夏芽

鈴ノ木 鈴ノ子

なつめ

 ハワイからの直行便である日本空輸149便は中部国際空港に定刻通りの13:00ジャストに滑走路へと降りたった。

 通常の手順を経てエプロンへと入った機体が可動式のボーディングブリッジへ接続され降りる準備が整うと一斉に乗客たちが手荷物を持って通路を列になり楽しそうにお喋りをしながら降りていく。やがて後部座席が見渡せるまでに少なくなった頃合いに、キャビンアテンダントのリディアは座席に座ったままの男性客に気がついた。

 その乗客はキャビンアテンダントのリディアが声を掛けるまで席に腰かけたままで、目深に被った帽子によって表情を伺いすることはできなかった。

「お客様、目的地に到着しましたよ」

「ああ、ありがとうございます」

 妙になまった英語で感謝の言葉を告げた男が顔を上げて彼女を見る。

 綺麗な鳶色の目と端正な顔つき、体にピタリと合ったスーツは上質な生地で仕立てられていた。ビジネスマンを絵に描いたような男だ。東洋系で笑顔を浮かべたことから日本人なのだろう。しかし、彼の足元に置かれた荷物がその服装に似合わない、それは正方形ハードケースだった。表面のプラスチックが夏のアイスクリームのように所々溶け固まっている。

 よくこれで米国の手荷物検査を通過できたと思えるほどの酷さであった。

「いえ、お気になさらず」

 視線が交わったリディアは微笑みを返すとそのまま後ろへと下がる。体が前職での訓練で培われた警戒するような動きをしてしまったためだ。

前職は元米陸軍の軍人だ、階級は軍曹、詳しい部隊名までは記載しないがアフガニスタンに派兵され、そこで培われた経験が警告をしてきた。

 巡回中に発見された爆発物のケースに類似しており、その爆発によって上半身に酷い戦傷を負い長い入院生活を経て退役を余儀なくされたのだった。退役の間際に上官からこの仕事を紹介され勤め始めてから数年が過ぎていた。

「起こして下さって助かりました。えっと、リディア・リドレイクさん」

 ネームプレートから名前を確認した彼がそう口にして頭を軽く下げる。どうやら日本人で間違いないようだ。

「いえ、お気をつけて、良い…旅なのでしょうか?」

 少し気を聞かせようと厚木に駐留していた折に覚えた日本語を口にするが言葉選びに戸惑ってしまった。それを聞いた彼は素敵な笑みを浮かべる。

「実家へ帰省なのです。では、お互いに良い時間を過ごしましょう」

「ええ、ではお気をつけて」

 再び軽く頭を下げた彼はハードケースを持って立ち上がる。その動きは俊敏で立ち上がった際の背丈が180センチのリディアを超えたことにも驚いた。

「見上げる人は久しぶりだわ」

 思わずそう漏らすと彼は破顔して抑えた声と肩を鳴らして笑った。

「私もこんなに近くで女性の顔を見るのは久しぶりです、それも素敵な方でよかったです」

 そう言って微笑んだ彼を搭乗口まで見送ったのだが、それはつい7時間前のことだったと考えながら、部屋に布団を敷きにやってきた作務衣姿の彼を見つめていた。

 まるで映画のような再会であった。

 厚木での駐留時代に日本文化と歴史に興味を抱いて日本各地を旅するようになった。

 軍務で取りやめた期間もあったが、退役したのちはこうして何かしら日本に来た折りには休暇を使って旅を楽しんでいる。

 今回は岐阜県の関市を電車とバスを乗り継いで訪れたところでハンドブックやインターネットでは「刃物の町」として紹介されていた。刀を作る関鍛冶の伝統を紹介するミュージアムを閉館時間ギリギリまで堪能して1日目は終了した。翌日はインスタなどでも見たこともある「モネの池」を見に行こうと計画していて、ならばいっそのこと、大型のシティホテルなどではなく、その付近にある旅館で過ごしてみたいと考えて、英語表記のホームページのあった宝田旅館に宿泊を申し込んでいた。ミュージアムまで迎えに伺いますとメールを貰い施設前の木陰で陽ざしを避けながら待っている。

