14、魔術師と火走りの谷(中編)

「どうしたの、お嬢さん?」

 近づき過ぎないくらい――三、四歩の間をおいて、アインが身を屈めて少女に問いかける。

 女の子が顔を上げた。金髪に緑の目の、五歳くらいの普通の女の子に見える。大きな目には涙をため、頬は濡れていた。

「あたしのね、お友達がとられちゃったの。ウサギのリンダちゃん」

 ウサギ……本物のウサギを飼うような家は金持ちか牧場くらいだ。金持ちの家のお嬢さんが一人でこんな場所にいるとは思えないし、お友達はぬいぐるみだろうか。

「一体、誰に取られちゃったんだい?」

 目線を合わせてアインが優しく訊く。

 ぬいぐるみを取られたというなら、人間の友達か兄弟が一番可能性が高いのではないだろうか。

 という予想とはかなり外れた答えが返る。

「それはね、黒い髪の大人の男の人で、緑色の布を頭にかぶっていて、頬に傷があって、それで」

「こんな顔かい?」

 一生懸命に説明する少女の声に、聞き覚えのない低い男の声が被る。木箱の裏から素早く飛び出してきたのは、少女の説明したとおりの格好の、わたしやアインよりはだいぶ年上の男。

 ただ、一番目を引いた特徴はその右手に握られている、抜身の曲刀。銀光を目にして思わず身がまえるが、男はこちらには向かってこずに刃を少女に向ける。

 少女は怯えたように男を見上げるが、刃の先を向けられて声も上げられず、身動きひとつできなくなる。

 ――しまった。

「動くな、金目の物を……と思ったが、お前ら魔術師だな」

 目ざとい男。でも、目ざといならわたしたちに金がないことくらい見抜いてほしいものだ。

「上着を脱いで持ち物を全部下ろせ。何もしゃべるな、それに余計な動きもするなよ。少しでも怪しい動きをすれば、そのたびにこのお嬢ちゃんのかわいい指が一本なくなるぜ」

 一般人でも多くの者は、魔霊具がなければ魔術師は魔法を使えないということくらいは知っている。その指示を淡々とする様子からしてこういうことに慣れていそうで、少し恐ろしい。

 あの少女はわたしたちにとって、初対面のなんの義理もない少女だが、見捨てるのも寝覚めが悪くなる。

 近くに火種さえあれば、わたしが炎を操り男を撃退できるのだけれど……街灯や燭台などに火が入る夜とは違い、明るい昼間の街中など、火種を見つけるのが困難だ。

 アインはマッチを持っているけれど、それを使わせてくれるような隙を見せる相手ではなさそう。

 仕方なく、わたしはマントを脱ぎ鞄を降ろす。ローブの腰につけている、財布や小物入れも。

 アインも同じようにコートを脱ぎ、道具袋と腰につけていた細長い包みを地面に置く。これには少し冷や汗をかく。もし、男があの聖剣に触れてしまうことがあったら。

 タウの姿はどこにもない。隠れているのか。

「どれが魔霊具だ?」

 幸い――なのかどうなのか。彼はまず、魔術師から魔法を奪い無力化することを優先したようだ。

「コートの内ポケットに入ってるよ。そこに入っている本がわたしの魔霊具だ」

 わたしが口を開く前に、アインが親切にそう教えてやる。男がコートをまさぐると、確かに手のひら大の本がそこにあった。取り出されたそれは表紙に絵もなく、ただ手書きで〈旅日記〉と単純なタイトルが書き込まれているだけである。

「どうも。じゃあこれは」

 男が軽く、ポイっと旅日記を放り上げた。

「こうだ!」

 剣が一閃する――ように見えた。

 剣が振りぬかれる前に眩しい光が散り、思わず目を細める。本の周囲から火花と炎が噴き上がり、男の剣を弾き飛ばしていたのだった。同時に、地面に投げ出されたままの黒いコートの袖口から黒猫が飛び出して、少女に走り寄る。

 スカートを噛んで引っ張る黒猫の姿を視界の端に捉えながら、わたしはここぞとばかりに旅日記の周囲に一瞬噴き上がった炎を自分の支配下におさめた。炎をロープのように引き延ばして男の周囲に網目のように組み上げ、四方高く囲む。

