九日目 大きな木の下

 振り返ってみて、小学生の時の夏祭りには、特にこれという思い出はない。

 楽しくなかったわけではないが、姫と出逢ってからは、早朝のラジオ体操の時間が夏祭りよりも思い出として色濃く残っていた。

 ただ、一つ上の兄、朔良は違った。

 明日の早起きのため、夏祭り最大のイベントである花火が終わると同時に、早々に帰りたがる小夜とは違って、朔良は夏祭りにかこつけて、夜に出歩けることを楽しみにしていた。

 花火前でも花火の最中でも関係なく、友だちが揃えばどこかへ向かう。

 親同伴で来て、最後は友だちと遊びに行く。

 子どもたちだけでは危ない、そんな母の窘めもなんのその。

 仕方なしに同行を頼まれた父は、いつも苦笑していた。

 しかしその時にはもう、朔良は友だちと去った後。

 それでもどこかへ向かう父の背中に、ある時、どこにいるかわかるの? と問うたなら、自分が教えたからわかる、と父が教えてくれた。

 夏祭り会場から少し離れた、山と言うには低いが会場の灯りがよく見える、小高いところにある林の中。暗がりに枝を広げた大きな木の幹は、夜になれば「生命の賑わい」を見せる、穴場スポットになる。

 虫取りを楽しむ子どもには、持って来いの場所だ。

 昼間の子どもたちの話を思い返すに、行商人が言う「生命の賑わい」の対象は、人だけに限らないのだと推測する。蟻や毛虫――そんな小さな生き物の活動も、姫には賑わいに見えていた、そう思えばそこで見かけられていた理由がつく気がした。

(どの道、夏祭り会場には姫はいない。たぶん。いたらきっと、アイツの動きに気づいているはずだから。だからもし、他にチャラおじの言う「生命の賑わい」があるところにいるんだとしたら、この辺じゃあそこぐらいしか)

 祈るような気持ちで向かう。

 灯りから離れた分、陽を嫌う露の気配が色濃くなったような気がして、追われている肺が増して苦しくなる。

(まだ、大丈夫……きっとまだ、気づかれていない、はず……)

 夏の暑さが残る夜。だというのに冷たく感じる指先を温めるように握る。

 個包装のインスタントコーヒーは両ポケットに三本ずつ、計六本。残りは行商人のところに買い物袋ごと置いてきた。最初にインスタントコーヒーを撒いた際、どう千切ったのか、だいぶ買い物袋の中にもばら撒いてしまったためだ。鼻の効く露に気づかれないためにも必要な行動だったが、心許ない。

(ううん。元々その場凌ぎでしかないんだから。……嫌なニオイだって言っても、水道水で落ちるくらいのモンなんだから、強行で来られたら意味はない)

 だからこそ、姫を頼るしかない。

 露に目を付けられたままでは家に帰れず、朝を待つほどに逃げ続けられると思えないのだから、姫の存在だけが頼り。

 ――だが。

「!」

 辿り着いた先に姫の姿はなく、しかし、木の下には何者かの影があり、夜の闇に慣れた目が、弱い月明かりだけでもその正体を捉えた。

「ああ、思った通りだぁ」

 人間状の姿から、いつもの化け物の姿へ。

 己が何者であるか知らしめるかのように、ゆったりと変化した露は、青ざめる小夜の前でぱっくり開いた口周りをぬめる舌で湿らせた。

 それはそれはおぞましく映る動きで。

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