第2話 自称のかぐや姫

 小夜から「姫」と呼ばれた男は、輝きのない目はそのままに、にっこり笑う。

 外見にそぐわない和やかな空気を前に、思い起こされるのは小4の夏休み。


 それまでラジオ体操と言えば、幼馴染みと一緒に来ていた小夜。しかし前日に喧嘩したなら、すぐに仲直りもできず、その日は一人で向かうことになった。

 幼馴染みも同様に一人で来るのかと思えば来ず、余計腹が立った憶えがある。――肝心の喧嘩の理由については全く憶えていないが。まあ、そんなに長引かず仲直りしていたから、他愛のないものだったのだろう。

 さておき。

 そんなわけだから、その時の小夜の気分はすこぶる悪かった。

 和やかに挨拶を交わす、大して知らない同じ小学生の子どもたちの中に一人でいるのも嫌だったし、他の友だちは自分たちの家に近い公園だし、幼馴染みはいないし。

 疎外感だけ大きくなっていけば、自然と足は公園の端に向かうもの。

 すると、

「おいおい。そんなに下がったら危ないぞー。もっと前に行かないと」

「!」

 急に背後から低い声をかけられ、慌てて振り向けば、くたびれた男が立っていた。

 威圧的な雰囲気はなかったが、高い位置にある顔は無表情に近く、正直、危ないというコイツこそが危ないという気にさせた。

 だから、イライラでオブラートを忘れた口が、ぽろっと言ってしまう。

「うわっ、変質者……はっ!」

 すぐに気づいて口を覆ったが、出てしまった音は取り戻せない。

 澱んではいないものの、精彩を欠く目を大きく見開いた男は、ぱちぱち瞬きした後で、参ったなと無精髭の顎を擦った。

「確かに。言われてみればそうか。子どもに注意するのも久々だったからなー」

 次いで苦笑する男。

 小夜は警戒は解かないまでも、酷いことを言ってしまったと頭を下げた。

「あの、すみません」

「いやいや、こちらこそ。でも、本当に危ないからな。この辺では聞かないかもしれないが、集団から離れた子どもってのは……まあ、色々危ないんだよ」

 途中までは真剣に、その先は何とも言いづらそうに引っくるめて言う。

 大人がそうやって濁す時は、大抵子どもには言いにくい話だと、年の離れた姉のいる小夜は知っていたが、それをわざわざ指摘するつもりはなかった。ただ、見た目よりかは善人らしい男に、このまま「わかりました」と言って去るのも、怪しい人認定したようで悪い気がした。

 なので、少しだけ話をしてみることにする。

 ラジオ体操が始まるまでの短い時間で、距離を詰めることはせず、

「おじ――お兄さん? はなんて名前なんですか? 引っ越してきたんですか?」

 気を遣っているのかいないのか、判別しづらいだろう子どもの質問に、男は少しだけ困ったような顔をして頬を掻いた。

「……あー、実はおじさん、前からここに住んでんだわ」

「そうだったんですか」

 小夜は心の中で(お兄さんじゃなくておじさん、と)と、無下にされた気遣いの呼称を訂正しつつ、重ねて聞いた。

「それで、お名前は?」

「なんか、職質受けている気がするな」

「受けたことあるんですか?」

「いや、受けているヤツを見たことあるだけだが……というか、お嬢ちゃん、そうやって真っ直ぐに聞くのも、相手によっては危ないからね?」

「わかりました。……じゃあ、名前はいいです。やめときます」

「いや別に、言えないもんでもないんだけどね」

 終始困った様子の男は、「今時の子どもってこんなグイグイ来るもんだっけ?」と呟くと、小さく息をつき、

「――――」

 何かを言った、ように見えた。

「……え?」

 これまでのやり取りからして、男が言ったのは彼の名前なのだろう。

 しかし、小夜の耳では聞き取れなかった。

 声量が足りないわけではない。ただ、男が発した声は言葉と言うよりも音のみで、水音か、風の音のようにしか感じられなかった。

 男はこの反応に頷くと、今度は小夜の耳でも聞き取れる言葉で名乗る。

「まあ、聞き取るのは難しいだろうから、かぐや姫とでも呼んでくれ。俺を表わす意味合いとしては、一番近い呼称だろうから」

「かぐや姫……?」

(このおじさんが?)

 聞き取れなかった名前よりも、代替に聞かされた名前の衝撃が勝り、小夜はまたしても口を滑らせた。

「つまり、やっぱり犯罪者……」

「こらこら、やっぱりとはなんだ、やっぱりとは」

 かぐや姫は犯罪者だった――。

 つい最近仕入れたそんな話を思い出したなら、男――自称・かぐや姫は、初めて不愉快そうに顔をしかめた。


 これが、小夜の記憶している男との最初の出遭い。

 その後「かぐや姫」ではなんか嫌だからという理由で「姫」に縮め、定着させたのは、また別の日の話である。

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