 日本の夏の暑さは独特で厳しいものがある。もしかしたらアフガンよりも酷いかもしれない。近くのコンビニで買ったペットボトルの水が底をつきそうになるのを心細く感じ、もう一本を買いに行こうか悩み始めた頃合いに一台のバンが駐車場へと入ってきた。

 車が駐車されてエンジンの音が切れる、そして運転席のドアが吹き飛びそうなほどの勢いで開くと長身の男性が降りて駆け寄ってきたのだ。

「遅くなりました!宝田りょ…、リディアさ…ん?」

「うそでしょ…」

 偶然にしては出来過ぎた再会で互いに驚き別れた時のように見つめ合った。この旅館へとたどり着いたのだった。

鮎を使った伝統的で三つ星にも劣らない日本料理に舌鼓を打ち、ようやく裸で入浴するという温泉システムにも慣れたので、ゆっくりと浸かり部屋で湯上がりの寛ぎを得ているところに、畳の上に布団を敷きにくるという初体験の事柄がやってきた。

「ねぇ、宝田さ…えっとショウタだったわね」

「ん?」

 布団を敷き終えて部屋を去る準備をしていた彼に声を掛ける。

 振り返った彼に木造りの湯桶に氷と共に浸かって冷やされている数本の地酒の一瓶を取り出して振って見せた。これが一緒に飲みませんかという合図だとどこかで教えてもらった気がした。

「お誘い?」

「そうよ、一緒にどうかしら?」

 旅館までの小一時間の会話で人となりはある程度は分かっていたし、なにより実家の旅館のお客なのだから変なこともされないだろう、何かされても返り討ちにする実力と自信もあったので、1人で飲むよりは話し相手が欲しいと思い声を掛けたのだった。