「な、なんで魔法が……」

 身動きが取れずに座り込む男を、わたしは笑顔で見下ろす。

「魔霊具なんて魔術師にとって大事なもの、簡単に渡すはずがないじゃないの」

 地面に置いた鞄の中にも、わたしの魔霊具を模した小袋が入っている。でも、本物はわたしが文字通り肌身離さず身に着けている。どこに持っているのかはこの旅日記の中でも内緒だ。

 アインもそうであったように、魔術師なら皆、こういう状況になった場合を想定した備えくらいしておくものだ。魔霊具は魔術師の命とも言えるのだから。

 アインは地面に落ちた魔霊具を拾い上げ、軽く叩いたところだった。その手のひら大の旅日記は、傷ひとつついていなければどこも焦げたりもしていない。

「それも魔法の効果なのかしら?」

 わたしが訊くと、彼は魔霊具を元の内ポケットに戻したコートを着直しながら、

「ああ、わたしの魔霊具は壊せない。壊そうとする者には災いが降りかかるようになっているよ」

 そう答えて胸もとの内ポケットの位置を指さす。

 かつてのいつか、そういう嘘をついたのだろう。しかし、壊せないだけだと奪われる可能性はあるのでは。

「魔霊具がなくても魔法が使える、という嘘にはしなかったのね」

 わたしがもし彼と同じ魔法が使えるようになったら、一番最初につく嘘がたぶん『魔法を使うのに魔霊具を必要としない』。

「魔霊具がなくても使えるようにはしてあるけれどね。魔霊具自体も失いたくないんだよ。だって、この旅日記自体わたしの大事な物だから」

 なるほど、思い入れがあるからこその魔霊具化だし。それはそうか。

 話していると、木箱の向こうに隠れていた少女がタウとともに戻ってくる。その彼女の胸にはウサギのぬいぐるみが大事そうに抱えられていた。たぶん、男が隠れていた木箱の裏にでも置いてあったのだろう。

 男が少女を見つけ、利用して誰かを引っ掛けようとしていたのだろうか。あるいは、少女をさらっている途中でわたしたちを見つけ、これを思いついたのか――どうにしろ後でわかるだろうが、わたしたちはそこまで付き合ってはいられない。

 しかし、警備隊を呼ぶ必要がある。少女の存在がなければ面倒ごとを避けてさっさと姿をくらますところだけれど、少女の家族を探してもらわなければならない。

 わたしがいなければ炎の網も消えるので、アインに通行人に警備隊を呼ぶように頼みに行ってもらう。通行人も金貨一枚でも握らせれば快く引き受けてくれるだろう。無駄な出費だけれど仕方がない。

 待っている間、少女はタウとぬいぐるみで楽しく遊んでいた。タウはちょっと嫌々ながらに見えなくもないけれど。

 やがて警備隊が五人やってきて、全員詰め所へ連れていかれる。果たして少女の証言が採用されるのかが心配だったものの、別々に話を聞かれたわたしとアイン、少女の言い分が一致したのが功を奏したようだ。

「ボクの証言は取らないの?」

 駄目押しでタウも。

 少女については、この町の住宅街に家があるらしい。帰る家が分かったなら大丈夫だろう。

 ――もともとあまり期待はしていなかったけれども、やっぱり、感謝状も金一封も出なかったな。

 よほどの凶悪犯や、犯人に賞金でもかかっていればそういうこともある。しかしあの男は賞金首になるほどの常習犯ではなかったようだ。もっと長居するなら少女の両親からは何かあったかもしれないが、さすがにそれを望むのはあさましい。

 そんなことを考えながら警備隊の詰め所を出る。

「なんだか、疲れちゃったね」

 あくび交じりにアインが言う。

 しばらく忘れていたけれど、そう、我々は魔術師ヨドを探していたんだった。人探しどころではなかったけれど。

「どうせ、出直せば会えるんでしょう。少し休みましょうか」

 どこで休むかというと、結局目についたところにあった公園だけれど。人の少ない地区ではなく中心街の公園なので、旅装姿も多く同じように休んでいる者も多いが、噴水を囲むようにいくつも並んだ木製の長椅子のひとつに空きがあった。

