15、魔術師と火走りの谷(後編)
「まさか、ティフェは……」
ケトにとって、それは認めたくないものだったろう。
生きて地上にいるのなら、もうとっくに顔を出しているはず。一人で逃げ出すような性格とも思えない。
それらが示す事実を、もう認めるしかないのかも……。
そう思っていると。
「大丈夫」
谷を見下ろしながら、アインが平静な声で言った。
「ティフェは落ちても、すぐそこに引っかかっているよ」
と、彼が指をさす方向の暗闇に向けて、わたしは火球をひとつ飛ばしてみる。
そこには、出っ張った岩に寝そべった見慣れた白マントの姿がある。彼女は照らされると、座り込んでこちらを見上げ、手を振った。
「おーい、ロープをくれ!」
わたしは思わず脱力する。ケトはそれどころではなく、嬉しさのあまり笑いながら泣いていた。
それにしても。
「もう嘘は使ってしまったはずじゃあ?」
「嘘? どれが?」
わたしのことばに、アイン首を傾げた。
「ほら、飛べるから、っていう」
不思議そうな顔をしていた少年魔術師はやっと自分のことばを思い出した様子で、ああ、と納得した様子を見せたあと笑う。
「あれは嘘じゃないからね」
また、さらりと凄いことを。
考えてみれば、一日一回とはいえ何年もたっていれば、さまざまな望みを嘘で叶えているのだ。その中に『空が飛べる』があってもおかしくはない。空が飛べるからって、空を飛んで旅をするとも限らないし。
しかしそうなると、多くの魔法はアインの嘘で実現できるのではないだろうか。『わたしは天候を操れるんだよ』と言えば操れるようになるはずだし、『水中でも息ができるんだよ』と言えば水中呼吸が可能になるはず。
そしてアインには幻覚の魔法も通用しない。そういったことも嘘の結果にできた耐性なんだろうな。
――もしかしたら、使っていないだけでできるのかもしれないが、できれば炎を操る能力はまだ持っていないと嬉しい。
ともかく、ティフェを引き上げなければ。わたしとアインのロープはすでにザインを縛るために使ってしまったため、早速アインが飛行能力を使い、ふわふわとティフェのそばまで飛んで行って彼女のロープを受け取り、それの端を上で丈夫な木の幹に巻き付けて垂らす。ティフェはそのロープ一本を頼りにやすやすと崖を登った。
「まったく、危ういところだったよ」
「よかった、ティフェ!」
地上に姿を現わすなり、ケトが駆け寄って再会を喜び合う。
「しかし、あんたたちといると驚くようなことが次々起こるもんだね」
ティフェはアインの話を聞いていなかったので、下の岩でアインが飛んでくるのを見上げたときには、目を見開いて驚いていたものだ。
「長旅を続けていれば、色々なことが起きたり色々な嘘が必要になったりするものさ」
と、当ののアインは涼しい顔をしていた。
後ろの方を振り返ると、どうやら街から警備隊がやってくるところのようだけれども、そちらはタウに任そう。今ここで足止めは食らいたくない。
まず、当初の目的を果たそう。
塔へと続く煉瓦の道に戻ると、いつの間にか塔の扉が開け放たれていた。洩れ出した光の中に、黒い人影が浮かぶ。
近づくと、光の中にいる人物の全容が次第に見えてくる。その中で小さく輝く金縁の眼鏡も。
「あなたが、魔術師ヨドさん?」
そう尋ねると、谷の管理局で聞いたままの姿の魔術師は、知的な微笑みを浮かべてうなずいた。
「ええ、わたしはヨド。〈停止〉の魔法の使い手です。ずいぶん派手な音がするからと出てみましたが、火薬が使われていたとはね。よほどあなたたちから奪いたいものがあったらしい」
「ええ――これがそれです」
アインがコートの下から、例の細長い包みを取り出す。
「セラスさんから預かってきました。満月の夜には触れた者を狂わせるという聖剣です」
「ああ、あのときの……」
