雷鳴らいめいのようにひびわたる。


「グハハハ……! 構わんぞ、こんな粗末な村。だが願いを口にするならば代償だいしょうはらうがいい」


 ヴェグナトールの目がするどく光る。そのひとみに、底知れぬ悪意が満ちている。


「村をはなれる代わりにお前を我の棲家すみかに連れて行く。それでも良いのか?」


 村人たちから悲鳴が上がる。その声が、寒気とともに広がっていく。


 邪悪じゃあくなドラゴンの棲家すみかなど、そこで何をされるかわかったものではない……しかし、アリアは静かにうなずいた。

 その表情には、るぎない覚悟かくごかんでいた。


「わかりました。でも、約束してください。二度とこの村をおそわないと」

「ククク……。聖女の仮面はまだがれぬらしい。いいだろう……!」


 そうして、ヴェグナトールはアリアを巨大きょだいつめつかみ上げる。するどつめが、アリアの白いはだむ。


 つばさが空気をたたき、はるか上空へと飛び去るドラゴン。

 村人たちの悲しみの声が、遠ざかっていく。その声が、次第しだいに風に消されていった。


 場面が変わる。


 今度は、雪山の頂にある巨大きょだい洞窟どうくつ

 そこでアリアとヴェグナトールが向かい合っているのが見えた。


 洞窟どうくつの中は薄暗うすぐらく、冷たい空気がただよっている。

 かべには氷柱つららが形成され、その先はしから水滴すいてきが落ちる音がひびいている。


「なぜだ。なぜおびえない? 貴様はこれからむごたらしく殺されるのだぞ」


 ヴェグナトールの声には、いつもの尊大さがない。

 代わりに、困惑こんわくの色が見える。その目には、今までにない戸惑とまどいの色がかんでいた。


「あなたはわたしを殺すつもりはないでしょう?」

「……何故なぜそう思う」

「だって、殺すつもりならとっくにやっていたはず。村人の目の前で。かれらの苦しむ姿を見るために……」


 アリアの言葉に、ヴェグナトールは言葉を失う。その巨大きょだいな体が、わずかにふるえたように見えた。


わたしはね、あなたの目を見たの。そこには、孤独こどくがあった」

「……馬鹿ばかなことを! 人間風情ふぜいがこの我を見通したつもりでいるのか」


 ヴェグナトールの声が洞窟どうくつひびわたる。

 その声には、いかりと共に、何か別の感情が混じっているようだった。


「でも、本当よ。だからこそ、わたしはあなたの友達ともだちになりたいの」


 アリアの言葉に、ヴェグナトールは激しく首をる。

 その動きで、洞窟どうくつかべから小さな岩が落ちる音がする。


だまれ! 我はじゃりゅうだ。人間など食い物にすぎん!

