13、魔術師と火走りの谷(前編)
〈火走りの谷〉の手前にある町の図書館で、わたしたちは谷について調べていた。
すでに馬車とは入り口で別れ、多くの人で賑わう市場を眺めてきた後のことである。眺めただけで何も買わなかったけれども、見たこともないような物も含むさまざまな商品が並んでいるのは、見ているだけでもなかなか楽しいものだ。
「〈火走りの谷〉……千年以上も前から存在していると言われており、かつては精霊たちが集うほど強い魔力を帯びた谷だったが、その力を利用しようとする魔術師や商人なども多数集まり、魔力は使い尽くされたのか、滅多に〈火走り〉も見かけなくなった」
精霊タウが机の上にちょこんと座り、開いたままの本のページを読み上げる。
谷の図解が載っている本もあるが、それを見る限り谷というよりは大地に深く刻みつけられた亀裂のようだった。地上から谷の底は見えないが、浮遊能力を持った魔術師が降りて調べたところ、いくつか小さな池があるだけの岩場だったそうだ。
しかしなぜか、その魔術師は調査の後も谷の底に何度も降り、彼女が亡くなって以降も谷の底に降りる者は後を絶たなかった。それを知った人々は谷の底には金の鉱脈でもあるのではないか、他人には秘密にしておきたい宝でもあるのではないかと噂し合った。
噂を本気にした者の中には魔法を使わず道具と人力で底へ降りることに挑戦した者もいて、その多くが帰ってこなかった。
谷の魔力が薄れると、噂話が流れたのも一気に過去のものとなる。周りに住んでいた者たちも一人また一人と去っていき、谷のそばの丘に並んでいた魔術師たちの塔もひとつだけが残る。町も昔に比べ小さくなった。
と、わたしが読んだ本には記述されている。この町は十年くらい前に町の中心部に運河が延伸され、本が書かれたときよりはだいぶ活気が戻っているようだけれど。
「残るひとつの塔が、目的の魔術師の家かな」
パタンと呼んでいた本を閉じて、しばらく調べ物に集中していた少年魔術師は疲れた様子で身体を伸ばす。
塔は開けた場所なら、この町の中からも見えた。谷は近く、そこへの道は真っすぐで迷うこともなければ障害になるものもない。
「昼食を食べたら、早速これを渡しに行こうか」
と、彼は黒いコートの腰のあたりを叩く。魔術師姉妹から預かった、触れてはいけない聖剣。
――アインも、それを早く手放したいんだろうな。
触れた者は誰かにそれを押しつけるか、誰かの心臓を刺しつらぬかなければ満月の夜に狂人となるという聖剣。彼の魔法なら触れても無効化できるだろうし、次の満月までまだ時間はあるけれども、魔法は使わずにおければそれに越したことはない。
図書館を出ると、安そうな食堂を探す。町の中心には運河が流れ込んでおり、中心街は観光客も多い。そして観光客の多い場所にある店は当然観光客相手のものが多く、そういうところは高い。
運河は見ている分にはいいのだけども。澄んだ青の水面を、いくつもの船が滑るように移動していく。と言っても幅はそれほど広くなく、船が二隻やっとすれ違える程度だ。
それでも、この運河がどれだけ重要な役目を果たしているかは少し見ていればわかる。人だけではなく、動物も食料も道具も、その他さまざまな積み荷があちこちで揚げ降ろしされている。
運河とそこから通じる海を隔てて行き来するものにはこの大陸の外から来るものもあるし、ここで陸揚げされた物はもちろん、この町だけで利用されるわけではない。まさに、この大陸の玄関口のひとつだ。
「レシュは船には乗ったことはある?」
活気のある運河方面からは離れながら、アインがそんなことを訊く。
「川を渡るための渡し舟に何度かと、漁師に船に一度」
川を渡る渡し舟は有料だけれど、ほかに向こう岸に渡る手段がない場合は仕方がない。
漁師の船は、漁の邪魔をしてくる海獣を仕留めるために頼まれて乗った。あのときにお礼に作ってもらった魚貝の刺身は美味しかったな。そして、わたしはどうやら船には酔わないようだ。
