九日目 かーちゃんの女

 いずれは来るだろう、姫との別れ。

 ならばいっそ、自分から――。

 そんな風に思ったところで、実行できるかどうかは別の話。

 しかも昨日、子どもたちに気後れして手を振るだけに留めた身では、あれをなかったことにして会える顔もない。

(……こ、このまま、なし崩しで会えなくなったら、それはそれで)

 昨日の夜、由衣に向かって「誰かの手は借りない。終わらせるなら自分でやる」みたいな大見得を切ったくせに、なんとも消極的な考えである。

 歯にモノが挟まったような気持ちはあるものの、思い返せば姫と誰かの別れは話で聞く限り唐突だった。それなら小夜もこのまま、別れの言葉も告げずに姫の前に現れなくなっても、特に問題はない気がする。

(うん、まあ、なんたって、夏休みが終わる前には寮に戻るんだし? それに来年は大学受験に本腰入れてるか入れ始めてるだろうから、ラジオ体操に行くかどうかもわかんないじゃない? だからこのままでも、問題はないとか……ない?)

 誰に問うでもない問いかけを宙に溶かし、結局ラジオ体操に行かなかった小夜は、この選択の方が自分らしくて良い気さえしてきた。

 元々小夜の中では、不動の「他人で大人」だった姫。

 知人とは言えるが、大人と子どもではそもそも役回りが違う。

 一度として並び立った覚えはない。

 ただ、姫の周りで愉快にはしゃいでいただけだ。

 だからもう、いい加減、ここまでが限度なのかもしれない。

 自分自身をそんな風に納得させる。

 このままフェードアウトしても、おかしなことは何も――。

 そんな耳に届く、母の声。

「あ、小夜。今日の晩ご飯、朔良さくらが来るんだけど、どうする?」



 朔良というのは、小夜の一つ上の兄である。

 そして彼は、小さい頃から小夜のことを目の敵にしていた。

 母や父からはもちろん、年の離れた姉からも可愛がられていたのが、急に出てきた妹のせいで台なしになったせいだと、小夜は昔、彼自身から聞いていた。

 一つしか年が離れていないのにずいぶんな妬みぶりだが、そんな記憶を持っていられるほどには昔から頭が良く――基本的には頭が悪いと小夜は思っている。

 なにせ朔良は、そんな自分の嫉妬心を隠しているつもりで、昔から誰にも隠せていないのに、全く気づいていないのだから。

 そんな朔良が晩ご飯を食べに来るとわざわざ伝えた母の真意は、簡単だ。

 面倒なヤツと食事を共にするか、他で食べてくるか。

 ――たとえば、夏祭りとかで。

 追い出すように見えて、その実、いくら言っても妹との接し方を直さない息子から、娘を遠ざけ守ろうとする母心である。

 察してあまりある小夜は、面倒な兄が理想とする家族の食卓のため、夏祭りに出かけることとなった。

 とはいえ、まだ陽は高い。

「あっつ……」

 うっかり朔良と出くわさないためにも、すぐに家を出た小夜は後悔する。

(……朔良のヤツ、夏休みは一人暮らしの友だちと合宿するとか言ってたくせに、急に帰ってくるとか。どうせなら、アイツの嫌がる顔を見てから出れば良かったかも)

 すでに戻る気にもならない距離まで歩いてきたところで、そう思い、夏祭りの会場に程近いスーパーの中で少し涼もうかと足を向けたなら、

「あ! かーちゃんの女!」

(ん?)

 珍妙に思える子どもの大声に足を止める。

 かーちゃんとは母親のことで、「~の女」とは通常、その「~」に該当するものの恋人、彼女、愛人、とにかく、その辺の存在を表わしているはず。

 昨今、その辺は一部寛容というか、オープンになってきたとも言われているわけだが、子どもの声でそれを言われると、何とも言えない気持になる。

 なんて言葉を子どもに憶えさせたのか。

 思わず怪訝な顔で声の方向を見れば、知らない男の子が真っ直ぐこちらを、小夜を指差していた。驚いて目を見開き、それとなく自分の後ろを確認しては、また目を戻して差されたままの自分の顔を、己でも指差す。

「わ、私のこと?」

 どこぞの母親の女になった覚えはないぞ。

 混乱する小夜を余所に、大きく頷いた男の子は、友だちだろうか、他にも二人を連れ立って小夜の前に立ち塞がった。

 雰囲気から見て、夏祭りに来た子どもたちとはわかるが。

「ええっと……その、かーちゃんっていうのは……」

 まさか君のお母さん? とも聞けずに続く言葉に迷ったなら、彼は言う。

「そんなもん、公園のかーちゃんに決まってるだろ!?」

「公園の、かーちゃん?」

「かぐや姫のおっさんだよ! かぐや姫の!」

「あー……」

 正面切って言われた「かぐや姫のおっさん」の威力に、少し戸惑う。

 真っ直ぐ言われると、こんなにも違和感があるものなのか。

 自分は散々「姫」と呼び続けていたにも関わらず、惚ける小夜に彼の友だち二人も加勢していく。

「かーちゃんの女さん、今日来なかったでしょ」

「かーちゃん、寂しそうだったよ? お姉さんが来なくて。振られたのって聞いたら、違うって言われたけど、そうかもなって」

「俺の妹なんて、かーちゃんのこと好きだったのに、もう会えないんだぞ!」

「ええっと……」

 口々に元気よく叫ばれるばかりの小夜は、何から訂正して、どう聞いたものか、しばし迷う。

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