 くだらぬ慈愛じあいごっこは地獄じごくでやるがいい! ガアアアッ……!」


ヴェグナトールが大口を開き、ほのおかすかにす。

 空気がらめき、熱波が洞窟どうくつ内をめぐる。


 そのままかれの口はアリアの目の前で止まる。

 するどきばが、アリアの顔の前でわずかにふるえている。

 少しでもあごに力を入れれば、アリアはくだかれるだろう。


わたしはあなたを信じているわ。あなたにも心があるということを」


 アリアのひとみに、強い決意の色が宿る。その目には、るぎない信念がかがやいていた。


 ヴェグナトールがひるみ、そのきばはついに……アリアにさることはなかった。


「頭がおかしいのか。本気で我と友になれるとでも思っているのか」

「ええ。あなたには言葉を伝える力があり、頭脳があり、心がある。

 ドラゴンと人間であっても、わかり合うことはできるはず」


矮小わいしょうな人間をつぶして楽しむことが、我の生きる理由であったとしてもか?」

「あなたには、別の生き方だってできるはずよ」


 まったくひるまない聖女アリアに、ヴェグナトールは背を向けた。

 その背中には、何か言い表せない感情がんでいるようだった。


「興が冷めたわ。山を降り、消えよ」

「……また、ますからね」


 アリアは不敵に微笑ほほえみ、その場を後にした。彼女かのじょの足音が、洞窟どうくつの中で静かにひびいていく。


 再び、場面が変わる。


 それは同じヴェグナトールの棲家すみかの山であり、かすかに日がっているようだった。

 雪解けの季節をむかえ、山肌やまはだには所々に新芽が顔をのぞかせている。


今日きょうは、子供たちに花を頂いたんです。あなたもいかがですか?」


 アリアの手には、色とりどりの野花がにぎられていた。そのかおりが、かすかに空気にただよう。


「くだらぬ。草など腹の足しにもならぬわ。人間の幼体など、ますます胸が悪くなる」


 ヴェグナトールの声には、いつものとがった調子がもどっていた。

 しかし、その目にはわずかな好奇心こうきしんが宿っているようにも見えた。

 アリアは負けじとヴェグナトールに話しかけ続けているようだった。


(コ……コミュ力が高い! わたしだったら2、3回塩対応されたら二度と来ないよ……!?)


「あなたは人間のことを誤解しています。人間は、あなたの言うような悪しきものではないのですよ」


 アリアの声には、おだやかな説得力がめられていた。

 その言葉に、ヴェグナトールは鼻を鳴らす。


「ハ! たかが10か20年程度生きた小娘こむすめが知ったふうな口を。われがどれだけ人間を見てきたと思っている?

 我に言わせれば、やつらなどゴミだ。いつまでも同族で争い、おびえ、自然をこわす虫ケラよ」


 ヴェグナトールの声には、長年の経験に裏打ちされた確信が感じられた。

 その目には人間への軽蔑けいべつの色が宿っている。


 それから、ヴェグナトールはずいと頭をアリアに近付けた。

 その鼻先から熱い息がきかけられ、アリアのかみれる。


けをしないか、アリアよ」


 ヴェグナトールの声には、悪戯いたずらっぽいひびきがふくまれていた。


け、ですか? わたしはしたことはありませんが……」

「簡単なことだ。貴様が最期さいごの時まで、そのくだらぬ綺麗きれい事をつらぬけるかどうかをけよう」


 アリアはその言葉に目をしばたたかせた。構わずヴェグナトールは続ける。


「死ぬ瞬間しゅんかんまで、人間を綺麗きれいなものなどと言えれば、特別な礼をくれてやる」

「まぁ……それは、なんですか?」

「100年の間、人間をおそわぬと約束してやる。どうだ?」


 ニヤリとヴェグナトールが笑う。

 その表情には、かれの意図がはっきりと現れていた。するどきばが、不気味に光る。


 アリアがやがて人間のみにくさを知ること。

 そうしたら、やはり人間などくだらない生き物だと笑い飛ばして、意気揚々いきようようと人間をおそってやること……。


 そんなヴェグナトールの思惑おもわくを知っていてなお、アリアは優雅ゆうが微笑ほほえんだ。

 その笑顔えがおには、るぎない自信がにじんでいた。


「いいですよ。もっとも、わたしが勝つに決まっていますが」

「グハハハハハ……! まぁ見ておれ。貴様もすぐに理解するぞ、『聖女』よ……」


 ヴェグナトールは「聖女」、という言葉を強調してみせた。

 その言葉の意味と重さを、かれは理解しているかのように。


 そうして二人ふたり奇妙きみょうな共同生活が始まった。

 アリアは相変わらず村々をおとずれ、人々を助ける。

 そしてヴェグナトールは、空や山から彼女かのじょの行動を冷ややかに見守り続けた。


(これが、ヴェグナトールとアリアの関係……)


 わたしはその光景を、息をんで見つめ続けていた。

 そこには、だれも知らなかった二人ふたりの姿があった。

 時の流れが、まるで水の流れのようになめらかに進んでいく。


 人間の願いを聞き入れ、くしつづける聖女アリア。

 そして、その行動を嘲笑あざわらいながらも、どこか興味深そうに見守るじゃりゅうヴェグナトール。


 その奇妙きみょうな関係が、少しずつ形を変えていく様子が、まるで走馬灯そうまとうのように次々と映し出されていく。

 そこには、だれも知らなかった物語が、静かにつむがれていった――。

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