ヨドさんは聖剣とシャナンナさんの封印も作った人だ。それを思い出したのだろう、彼はうなずきながら包みを受け取ると、それをほどき始める。
銀光がさらされる。ヨドさんがそれに触れてしまうのではないか、と少し心配したが、彼は見透かしたかのように言った。
「わたしの魔法ならば、この聖剣に触れることもできるのですよ」
そうか、〈停止〉の魔法で聖剣の機能を停止させればいいのか。
「よくこれを、シャナンナ嬢の身体から抜けたものだ……そして、どうせこれを、わたしに封印してほしいというのだろう?」
「ええ。わたしたちは、それをセラスさんに頼まれてここまでやって来たのです」
「なるほどね」
わたしに応じると、彼はすっかり包みから取り出した聖剣の柄を握り剣先を空に向ける。そうしても、刃が赤く輝きだすことはない。
「これの本来の持ち主はとこの国のとある神殿だけれど、そこへはわたしから連絡しておこう。盗賊に侵入されるような神殿に保管するよりは、とりあえずはこうしておく方が安全だ」
剣を握るのとは逆の手で彼が刃を軽くなでると、剣全体が半透明な青白い封印の中に閉じ込められる。シャナンナさんの身体が封じられていたものとよく似ていた。
「それから、その剣はどこに?」
と、ティフェ。
ヨドさんに預かってもらうのだろうか。封印した聖剣をあの山の魔術師姉妹のところに持って帰るようには言われていないし、そんな依頼も受けていない。
「こういうものはね、しばらく谷の底に封じておくんですよ」
ヨドさんはそう言って歩き出す。〈火走りの谷〉に向かって。
谷の底には何があるのか。なんとなく、その答がほの見えた気がする。
わたしたちが背後に並ぶ中、ヨドさんは両手の上に横たえた聖剣を谷の端から差しだし、そのまま両手を左右に開いた。
支えを失った剣はそのまま落下していく。深い深い闇に閉ざされた、谷の底へ。
しばらく待ってみても、落下音すら届かない。
「これで、聖剣を手にすることのできる普通の人間はいなくなったわけだ。魔術師なら知らんけど」
ティフェのことばに、ヨドさんは苦笑した。
「そうですね。まあ、わたしも谷底に降りたことはありますし。しかし、わざわざ底へ降りてさらに〈停止〉の封印を解いてまで扱いの難しい聖剣を入手しようという者はなかなか現れないでしょう」
谷底の聖剣を手に入れるにはおそらく、複数の魔法が必要となるだろう。となると、魔術師を何人も雇わなければいけなかったりと、かなりのお金と労力がかかる。
もともと聖剣を保管していた神殿が聖剣を引き上げて取り返そうとするかもしれないが、ここの方が安全なのでその可能性は低いという。
「ヨドさんは、谷の底を見たことがあるんですね」
アインはそれを聞き咎めた。
「ああ、ありますよ。大昔、〈回転〉の魔法の使い手と〈延伸〉の魔法の使い手の協力を得て、大掛かりな装置を作ってね」
「財宝でもあったかい?」
ティフェの単刀直入な質問にヨドさんは苦笑した後、
「ああ、強力で素晴らしい財宝がたくさんありましたよ」
眼鏡の奥の目に、少し意地の悪そうな光をたたえてそう言った。
彼が谷底で見たもの――その一角では、一振りで町ひとつを壊滅させられる斧や、どんな金属をもつらぬける槍、意のままに刃の長さを変えられる剣のような、魔法の力が込められた武器がゴロゴロしていた。
一方、それらがある場所は古戦場。建物はほぼ壁の一部しか残っていないが、どうやら戦場となったのはどこかの町らしい。
何より目を引いたのは、おびただしい数の人骨。身体の一部がなくなったもの、頭蓋骨に穴が開いているものなども多く、子どもらしい骨や赤ん坊と母親らしい骨が並んで倒れていたりもする。
そして谷の中央。そこは大きく凹んでおり、中心には剣が刺さっていたような形と大きさの穴が空いていたという。
ということは、この谷自体がその、中心に突き立っていたらしい剣らしきものによりできたものか……?