「わたしも渡し舟に何度かと、海賊対策の護衛船に乗ったときくらいだね。波がひどくて、護衛船のときには酔ったよ」
「そんな荒れた海だったの?」
「いや、嵐が来ていてね。さすがに海賊船も出なかったので無駄足だった」
運河をひとつ離れた通りに入ると、だいぶ喧噪も落ち着く。
「地元の人が通うような、裏地にある隠れた名店、みたいなお店が見つかるといいんだけど」
というアインが行く手に選んだのは、住宅街。
運河から新鮮な食材も入ってくることだし、よほど料理人が下手な店でなければ美味しいはず。しかし住宅街で店を探すのは難しくないだろうか。隠れた名店は、隠れているわけで。
内心少し心配になったものの、アインは地元の者らしい通行人を捕まえて飲食店を聞き出した。彼が尋ねると大抵の相手は快く応じる。やはり皆、綺麗な子には弱いのか。
「もう二つ向こうの端に、安くて美味しい定食屋があるってさ」
安くて美味しい。なかなか甘美な響き。
――言われた通りの場所に言われた通りの店があった。民家と民家の間に立った、狭いが奥行きのある店で、カウンター席しかない。すでに客が四人いるところに詰めて座り、二人とも一番安い〈日替わりランチ〉を頼んだ。
出てきたものは値段のわりに豪華な内容のセットだった。白飯にサラダ、カニの味噌の味がしっかり出た汁物に、新鮮な魚貝の刺身。東方の国では箸で刺身をいただくらしいが、刺身なんて漁師に頼まれての海獣退治に続くこれで二回目だし、箸も全く使ったことはないのでスプーンとフォークでいただく。
ハーブと東方の塩辛い調味料を混ぜたものを刺身につけて口にすると、魚貝の甘みが引き立って旨い。
『日替わり』ランチ、なので同じ値段でいつもこのメニューがいただけるわけではないだろうけれど、本当にいい店を教えてもらったようだ。
「ご馳走さま、美味かった」
「美味しかったです」
わたしたちだけでなく、客みんながそう言い残して笑顔で店を出る。
腹ごしらえも終わったことだし、あとは目的を果たすだけ。谷を目指し、街の外へ向けて歩き出す。静かな住宅街から再び大きな通りへ。人混みに入るが、道としては真ん中を突っ切るのが最短なのだ。
「それにしても人が多い」
タウが押されないよう、何も聖剣に触れないよう、アインは慎重に手を添えながら端を歩く。
中心街は運河の船を乗り降りする乗客や積み荷を運ぶ馬車などでごった返しているけれども、もう少し運河を離れればこの混み具合ともおさらばできるはず。
人の間を縫いながら運河の上の橋を渡り、隙間を見つけて目の前に横たわる大きな通りを横切る流れに乗る。
もう少しで渡りきるところだった。
「あっ、ああっ」
向かい側から来た、麻袋を両腕に抱えた若い女性が何かにつまずいた拍子に袋の中身をぶちまけた。拳大の丸く黄色い果実がゴロゴロと周囲の地面に転がっていく。
「ご、ごめんなさい!」
泣き出しそうな顔で謝る女性。
わたしとアインを含む何人かが拾うのを手伝い始めるが、いくらかは踏まれたり傷ついたりで駄目になってしまうだろうな。
果実を拾い集めるのに集中している意識に、どこかで聞いたような鋭い声が刺さる。
あれは、馬のいななき。
しゃがみこんで両腕に果実を抱えたまま振り向くと、人混みがさっと左右に割れる。その向こうに、憩い良く走ってくる二人乗りの幌馬車。
「危ない、みんなどいてぇ!」
御者が必死の形相で叫ぶ。きっと何かに驚いて馬が暴走したのだろう。もしかしたら、ここでぶちまけられた果物に、かもしれない。
ほとんど馬車の進行方向は開けたが、ひとりだけその方向に取り残された人物がいた。それは、自分でぶちまけてしまった果物を必死に拾っていたあの女性。
「……え?」
周囲の声でやっと気がついた彼女が見上げたときには、馬車はすぐそこまで迫っている。
ひかれる!
