秋の香り
夏の暑さもだいぶなりを潜め、小雨の降る昼下がり。此処は探偵社の医務室。そして武装探偵社専属医である与謝野晶子の城でもある。
「長閑だねェ……」
思わずデスクでそう呟く。
すると医務室のドアをノックする音が聞こえた。与謝野が、「入りな」といらえを返すとまだ新人の事務員が入ってきた。
「与謝野女医! 良い物が手に入りましたよ!」
弾む声とともに現れた彼女は、盆の上に湯気の立つティーカップを乗せていた。
「なンだい、今度は何さね?」
与謝野がそう訊く。
この事務員は珍しくて美味い食べ物に目がなく、時々与謝野にもお裾分けと称して差し入れてくれるのだ。今回も其れだろうと予想がつく。
「なんと、金木犀の花びらジャムです!」
そう宣言した丸い頬はふっくらしており、普段よりも深めの笑窪が出来ている。
本来なら来客用である白いティーカップ。其れがデスクの上に置かれると、ふわりと金木犀の何処と無く懐かしい香りが感じられた。水面を見れば透き通った黄金色。其処に指先で摘むのもやっとだろうと思われる、小さな小さな橙色の花が五つ六つほど漂っていた。
「ほう……こりゃ風流だねェ」
「でしょう? 今の季節にぴったりだと思いませんか?」
ふたり目を合わせて笑う。与謝野は「頂くよ」と云い、カップから一口含んだ。口の中に温かく優しい甘味が広がり、飲み下すと口の中がさっぱりする。
「……こりゃァ、風味の方も中々だねェ」
「お酒じゃなくて、こういう飲み物もたまには良いでしょう?」
「酒は酒で、また違う美味さがあるけれどねェ」
そう答えれば、彼女はため息とともに項垂れる。
「ええ……何時になったらお酒辞めてくれるんだろ……」
彼女は与謝野を心配しているのだ。其れも理由がある。彼女の父は酒がたたって体をあちこち壊してしまっているのだ。仕方ないので三姉妹の長女である彼女はまだ小さな妹ふたりを残し、田舎から出てきている。そして此処で働き、実家に仕送りをしているのである。
すっかり気を落としてしまった彼女に、与謝野が訊く。
「そのジャム、あとどれぐらい残っているンだい?」
「えっと、こういう風にお湯に溶かして飲むなら、軽く十杯分は……」
其処で与謝野はデスクに肘をついて事務員の方へ笑いかけた。肩の上で切り揃えられたボブの黒髪が揺れる。
「じゃア、妾にこれから毎日一杯ずつ淹れとくれ。その間だけは酒を飲まないからサ」
「えっ、本当ですか!」
たちまち事務員の背筋が伸びる。つぶらな黒い瞳が瞬いた。
与謝野は付け足す。
「こンな良い代物、酒でなまった舌じゃア勿体ないからね」
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