乙女の必需品
ヨコハマ、初秋の日曜。何処かの小さな薬局で。
鏡花は風呂や台所の洗剤を手にしたカゴに入れていく。日用品の買い出しも重要な家事だ。
あとはこれからの季節、風邪でも引いたら大変だ。風邪薬とうがい薬もカゴに入れる。
「あら、鏡花さんじゃありませんこと?」
聞き馴染んだ、鈴転がすような声。振り返ればナオミが其処に居た。
ナオミは愉しそうに鏡花に近づいてくる。そこではたと気づいたようだ。
「あら、今日は敦さんは?」
鏡花は何時もの調子で淡々と答える。
「仕事で疲れて、寝てる」
昨日は大捕物があって敦は大活躍した。だが、その現場には鏡花も駆り出されたのだ。
ナオミは頬に手を添えて小さくため息をつく。
「だからと云って、女の子一人に日用品の買い出しを任せるなんて……」
少し高いところにあるナオミの目を見つめて、鏡花はこう云う。
「貴女だって、今日は一人」
「……ああ、兄様のことですわね?
今日はわたくし、乙女の必需品が欲しくて来たから良いんですのよ」
鏡花がそのまま首を傾げると、ナオミは自分の手にしたカゴの中身を見せた。
保湿クリーム、パック、口紅。――化粧品のたぐいだ。
ふふ、と小さく笑ってナオミは唇の前に人差し指を立てた。
「女が何を使って美しさを保っているのか、殿方は知らない方が愉しいでしょう?」
鏡花は首をまた元の位置に戻すと、ナオミのカゴの中にじっと視線を注ぐ。
「そうだ! 折角の良い機会ですもの。貴女も何か化粧品を買ってみては?」
「無駄な物を買う訳には……」
言葉尻は沈んで消えた。ナオミはそれを頷いたのだと受け取って、鏡花の手を引くと売り場を移動した。
連れられてやってきたのは、口紅の売り場だ。
ナオミは真剣な面差しでじっと並ぶ口紅を眺めている。其処でテスターを手に取り、鏡花の手の甲にひとすじ塗った。
見た感じはごく薄い桃色なのだが、鏡花の透けるような白い肌には少々、色が強く映る。
「……うーん……貴女にはまだ口紅は早いのかもしれませんわ」
そしてテスターを戻すと、ナオミは棚を横に移動してリップクリームを手に取った。それを鏡花に見せて微笑む。
「これ、こう見えて色つきですのよ。
これからの季節、乾燥も防げるし、何よりぬるま湯でも落とせますわ」
「そんな物があるの」
鏡花の口調は心做しか弾んでいた。
それを感じ取ったのか、ナオミは続ける。
「わたくしが貴女くらいの年頃に使っていたのと同じものですの。
きっと貴女なら似合いますわよ」
そしてナオミは、それを自分のカゴに入れた。
「――で、これはわたくしが買って差し上げますわ」
鏡花は慌てて首を横に振る。
「そんな、貴女に悪い……」
たかが数百円のものだが、ただ買ってもらうなんて、まるで子供みたい。もう自分は探偵社から給料だって貰っているのだから。
そう鏡花が必死に説得すると、ナオミは困った様子で「本当に義理堅いんですのね」と呟き、それからぱっと顔を輝かせた。
「それなら交換条件として、こういうのは如何でしょう?」
ナオミは少し背を屈め、鏡花に目線の高さを合わせた。
「わたくしがこれを買って差し上げる代わりに……」
「代わりに?」
「貴女が恋をした時、そのお話をナオミに聞かせて下さいまし」
その言葉に鏡花は目を瞠る。
そうしてナオミはスカートを翻し、颯爽と会計へと向かうのだった。
文スト短編集 高間晴 @hal483
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