悲鳴が重なり、女性は立ち上がったはいいものの、凍りついたように立ちすくんでいる。そこへ向かって、人垣から背の高い人物が素早く走り寄って跳びついた。そのまま、果物を抱えたままの女性を脇に抱えて跳ぶ。白いマントと束ねた金髪の先がひらりと舞った。
その背後ぎりぎりを、馬車が通過していった。
よかった、二人とも無事のようだ。茫然としている女性を立たせているのは、見覚えのある姿だ。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
果物を集められるだけ集めて女性に渡すと、彼女は髪を乱しながら何度も何度も周囲に頭を下げていた。
道行く人の流れが元に戻り始めたころ、見覚えのある金髪に白マントの女性の姿がこちらに歩み寄ってくる。
「久々……ってほど、久々じゃないね。元気そうで何よりさ」
鉱山の洞窟に住み着いた暴れ牛を退治したときに一緒になった、金髪の女剣士ティフェ。
「そちらも元気そうでよかったわ。ケトは一緒じゃないの?」
彼女と一緒に旅をしている鞭使いの少年の姿は、視界のどこにも見当たらない。
「ああ、宿で待ってるよ。夜になったら〈火走りの谷〉に出かけようと思ってね」
「夜? 夜に行くのは何か理由があるの?」
アインが聞き咎めると、ティフェは少し驚いた様子だった。
「そんなの、決まってるじゃないか。火走りを見に行くんだよ」
聞いてみれば、それはそうか。明るい間よりも夜の方が火走りを見やすいはず。もう火走り自体滅多に起こらなくなっているそうだけれど、新月の夜には見られることもあるようだ。
「ま、ボクらは谷そのものに用事があるわけじゃないし」
姿を現わさないままタウが言う。
「なんだ、どこか行くのか。夜までヒマだからついてってやってもいいよ。谷の下見に行くのも悪くない」
それは心強い――と喜びたいところだけれど、一緒に依頼された聖剣の届け先である〈停止〉の魔法の使い手のところに向かうということは、聖剣について知るということだ。
ティフェの人となりについては、充分信頼に値する、とわたしは思うけれども。今だって当然のように、自分の危険も顧みずにあの女性を助けたのだから。
アインを見ると、彼もうなずく。
「ティフェなら信用できるし、べつにいいや。一緒に来てくれた方が頼もしいよ」
「じゃあ決まりだな」
距離的にはすぐそこまでだけれど、わたしたちの旅の同行者は再び、一人増えることになった。
歩くのにも集中力を使う人混みを抜け、のんびり歩けるような地区に入ると、わたしたちはそれぞれ、別れた後に見聞きしたもの、遭遇したことをかいつまんで話した。
「そりゃまた、ずいぶんと厄介な仕事を引き受けたねえ」
聖剣の話を聞いたティフェは、驚いたように言う。
「あたしなら断るところだろうね。まあ、あんたには凄い魔法があるから、勝手が違うんだろうが」
「一度に同時に何人も触れてしまったらどうなるかとか、色々と例外は起こり得るだろうけれどね」
確かに、同時に複数の場合はどうなるのか。少し気になるものの、試してみるわけにもいかない。
ティフェたちの方はわたしたちと一旦別れた後、学者の多い町へ寄ってからここへやって来たらしい。ケトが将来どんな道でも選べるように、色々な知識を広げること――それがケトの両親とケトが交わした、旅立つための条件だった。
たぶんケトのご両親は旅人ではなく、もっと地に足のついた仕事に就いてほしいのかもしれないけれど、なんとなく、ケトは旅をする仕事を選びそうな気がする。
話しながら歩いているうちに、白い石を削り出した六角形の柱を左右に配置しただけの門を出る。
視界を遮るものはまばらに生えた木くらいなもので、茶色の石造りの魔術師の塔は小さな丘の上に見える。谷はここからは見えないけれど、一部を囲んでいるらしい柵は見える。
周囲は草も生えておらず、土肌ばかりの地面だけれど、煉瓦を埋め込んだ道が門から続いていた。それは丘の上に真っ直ぐ続いている上、途中から谷に向かう分かれ道もあった。谷の方にはこちら側にもあちら側にも柵の前に何人もの観光客も並ぶ。
「意外と殺風景だね。展望台でもありそうなもんだけれど」
「落ちたら責任取れないからじゃないの」
ティフェのことばに、黒猫がやっとアインの胸もとに顔を出す。
煉瓦の上を歩くだけなので道に迷うはずもなく、丁度太陽が天頂近いので少し暑いが、ほんの少しの辛抱だ。
丘を登ると、塔の全容が見えてくる。茶色の煉瓦を積み上げた塔らしく、正面に両開きの扉、その上に四角い窓が三つ縦に並んでいた。四階建ての塔のようだけれどかなり古そうに見える。図書館で読んだ話が本当なら塔がたくさんあった時代から最後に残ったのがこれのはずで、持ち主も代替わりしているはずだ。
一方、丘に登って視点が高くなったことで、横を向くと谷を見下ろすことができるようになっていた。日光の差し込む地上近くはゴツゴツした青黒い岩場が見て取れるが、底の方はすっかり黒一色の闇に沈んでいる。