 一応、ここでもヨドさんらしい姿がないか見渡してみるが、眼鏡をかけた姿すら見つけられない。

 そんな中、一際目を引く姿があった。それは全身に緑の鱗をまとい赤い目をしたトカゲ人間のような姿。別の大陸には人間だけではなく、さまざまな種族が住んでいると読んだり聞いたりしたことがある。あのトカゲ人間は実際は竜人の眷属で、竜鱗族とかいう名前だったような。

 いつかはそうした、人間以外のさまざまな種族の済む新天地にも行ってみたいものだ。

 異種族と分かるような姿はそれくらいだろうけれども、目を引くものはほかにもある。どこかの民族衣装と思しき派手な色の布を何枚も重ね合わせたような姿の一団、あまり見かけない髪の色の旅人、頬に呪術的な意味がありそうな文様が描いてある神秘的な雰囲気の女性など。

 などと他人事のように書いているが、わたしたちも目立つ。一般人からすれば魔術師二人連れというだけで驚くものだ。

 それに、アインは誰から見ても類まれな容姿をしていた。若い女性たちの一団がわたしごとお茶に誘ってきたり、手を握ってくださいという女性がいたり、うちの劇団に入らないかと誘ってくる身なりのいい男性がいたり。

 いちいち旅日記には書いていないが、そういうことがあったのはこの町だけではない。わたしとしては少し肩身の狭い気分。

 それらをアインが困りながら断ったのを見た末。

 ――ん?

 ふと、歩み去っていった劇団員たちの向こうの雑踏に、見覚えのある背の高い男の頭が見えた気がするが、すぐに埋もれてしまう。

 気のせいか。このときは、そう思うことにした。


 今夜この町に一泊するのは確実で、夕食前に宿を決めておく。ティフェに聞いた宿も気になったが、たぶん高いだろうな。という意見の一致を経た私たちは、食事なしの安い宿を見つけてそこにする。外観はやや古めの木造二階建てで、食事はなくても、運河から近くて眺めのいいなかなかの宿だ。部屋は二人一緒。

 夕食は買って来た物をここで食べる。明日の朝食も購入済だ。

 本日の夕食は少しだけ豪華にした。砂糖を溶かしたクリームを塗った平たい大きなパンに、ハーブを挟んだ鶏肉の燻製の塊、細長く切れる野菜を何種類も詰めた上に香辛料と油を混ぜたドレッシングをかけたスティックサラダ。それを二人で分けて食べれば食事代も結構安上がりで済む。

 パンには保存食として買ってあった木の実をまぶして半分に。鶏肉の燻製はナイフで薄切りに。これにサラダと、わたしが少し前から持ち歩いている茶葉を鍋に湯と入れて煮出し、ハーブティーをカップに注ぐ。湯は宿に提供してもらえる。

 こうすると、なかなかの夕食セットではないだろうか。パンは半分でも手のひらより大きいくらいだし、鶏肉の燻製はもちろん一番小さなものを買ったが、それでも二人には多いくらい。量も充分だ。

「いただきます」

 燻製の薄切りを噛みしめる。塩気と脂身の旨味がじんわり広がる。ハーブが臭みを消しているのも良い。

「美味しい。いい買い物したね、これ」

「うん、いいものを選んだわ」

 この町は店が多い。鶏肉の燻製を売っている店も何軒も存在する。その中から、一番安くて美味しそうな鶏肉の燻製を吟味して選ぶことができた自信がある。

「なんかさ……」

 窓の縁に座ってこちらを見ていた黒猫が口を開いた。

「アインとレシュはお似合いだよね」

 その唐突なことばに、わたしは飲んでいたところだったハーブティーでむせそうになった。

「お似合いってどういう意味で……?」

「ここまで経済観念が似ている人もいないと思ってさ。今までにも同行者は何人かいたけれど、同じ部屋を使うまでの女の子はいなかったなぁ」

 わたしが訊き返すと、黒猫はいつも通りの平静な調子で返す。

「旅人なら、経済観念はみんな似たようなものじゃないの?」

 アインはあまり深く考えていない様子で、スティックサラダに入っていた甘みのある黄色い野菜をかじっていた。

「そうね、節約になるし特に不自由もないし」

 本当は一人だともう少し大胆に着替えたり身体を拭いたりできるのだけれど、安くても大抵の宿にはついている洗い場を使えばいい話。

 男女に分かれている洗い場は、まだ多くの宿では水がめに水、桶と布が用意されているくらいだけれど、この町は水が豊富に使えるためか、この宿には風呂がついていた。風呂の湯は自分たちで沸かすことになり、使える時間が部屋ごとに決まっている。それでもわたしたちの順番が楽しみだ。