「お客はリディアさんだけだし、布団を敷いたらのんびりして良いって言われたから、ご相伴に預かろうかな」

「良かったわ、話し相手が欲しかったのよ」

「一つ聞くけど、お酒は強いの?」

「あら、これでも飲む方よ?」

「暴れないよね?」

「どういうことよ!きちんとしてるわ!」

 窓際の広縁に置かれた椅子から思わず立ち上がった。そんな女と思われるのは心外だと少しだけ睨みつけると、彼は拝み手をして謝ってきた。

「ごめん、ごめん、じゃぁ、お言葉に甘えて」

「最初から素直に受けるべきだわ」

 浴衣の乱れを直して椅子に腰かけたリディアは手の届くところにあった湯呑を持つと、それを彼に向って差し出した。

「ありがとう」

 対になった席に座り受け取った彼の湯呑へ冷酒の瓶からトクトクと音を立てながら注いだ。この音をリディアはとても好きだった。優しく癒されるような音だからだ。

「頂きます」

 中ほどまで注いでから瓶を離すと湯呑を少し高く掲げた彼が口に運んで飲んでゆく。

「ふふ、なんかお坊さんと呑んでいるみたい」

「坊さんとは、侍とは言ってくれないのかい」

「ああ、それは思い浮かばなかったわ、その頭のせいよ、伸ばせばそう見えるかもしれないわ」

 彼はお坊さんの頭のようなスキンヘッドだ。今も蛍光灯の明かりでてっぺんが光り輝いている。

「それは残念、それはそうとせせらぎが心地いいね」

 そう言って彼が網戸となっていた窓から外を見つめる。

 隣を流れる板取川のせせらぎと虫達の鳴き声、そして真っ黒な夜空にまんまるの満 月が浮かび、その月明かりが川面を照らしては美しく煌めかせている。

 写真や絵で紹介されることもある風情溢れる夏夜の景色にリディアは息を呑んだ。

「日本の夏夜ね」

「夏夜なんて難しい言葉をよく知っているね」

「本で読んだわ、昔のセイショー…なんとかいう人の書いた本にあったわよね」

「ああ、清少納言、枕草子だね、残念だけど蛍はいないか…」

「あら、いるわよ」

「え?」

「目の前で綺麗に輝いているわ」

 驚いたように外を覗き込もうとする彼にリディアは意地悪く言った。

「参ったね」

「冗談よ、でも、こんな素敵な景色に出会えるなんてここに泊まって正解だったわ」

「そう言って貰えると嬉しいよ、そうだ、ちょっと電気を消してもいいかい?」

「ええ、かまわないけど……何するの?」

「ああ、消す前にリディアさんの盃にお酒を満たさなきゃ」

「これに?」

 ちょうど飲み干して空となっていた盃をリディアが差し出すと、彼が困ったような顔をして、やがて新しい湯呑を取るとそれを持つように差し出してきた。

「こっちにして、さ、注ぐよ」

「う、うん」

 意味は理解できないがなんとなく悪いことではなさそうだと、彼に言われるままに湯呑を受け取る、そしてそこに半分ほどまで冷酒が注がれていった。

「さて、じゃぁ、電気を切るよ」

「ええ、いいわ」

 スイッチがパチリと音を立てると電気が消える。

 部屋は黒い闇となったが、広縁の窓からは月明りが差し込み仄かな明るさであたりを際立たせた。

「月見酒というものかしら?」

「そうだねぇ、それもあるけど、その湯呑に月を映してみてよ」

「月を?」

「そ、月を」

 丸っこい湯呑を傾けて月を映すと月が内側が真っ白な湯呑に輝いていた。

「本当は秋、中秋の頃にやるんだけどね」

「ならその頃にまた来ようかしら、でも、月涼しで風情もあるし心が寂しくならないからいいわね、では頂きます」

 映し出したままに口元へと運ぶ、そして湯呑みに映る月を愛でながらゆっくりかと傾けては月の雫を味わうかのように飲み干してゆく、そんなリディアに彼は不思議そうな表情を浮かべていた。ほんの少し戸惑った様にも見えた。

「本当に米国人?」

「数世代前は移民、今は生粋のアメリカンよ」

「生粋ね‥‥‥」

「そ、生粋……」

 飲み終えた湯呑の縁を指でなぞったリディアが少し寂しそうに漏らした。

 月明りが揺れる室内にその漏れた息がせせらぎの音に掻き消えてゆく。

「ごめん、何か考えさせたみたいだね」

「いいのよ、いい女は時に立ち止まって考えるの、気にしないで」

「そうなのか、なら、ゆっくりと考えたらいいよ」

 珍しい日本人だとリディアは思った。

 時より考え込む癖のあるリディアに大概の日本人は二言三言と心配していると慰めるような声を掛けてくれるのだが、彼は一度のみだ。そして席へと深く腰掛け直しては残った冷酒を飲み、ただ静かに外の景色を見つめていた。

 過度に関わらずされど突き放さずの絶妙なバランスだった。もう少しだけこのちょっと風変わりな日本人とお喋りを続けてみたくなった。

「ねぇ、もう少しだけ話をしてもいいかしら?」

「まったくかまわないよ、何から話そうか」

 灯りは付けず月明りの下に互いの今までの人生をゆっくりと語り合ってゆく。

 今までの生い立ちや人生の分岐点での選択、ついさっき出会ったような関係なのにも関わらず、沸き上がるように互いに口に出してはそれを聞く。互いが聞き上手で話し上手だった。言葉を飾る必要もまた飾られる必要もない。サマーキャンプで出会った友人と遅くまで話し込んだあの頃の懐かしい雰囲気に似ていて、リディアの心が解きほぐされてゆき、また、彼の心も解きほぐされてゆく、酌み交わしてから数時間を話し込んでしまえば、それで何十年と値する刻が過ぎ去っていた。