その剣はもしかしたら、と思う。今しがた底に封じられた聖剣はあのままでも厄介な代物だが、もともとはほかの聖剣と一振りであったものを無理矢理二振りにしたものだ。元の一振りのままだと、あれ以上に強力で厄介な聖剣だと。
この谷の底に眠っていた強力過ぎる剣こそ、あの聖剣の元の姿という可能性もあるのではないか。確かめようもないが。
「底にあったいくつかの武器はおそらく、すでに地上のどこかに持ち出されているらしいですね。封じられる物はわたしが封じてきたけれども。わたしとしてはそれより、滅びた街の方に歴史と興味を感じていましたけれどね」
文明の進んだ島が強力な破壊兵器の暴走で一夜にして沈んでしまったとか、神の怒りに触れた町が消し飛んだとか、秘境の都市国家がとある美女を巡る王子たちの争いが元で滅んでしまったとか……そういう類の史実とも神話ともつかない伝承はいくつも読んだことがある。
このあたりにも、相当古い文明の時代、栄えた町があったのか。少なくとも今まで読んだ本には書いていなかったけれども。
「あっ」
急にケトが声を上げて、ある一点を指さす。
「火走りだ!」
つられて視線を向けると、谷の中ぐらいの深さのところに、赤い光が走ったのが見えた。まるで、小さく赤い雷が閃いたようにも見える。
運よくそれを目撃したらしい観光客たちの方からも、どよめきと歓声が上がっていた。
「聖剣の魔力にひかれて精霊たちが近づいてきたようです」
ヨドさんがそう説明する。
タウもそうであるように、精霊は強い魔力にひかれてやってくる。かつての谷で火走りが多く目撃されていたのは、今よりも多くの魔法の武器が底に散らばっていたためだろうと推理できる。
火の精霊が多いのは、土地柄か、火にまつわる強力な魔法の武器でも存在しているためか。
「タウが魔力にひかれて来たくらいだし、アインがいればその辺に火走りも見えるんじゃないのかしら」
「そう簡単には来てくれないよ。ほら、またあんな遠くに」
谷の向こう側の底の方に、ちらりと赤いものが散る。
「谷の中じゃないと見えないんだろう。アイン、ちょっとその辺飛んできてみてよ」
ティフェがからかうように言うとアインは首を振る。
「さっきは命がかかってたから飛んだけど、わたしはあまり飛ぶの得意じゃないし好きでもない」
「じゃあなんで、最初は飛ぼうと思ったの?」
ケトの純粋な疑問だった。
その答はいくつか想定できる。それこそ、命がかかっているような場面。自分がどこかから落ちそうになったときにとっさに『わたしは飛べるから』と嘘をついたとか、誰かが高いところから落ちそうになっているのを見て、それを助ける目的で同じく嘘をついたとか。
という予想は全部外れていた。
「旅の途中で寄ったある貧しい村で、ボロボロの布をかき集めて作った蹴鞠で遊んでいる子どもたちがいたんだけど、その蹴鞠が木の上の方の枝に引っかかっちゃって」
なんとも意外な理由だった。でも、アインらしいと言えばらしいか。
「むしろ、火の精霊が寄って来るっていうならわたしよりもレシュなんじゃないかと思うんだけれどね」
わたしにも、アインにおけるタウのような精霊が寄ってくる可能性はあるのかしら、と考えてみたことがある。でも、あの火走りの精霊たちが姿を現わさないところをみると、わたしにはそこまでの魔力はないのだろう。
一抹の悔しさを覚えないでもないが、まあ、かまうものか。
「わたしには、精霊なんて必要もないもの」
そう言って、伸ばした手のひらに火球をひとつ呼び寄せる。
そしてそれを頭上高く上げ、小さな火球に分裂させながら散開させた。そうしながら少しずつ色を変える。火力も操れるということは、ある程度炎の色も操れるということだ。
「うわあ、凄い」
「火走りよりこっちの方が見ごたえがあるね」
離れたところからも歓声と口笛が響く。観光客たちの目にも留まったらしい。
「花火を見たことがあるけれど、花火みたいに綺麗だね」
精霊に選ばれない悔しさはあっても、アインに褒められると、少しいい気分になる。
そう、わたしも大きな都市で花火を見たことがある。今のはそれを真似たのだった。
「一仕事終えた後の、祝福の花火、といったところかしら」
「そうだね……これで、この仕事は終わったね」
谷の中で閃いては消える火走りを眺めながら、彼はほーっと長い溜息を洩らした。しばらく一緒に旅をしていた触れてはいけない聖剣が手を離れたのだから、安堵の溜め息のひとつも出る。
そこへ音もなく、小さな気配が近づく。
「そっちは終わったみたいだね、お疲れさま」
闇を切り取ったような猫の姿が暗がりから、明かりの下へと歩み出てアインの足もとに座る。
「それじゃあ次、こっちもよろしく」
わたしたちが振り返ると、黒猫が来た方向から、二人の見覚えのある警備隊員がこちらに向かってくるところだった。
朝食用に買っておいたパンに昨日の残りの鶏肉の燻製の薄切りを挟んで、それにハーブティーを一杯。それだけで朝食を終えたあと、わたしたちは宿を出た。
昨日のあの後。昼間と同じく警備隊の詰め所に連れていかれて話を聞かれたものの、意外に早く解放された。観光客ら目撃者も多数いたし、火薬袋など証拠品も多く存在する。そして、昼間の少女を助けた件もその理由になっていた。