 この部屋の順番の前に、仕事を終えなければ。

「じゃ、行こうか」

 ティフェに教えてもらった彼女とケトの泊まる宿は、ここから遠くはない。

 時間は、夕方の終わりくらい。夕焼けが薄くなり、反対側から少しずつ夜色に染まっていくころ。空の大部分はまだ淡く濁った青。

「やあ、来たね」

 白い壁の二階建ての宿の前でティフェが軽く手を上げる。その手にはカンテラがあり、中で炎が揺れているのを見てわたしは安心感を覚えた。

「待たせたかしら?」

「いや、さっき夕食を食べて腹ごなしのついでに出てみたところだよ」

「二人とも変わりないね」

 ティフェのとなりには、腰に鞭をしっかり留めた、アインと同年代くらいの少年の姿がある。

「ケトもね」

「元気そうで何より」

 短く挨拶を交わすと、連れ立って歩きだす。

 少しずつ暗くなっていく中、空の色と連動するように街は昼間とは違う表情に変わりつつあった。船の行き交う運河は相変わらずだが、飲食店、特に酒を出すような店が賑わいを見せ始める。

 わたしたちは風に乗ってくる喧噪や光の集まる中心街から遠ざかる。とは言っても、〈火走りの谷〉も観光名所のひとつであり、街を出ると、観光客らしい一団が列を作って谷へ向かっていくのが見えた。

 その列を少し離れ、途中まで追いかけることになる。しかしこちらは煉瓦の道を曲がらず、真っ直ぐ丘に続く前方へ。

 丘の上の塔は、その三つの四角い窓から明かりを洩らしていた。

「どうやら、今度はちゃんと誰かいるみたいだね」

 ティフェがカンテラを上げて言う。空には薄く星が輝き始めているが、少しだけかかっている雲の後ろになっているのか、月は見えない。

 内心、結構ほっとしていた。厄介な聖剣ともこれでおさらばできると思えば、妙に解放感がある。

「やっと解放されるね。終わったらわたしもゆっくりと火走りの見学会に参加しよう」

 アインが笑って言う。わたし以上に、彼は重荷を下ろした気分だろう――いや、正確にはまだ下ろしていないけれど。

「ほっとし過ぎて気が抜けて、谷から落ちないでね」

「いいや平気。わたし、飛べるから」

 わたしのことばに、彼はそんなことを言う。

 あまりにあっさり言ったので聞き逃しそうになったが、それは嘘に当たるんじゃ……?

 もしそうなら、今の冗談のようなことばで彼は空を飛べるようになったことに。

 もし飛べるようになったなら、と想像する脳裏に浮かぶのは、図書館で読んだ本の内容。

 谷の底には何もないとされているが、飛行能力を持った魔術師は何度も谷の底に降りていた。実際は他人に言いたくないような宝でも隠されてるのではないか、という。

 とはいえ、飛行能力があったとしても月のないこの夜の暗さでは谷に降りるのは危険だろう。底の方は昼も夜もないかもしれないけれど、少なくとも登ってくるときには空を目ざして登ってくるのだし。

「さあ、もう少しだ」

 丘の手前でアインがコートの下から、幾重にも厳重に包まれた聖剣を取り出す。

 あとはこの丘を登れば。

 煉瓦の道が丘へ登ろうというところへさしかかったとき、奇妙な臭いが鼻をかすめる。

「みんな伏せろ!」

 女剣士が叫ぶ。

 なぜ、と口に出すような素人はここにはいない。皆、言われるままに身を伏せる。

 爆音が成り、強風と土ぼこりが頭上を行き過ぎ髪とマントがなぶられる。やっとそれが収まったところで顔を上げると、前方では一筋の黒い煙が上がり、地面の煉瓦はひび割れ一部はえぐられていた。