「いい夜だったわ」

「こちらこそ、とても楽しい夜だったよ」

 月の位置がかなり高く登り終えた頃合いにい自然と話を終えた二人は微笑み合った。

 湯呑みの冷酒に映った月のような清々しい気持ちが心地よい。

「明日はどこに行くの?」

「モネの池ってところを見に行こうかと思っているけど」

「そっか、良かったら一緒に回る?」

「いいの?」

「もちろん、有意義な時間にしてみせるよ」

「あら、じゃあ楽しみにしているわ」

「また声を掛けるよ、では、おやすみなさい」

「おやすみなさい、良い夜を」

「お互いに、お酒ご馳走さま」

 彼はそう言って去っていった。先ほどのまでの楽しい時間が嘘のように室内が静まり返る。いつの間にか虫の音色は止んでいて、外からほどよい夏の涼しさを帯びた風が部屋へとそよかぜとなり吹いてきた。

 日中の暑さと違う優しい風を肌に感じて、椅子に座ったまま余韻の様にぼんやりと外を眺めていたリディアは、その心地よさそのままに瞼を閉じて深く眠りについたのだった。

 微睡の中より目を覚ますと明けの空が広がっていた。

 時計に目をやればあの心地よい時間から数時間の後であったけれど、体は日課通りに目を覚ましたようだ。体内時計に若干のずれが生じているかもしれないと思いながら、リディアは浴衣を脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿で洗面台へと向かった。洗顔と歯磨きを済ませると備え付けの冷蔵庫からペットボトルの水を2本取り出して、1本を時間をかけて飲み干してゆくと霞かかった意識が更に覚醒していく。

 鞄からランニングウエアと下着を手に取って着替えを済ませ、ペットボトルとタオルを手に忍ばせて、静かな足捌きで音を立てぬようにしながら旅館の玄関へと歩み出た。

「おはようリディアさん、早いね」

「ショウタ、もう起きていたの?」

「うん今さっき起きたところ、これからランニングに行くの?」

「そうよ、ショウタもそうなの?」

「うん」

 玄関で一足先用意を済ませていた彼から声を掛けられる。昨日と色の違う作務衣姿で手にはランニングボトルとタオル、そして足元はランニングシューズが履かれていた。

「一緒に行く?」

「ええ、ついてこられるかしら?」

「お手柔らかに」

 靴を履き終えてそんな軽口を掛け合ってと外へと出た。

 夏の熱気が肌へと纏わりつき気分が滅入る。

 寝起きの涼しさはどこに行ってしまったのだろう。だが、走り出してしまえばどうということはない、風にはまだ涼しさのようなものが残っていて心地よい。

 並んで走る彼との速度は図ったかのように同じで歩幅も苦にならないものだった。走り始めてから20分ほどが過ぎても息が上がることもなく、ときよりアイコンタクトでお互いの調子を確認し合いながら走ってゆく。湧き上がる汗を時より拭いウエアに汗が染み込んで張り付くけれどまったく苦にならない。

 久しぶりに感じる爽快な気分で体は満たされていた。

 やがてペースを徐々に落とした彼に促されるようにして、近くの運動公園の駐車場にある時計台の下へとたどり着いた。

「おつかれさま」

「そっちこそ」

 互いに持ってきた飲み物で喉を潤しその場に座り込む。

 日の出を迎えて陽の光が山々を照らしてゆくと周囲の木々から蝉の声が聞こえ始めた。

「今日もまた暑くなるらしい」

「そうなの、仕方ないわね」

 山々の万緑と雲一つない青空、そして隣に彼がいることがとても心地良い。目に映る景色に清々しさを感じ、ふと隣の彼に微笑んでみる。同じように空を見上げていた彼が視線に気がついて微笑み返してくれた。

 もう少しだけこの国の夏を味わってもいいかもしれない、と互いに決意をしたのはこの瞬間であったかもしれない。

「ねえ、ショウタ」

「あの、リディア」

 重なるように互いの名前を呼び合う、それがとても可笑しくて声を上げて笑い合ったのだった。

 夏空の熱気はすぐそこまで迫っていた。

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夏芽 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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