第42話 静かな声

「ん?」


 ピロンとスマホが鳴り、僕はそれを確認する為にスマホを手に取る。


 全国でもかなり使われている有名連絡アプリからの通知であり、差出人は南さんだった。


『買い物に行くので少し家を空けます。留守番よろしくね』


 その南さんからの連絡に『わかった』と返した所で下からどこかの扉が開く音がした。聞こえてきた位置からして玄関だろうと推測する。


「ごめん、美影。朝ご飯を食べてくるよ」


「……ん、わかった。……行ってらっしゃい」


 返答に少し間があったように感じて美影の方に視線を向ける。


 美影はベッドに寝転がり本を読んでいたが、なんだか眠そうにしているように感じた。


 夜更かしでもして寝なかったのだろうかと考えながら扉を開け、1階へ。


 ダイニングに行き、南さんが作ってくれた朝食が机の上にあったので感謝しながら頂く事にする。


「いただきます」


 広いダイニングに僕の声が1つだけ響く。帰ってくるのは誰かの声ではなく寂しさすら感じるような静と箸が皿に当たる音。


 そんな平凡な時間が数分か、十数分か、過ぎる。


 慣れてしまった光景、そして感覚。自分の声と出す物音以外何も無く、外界すらも返してくるのは窓から差し込む光だけ。まるで僕以外この世界に居ないのでは無いかという錯覚に陥りそうになる。


 ……頭では理解している。『今』を作っているのはこの僕自身だと。そしてそれをすぐにでも変えられる道が確かに目の前にある事を。


 その道を歩まない理由は多分、恐怖。人と関わることへの抵抗感。


 血が巡っていないのかと思うほどに急速に体が冷えていくのを感じる。暗く遠い、砂嵐のようになっている記憶で誰かが倒れているのが何故か鮮明に見えた。


「ッ!」


 そこで、僕は箸が止まっていること、そして冷や汗をかいていることに気づいた。背中に服が張り付いてきていて気色悪い。


 ハンカチは手元に無いので洗面所に向かい端にある棚からタオルを取り出し、全身を拭う。


「はぁ……」


 思わずため息が溢れた。いつまで経っても僕は動けず、弱いままなんだなと嘆息する。


 変わったと思っていたのに結局あの時と同じな自分に安堵と怒りが心中で共存し、胸が強く締めつけられた。


 自分の頬を両手で叩き、パチンと言う音が鼓膜に届くと同時に冷静になっていくのが感じる。


 早く部屋に戻らないきゃ美影に怒られるかもと気持ちを切り替え、朝食をかき込み皿を水で浸す。


「ご馳走様でした」


 挨拶をし終えたので階段、そして部屋へと向かう。


 万が一の為に静かに扉を開け、中を見る。


 案の定と言うべきか、僕のベッドで寝ていた。左肩を上に向けて体を横向きにしている。あんなに眠そうにしていたのだから妥当かと思いながら部屋の扉をそっと閉じる。


「すう……すう……」


 身動きせずに耳を澄ますと、静かな空間だからか、美影から穏やかな息遣いが聞こえてくる。


 そう言えば美影達幽霊も寝る時は寝ると言っていたような気がする。だけどまさかこの部屋で寝るなんて思わなかった。


 起こさないように部屋の隅に畳んで置いていた掛け布団を美影にかける。美影は膝や腕を曲げていたので顔より下は掛け布団に覆えた。そして改めて僕はベッドの横に座り、寝息を立てている美影を見る。


 美影のチャームポイントの1つと言えるであろう黒い短髪には視線が惹きつけられるほどの美しさがあり、柑橘系の良い匂いが僕の鼻腔に触れてくる。


 警戒と言う言葉とは程遠い優しげな寝顔は、思わず口角が上がってしまうほどに綺麗な、そして可愛さがある。


 美影が今、僕の部屋で、そしてボスのベッドで寝ている。その信じがたい空想のような現実に目を逸らそうとしても逸らせない。


「ん……んんん……」


「ッ!」


 美影の少しくぐもった声に僕の体が跳ねる。寝返りを打とうとしたのかと思ったが、美影は身じろぎするだけでまた寝始めた。


 なんとか速くなっている心臓の鼓動を落ち着かせようと深呼吸をする。


「おやすみ」


 このまま寝かせてあげようと立ち上がり、美影に背を向ける。そしてそのまま静かに歩き——


「んう……ゆ、うき……」


「ッ?!」


 後ろから聞こえた何かを求めるような声が鼓膜に届いた瞬間、僕の心で何かか暴れるような感覚がした。りせいを壊し、外に出てこようとするこころを全力で抑える。


 振り向くと、寝ている美影の顔が寂しそうに顔を歪めていた。いや、正確に言えば寂しそうな感じがしたと言うだけで確証は無い。


 でも、気のせいだったとしても、僕にはそんな顔に見えてしまって。そんな美影の頭を、無意識に撫でたいなと思ってしまった。


 手を出すつもりなんて毛頭無かった。そんな事をすれば本当に取り返しのつかないクズになってしまうのは明白だ。


 でも少しだけなら、少し頭を撫でるくらいなら良いのでは、と考える。起きていないしとゴミのような言い訳を並べ立て、駄目だという心はすぐに押し潰され、気がつけば僕の左手は美影の頭へ伸びていた。


「……ん……ふふ」


 僕の手が美影の頭に触れた時、美影は小さく笑みを零した。また高鳴った心臓が破裂しそうなほど脈打つ。


 ここで僕はどこかで聞いた『知らない男に頭を撫でられて喜ぶ女はいねぇ』という言葉を思い出した。


 だが手を離そうとすると美影が悲しそうに眉を下げてしまうのを見ると手を離せず、でも離さないと美影から怒られるかもしれない。


「…………」


 本当にあと少ししたら離そう。そう心中で誓い、僕だけが感じるその幸せを掴むように、美影の頭を撫でるのだった。

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