「何者だ!」

 起き上がったティフェがカンテラをケトに渡し、大剣を抜き放つ。カンテラの横の蓋は開けたままにしてくれているようだ。

 こちらが全員立ち上がるまでの間に、木の陰から見覚えのある男が姿を現わす。軽めの金属鎧と大剣で武装した、長身で筋骨隆々の男。しかし、腰には見覚えのない横長の袋を着けている。

 ケテルとメム兄妹に出会った小さな村で遭遇した、ザインという名前の傭兵らしい男だ。あのとき一緒だった人買いとはもう別れたのか、その姿はない。

「無駄な抵抗はするなよ。大人しくその剣を渡せ」

「この剣のことを知っているのか……?」

「ああ、調べさせてもらったぜ。そうして何重にも封じておくほどの剣ならかなりの値打ち物、もしくは危険な物……あるいは、その両方。そして、お前らがどこから来たのかから推理すれば、それに該当するような剣は多くないさ」

 この大男は、あの小さな村でアインに転ばされたときにでも聖剣の包みを見てしまったのだろう。

 しかし、そこからここまで辿り着くとは……。

「大人しく聖剣を渡さないと、大ケガをするか、最悪、命を落とすことになるぜ」

 彼の大剣は腰の鞘に納められたままだ。その左手には先に炎が揺れる松明が握られており、右手には藁をよじった導火線に球形の袋がつながった物が握られている。袋の中に詰まっているのはおそらく火薬。

 ――火薬なんて高価な物を用意してくるんだから、かなり本気で聖剣を入手したいらしい。

 そう思ったのを見すかされたのかと思うような動きで、ザインはこちらを振り向く。

「言っておくが、炎の魔法でどうにかしようなどと思うなよ。お前は、オレがどこにどれだけ火薬を持っているのか知らないだろう。下手すりゃオレもお前たちも一緒に吹き飛ぶからな」

 その口の端が釣り上がり、ニヤリと笑みを浮かべる。

 多くの魔法は、一度手の内を見せた相手にはなかなか通用しにくい。それはわたしの魔法も同様だ。

 しかし――

「この剣は渡せないよ」

 アインははっきり拒絶する。

 ザインが聖剣を何も知らない金持ちなどに売り払い、誰かが剣に触れてしまったら。あるいは、剣の性質を知りながら悪用しようとする人間の手に渡ればもっと酷いことになるかもしれない。

「痛い目見ないとわからないか」

 ザインが火薬袋の導火線に火をつける。

「走れ!」

 ティフェの声が闇に響く。

 直撃すればケガでは済まないことくらい、さっきの爆発で理解している。言われるまでもなく全力で走った。必然的に、みんな同じ方向には走らず、バラバラになる。

 しかし夜の闇がだいぶ周囲を飲み込んでおり、やみくもに走るのも危険だ。谷の端もその辺にあるはず。

 わたしはケトのカンテラの炎から火球を飛ばして頭上の前方、少し先の辺りを照らした。できるだけ、わたしの位置を直接ザインに知らせないような間接的な照らし方をしたかった。

 前方からざわめきや悲鳴が聞こえる。谷を見物する観光客たちがこちらの異変に気付いたみたいだ。彼らが巻き添えになる可能性もあるし、誰かが町から警備隊を呼んで来てくれると嬉しい。

 背後から爆音。周囲も併せて観察すると巻き込まれた者はいないようだけれど、どこで爆発するのかがわからないので肝が冷える。

 わたしはもうひとつ、飛ばした火球から火球を分離させてザインの頭上へと飛ばす。彼の動きを見て、どこに爆弾を飛ばしたのかをできるだけわかりやすくするためのもの。

 大男はすでに次の火薬袋を用意していた。

「逃げられやしないぜ、ほら」

 ザインは火薬袋のひとつをこちら側に投げつけると、続けざまにもうひとつを反対側へ。挟み撃ちにするつもりなのか。

 わたしは彼の方へと走った。そこが爆発からは一番安全だ。爆発以外の問題もなんとかできる。

 火球を変化させ、自分の前に炎の網を浮かべる。いくらなんでも、ザインも聖剣を手にしないまま自爆したいわけではないだろう。

「チッ」

 彼は舌打ちして、突進するわたしの進路から避ける。

 後ろの方で、立て続けに爆音が上がる。

「うああっ!」

 聞き覚えのある声色の悲鳴。ティフェ?