「タウ、何か感じるかい?」
少なくとも、今まで見た限りでは火走りは起きていない。やはり火の精霊たちはどこかへ行ってしまったのか、と思っていると、アインがタウに手っ取り早いことを訊いた。
火走りを起こしているのが精霊ならば、精霊に聞けばその存在の有無もわかることだ。
「いや、今のところ精霊の気配は何もないね」
黒猫は首を振る。
「残念だな、それは。夜には来てくれりゃいいけど」
容赦のないことばに、女剣士はがっくりと肩をすくめる。彼女としては夜に何も見られないまま帰るのは避けたいだろう。
しかしまあ、本の記述を信じるなら、見られる可能性はもともと低そうではあるけれど。
「着いた。けれど……」
塔の少し手前でアインが声を上げ、わたしは扉の片方の取っ手に縛り付けられた、紙替わりの白く薄い木の葉を取って開いてみる。
『留守にします。御用のかた、しばし後にもう一度どうぞ』
どうやら、塔の主は留守のようだ。
「残念。出直しましょ」
メモの書かれた木の葉は、元の通りに戻しておく。
「戻って、もう少しこの塔の主についても調べてこようか。どこかで行き会えるといいけれどね」
と、アイン。
そう、この塔の主がどこに用事に出かける可能性が高いかというと、当然、近くにある街だ。街は広い上、人が多いので遭遇は難しいだろうけれど、こちらはあちらの顔すら知らないし。
仕方がないので引き返す。道のりが短いのが幸いだ。これが魔術師姉妹の山の中腹まで登るくらいの距離と道の荒れ具合だったらかなり厳しい。
再び門をくぐり、情報収集のために地元の者から話を聞こうと考えた末、谷の管理局へ。中心街を歩いていると、公共施設が集まっているあたりにデカデカと、〈火走りの谷管理局〉と書いてあったのだ。
「ええ、あの塔にはヨドさんという魔術師のかたが一人で住んでおられますよ」
受付の、熟練の風格があるお姉さんがそう断言する。
よかった、やはりあの塔が聖剣を届けるべき相手、ヨドさんの住処だ。そうだろうなとは思いつつも、確信はないまま訪ねて行ったのである。
「もう、かれこれ七〇年近くは住んでいらっしゃるかしら」
「では、ヨボヨボの爺さんなのかい?」
ティフェが質問すると、驚いたことに受付嬢は首を振る。
「いいえ、見た目はせいぜいあなたと同じくらいの青年よ」
――そんなはずは。
と一瞬思ったものの、その魔術師は〈停止〉の魔法の使い手なのだった。それに、魔術師姉妹セラスさんとシャナンナさんの例もある。
もう少し詳しく魔術師ヨドの容姿を教えてもらってから、谷の管理局を後にする。
ヨドの外見――金髪に茶色の目、紺色のガウンの学者風、何より特徴的なのはこの大陸ではまだ珍しい、眼鏡をかけていること。
見つけさえすれば、本人かどうかわかりやすい外見ではあるようだ。
教えてもらった外見の者がいないか、人混みを注意して見渡してみるけれども、そう簡単に見つからない。たまに眼鏡をかけている人がいて、もしや、と注意を向けてみるも、どうやらその誰もが大陸外から旅行に来た者のようだった。
「一旦宿に戻るよ。夕食の後にまた塔を訪ねて行けばいいんじゃないか。そのときわたしらも誘ってくれ」
ティフェは泊っている宿を教えてくれ、また一度別れることになった。人探しに飽きたか、同行者が心配になったか。どうにしろ、訪ねていくまで見つけられないと踏んでいるのは確か。
まあ、難しいのはこちらも承知。それはアインも同じ考えのようだ。
「公園にでも行こうか。ヨドさんは見つけられれば御の字だけれど、たぶん無理だろうね」
人探しよりも時間つぶしを優先した提案だった。
中心街にいてはなかなか気も休まらない。賑やかな運河の周辺を離れ、住宅街にある小さな公園を目指す。人の多い場所を眺めていた後は、できるだけ人のいない場所に行きたくなるもの。
この町の地図も図書館で読んだ本から大体頭に入れていた。確か、静かな住宅街のど真ん中にそれがある。
「……誰か……」
声が耳をかすめ、足を止める。
か細い少女の声だった。今見えている視界の範囲にはいない。
「……誰か助けて」
覗き込んだ先、家と家の間の細い路地。脇にいくつか木箱が並んでいるその横に、ピンクのワンピースの小さな女の子がしゃがみこんでいる。お腹でも痛いのだろうか。
「気をつけた方がいいよ」
姿を見せないまま、タウの警告。
こういう人の出入りが激しい町は、いいものもたくさん入って来るけれども、悪いものもたくさん入って来るもの。
しかし、鉱山の町で出会ったお爺さんのことを思い出す。あのときは警戒しても何もなかった。あのお爺さんが普通のお爺さんだったのと同様、この娘も、見たところは背格好は普通の女の子だが。
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