強盗未遂ももちろんだけれど、町の公共施設である煉瓦の道も破壊しているし、観光名所でもある〈火走りの谷〉の一部も崩しているし、犯人にはそれなりの厳罰が与えられるだろう。
それでも少しは帰りが遅くなったが、どうにかお風呂の順番にも間に合った。フイゴで風を送ってかまどの火を調節し湯の熱さを変えるのだけれど、なにしろ、わたしはわざわざフイゴを使う必要もない。快適に入ることができた。
部屋ごとの時間順になっている関係で、この宿のお風呂は男女別に分かれてはいない。わたしが先に入り、出る前にまた熱さを調節しておいたので、アインもしっかり風呂を楽しめたようだ。
楽しむと言っても窓も何もないので、あくまで湯舟の温かさを感じるだけだけれども。それでも宿屋で過ごす夜にしては贅沢な時間だ。
お風呂入って出たあとはすぐに寝てしまったけれど、部屋の窓から見えた、街灯の明かりを水面に映す運河の風景はなかなかの眺めだった。
遅く寝た夜の翌日の朝は、やはり多少は眠い。普段ならもう少しゆっくり寝ていても良かったのだけれど、今日はこの時間までに起きなくてはいけない理由があった。
「あ、来たね。おはよう」
「おはよう、ティフェ、ケト」
周囲の喧騒に負けじと声を張り上げて挨拶を交わす。
早朝の船着き場も、昼間に負けじとすでに賑わっている。ただ、この時間帯は人を運ぶ船のみが出入りすると決められているらしいけれど。
いくつもある桟橋のひとつ、ここに連絡橋でつながる白い外壁の船は今運河に見えるものの中では大型船で、最新の蒸気機関と大きな帆を備えており、船上で働いている乗員の数も多い。それもそのはず、大陸を出て北東の群島へと渡る船なのだ。
ティフェとケトは、その大型船に乗る乗客たちの作る列の中にいる。まだ乗船開始前だけれど。
目的の港までここからそれほど離れてはいないとはいえ、それでも船に二泊はすることになる。
「大丈夫? 船酔いはしない?」
わたしが訊くと、うなずくティフェのとなりでケトは、
「オレは船に乗ったことないからわからないな。でも一応、船酔いに効くらしい薬を買ってあるよ」
と、懐から出した小袋を見せた。
北東の群島は、自然にまつわる科学や医学が発達している。それらの知識にケトを触れさせるのもまた、旅立つ条件であるケトの両親との約束のひとつなのだろう。
「ちゃんと勉強して帰って来るんだね、お金もかかってるし」
「わかってるよ。自然に関係する知識も医療の知識も知っていれば旅の役に立つだろう?」
アインの胸もとからタウが声をかけると、少年はそう返した。確かに言っていることは間違っていないが、その考え方は両親の狙い通りではないんだろうな。
話しているうちに、連絡橋の入り口に掛けられていたロープが解かれ、列が先頭から順に乗船していく。
「そっちはまだこの大陸にいるのかい?」
歩き出しながら、ティフェが声をかけてきた。
「わたしはまだ、当面はこの大陸にいると思うよ。まだまだ行ったことのない場所も残っているし」
「わたしもアインと同じね」
この大陸を一通り回り――財政的に余裕ができたら。
やはり舟券は高い。結局のところ、金銭的な理由が大きい。だって、もしお金を気にしなくていいのなら、どこか行きたいところへ渡ってみた後にまたこの大陸に戻ってくればいいのだし。
地図にも載っていないような島で財宝探し。船の墓場と言われる朽ち果てた港で海賊たちと戦い、未知なる黄金の国の待つ新大陸を開拓。幼いころに読んだ旅行記や冒険譚にもそういった海や新天地を舞台とする話は多く、憧れを抱いたこともある。
それにいつかはあの竜鱗族のような、人間以外の種族が住む場所、この大陸に住むわたしたちには想像できない文化があったり、見たことのないような現象が起きるような場所も目ざしたいが、そのためには行き帰りの舟券と向こうでの当面の生活費がなければ安心できない。
わたしが今持っているのは夢だけ。
アインも同じだろうが、彼はその気になれば飛んで別の陸地に渡れたりするんじゃないだろうか。海面すれすれを飛んだりすれば良さそうなのだけれど……相変わらずわたしの発想はせこい。
ティフェとケトを含む乗客たちは全員船に乗り込み、陸に残るのはみんな見送りの者だけになった。
乗員が連絡橋を引き込み船の出入り口を閉める。出航のときが近い。
「またどこかで会ったらよろしくな!」
甲板でティフェが手を挙げて叫ぶのとほぼ同時に、汽笛がポーッと音と蒸気を噴き上げた。
船が動き出す。運河が海へと流れ込む、その方向へ。
「二人とも、元気でな!」
女剣士の横で手を振るケトの声が届いた。
「いつかまたね!」
「そちらも、身体に気をつけて!」
周囲でも似たようなやり取りが交わされている。それに負けないように、わたしも声を張り上げた。
そんなに長い付き合いでもないけれど、別の陸の上へと去っていってしまうとなると、少し寂しくはある。
白い船は少しずつ加速して、ついには水平線の彼方の雲の中に溶け込むようにして消えていった。
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