 気にはなるが、その前にこの大男を何とかしなければ。しかしどうする。わたしはアインのように暗器を持ってはいない。殴り合いとかになっても一方的にやられるだけ。

 わたしが迷っているうちに、ザインはもうひとつ火薬袋を取り出す。

 ――松明を消し炭にしようか。予備を持っているかもしれないけれど、時間稼ぎにはなるはず。

 炎の網はすでに火球に戻してある。それを離れたところに飛ばしつつ、闇に紛れてもう少し相手に近づく。もっと松明が良く見える場所へ。

 火薬袋に引火させないためにも、高火力で一気に、そして的確に燃やさなくてはいけない。

 大男が手にした火薬袋の導火線に火をつけ、それを思い切り投げ飛ばす。火球のひとつにはそれを追わせた。落下方向にいる者が逃げられるようにするための警告だ。

 彼は火薬袋を持っておらず、目線も投げた方向に向いている。今こそ、松明を燃やすための好機。わたしは離していた火球を引き返させる。的確に松明だけを燃やすため、しっかり位置調整をしながら。

 それは狙い通り、ザインの左手の松明を燃え上がらせた。

「あちっ!」

 持ち手の熱さに、彼は思わず松明を地面に落としてしまう。それから松明が真っ黒な炭と化すまではわずかな間。

 そのわずかな間に、わたしは、大男の向こうで影が揺らめくのを見た気がした。

 松名が消えると、一度、わたしとザインの周囲は暗くなる。松明を消し炭にした火球は少し離れた場所を照らしてはいるが。

 その、暗闇のうちに。

 ドスッ。

 鈍い音が耳に届き、わたしは火球のひとつをこちらに引き戻す。

 照らし出されたのは、転倒した大男を関節技で拘束しているアイン。どんな怪力男でもこうされると身動きが取れなくなる、という技があるのは聞いたことがあるけれど……人体の神秘だ。

 それに、小柄で華奢な少年に身動きが取れないようにされている大男というのはなかなか見もの。

「わたし、動けないから……レシュ、火薬を」

 言われて、大男の腰から袋を外して地面に置く。ほかにもあるかもしれない、と探してみると、鎧の肩当の内側にひとつと服の懐にさらにひとつ隠されていた。危ない、危ない。

 さらに大剣を鞘ごと外し、縄で幾重にもぐるぐる巻きにしておく。

「ボクが見ておくよ。間違って解放されないよう」

 タウがいつの間にか足もとに座っている。

 捕まえて拘束しておいた犯人が被害者と間違えられてしまう。そんなこともたまにはある。まあ、ここの警備隊員とはもうタウは知り合いなので、彼がいれば大丈夫だろう。

「ティフェ! ケト! 無事かい?」

 アインが暗闇に呼びかける。

 わたしは二つの火球をさらに分裂させて増やし、出来るだけ大きくして周囲の広い範囲を照らす。昼間のように、とはいかないが、これでかなり明るくはなった。

 何度か呼びかけると、しばらくして反応があった。

「ここだよ!」

 ケトだ。木の陰の方にいたらしい少年が、明かりの下を走ってくる。

「オレは無事だよ。でも、ティフェがいなくて……何度呼び掛けても返事がないし、見当たらないんだ」

 息を切らせてやってきた少年は、泣き出しそうな顔をしていた。

 まさか……。

 あの時聞いた悲鳴を思い出しながら、そんなことはないだろう、と思いたい気分で女剣士を探す。木の陰や岩の後ろにもいない。谷に近づいてみると、一部がえぐれてその周囲が崩れたようになっていた。爆発の衝撃で端が滑り落ちたようにも見える。

 明かりの届く範囲内、どこを見ても彼女の姿はない。

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