11、魔術師と乾いた村(中編)

 そこへ、高いいななきが響き渡る。

「あっちだ!」

 跳ね上げた泥水で汚れるのもかまわず走り出す。

 わたしたちは音だけを頼りに必死に雨の中を行く。一度視界に入ってしまえば馬を隠すのは難しいため、見つけやすいはず。と言っても頼りは闇をものともしないタウの目だけれど。

 家がまばらで背の高い建物もないので、障害物が少ない点は走りやすい。

 やがて牧場か何かの柵の向こうに大きなものが動く気配を見つけて追いかけると、タウが叫ぶ。

「馬だ、誰かが引きずられてる!」

 さらに近づくと、蹄の足音や馬の鼻息が聞こえる。明かりが届く範囲まで接近したいところだけれども、向こうも何かを引きずりながら移動しているようだ。動いている馬に近づくのは危険かもしれない。

 とりあえず見失わないよう、音を追いかける。どうやら、それは村の外の方へ向かっているらしい。そちらの方向には何本か、葉の生い茂る木が並んでいた。

 雨が遮られる木の根もとで、足音は止まった。火球を飛ばすと馬を驚かせるかもしれない。ここでまた暴れ馬になられては元も子もないので、傘の下に浮かべたまま、わたしはそっと目標に近づく。

 馬は今は落ち着いているようだった。その足もとに、手綱を握りしめた泥まみれの少年がしゃがみこんでいる。

 この子が馬泥棒だろうか。

「大丈夫か?」

 アインが助け起こす。茶色の目に栗色の髪の、まだ十歳を過ぎたばかりくらいに見える少年だった。服の大部分が引きずられたときについたらしい泥で汚れている。

「なんという無茶を……自分の何倍もある馬を無理に牽いてくなんて難しいだろう。そんなに馬が欲しかったのかい?」

 汚れるだけならまだしも、馬の後ろ蹴りを食らったり踏まれたりしていればケガだけでは済まないかもしれない。

「あの……ごめんなさい」

 少年はそばかすの残る頬をぬぐい、頭を下げる。

「馬があれば、遠くの丘に生えている薬草も採りに行けるし、向こうの林のキノコも取って食べられるんだ。そしたらきっと、妹も元気になるはずなんだよ」

 妹がいるのか。こんな小さな子どもが馬を盗もうとするなんて、ただお金が欲しいからではなく、きっと理由があるのでは……と思った予想は当たっていた。

 馬は木の枝につなげておくと、大人しく木の枝に生えた葉を食べ始める。素人が扱うのは危険な動物なので、あとで御者に迎えに来てもらう。

「妹さんは家にいるの?」

 病人を放っておくのも気が引けるのか、アインが尋ねる。

「この近くの馬小屋にいる。父さんと母さんが亡くなって、家も借りていたから返さないといけなくなって、困っていたら親戚のおじさんが馬小屋を貸してくれたんだ」

 なるほど、それは親切な……親切なのか?

 いくら雨風をしのげるからといっても、幼い兄妹には不充分な可能性が高いと思うのだけれど。

「そこへ案内してくれるかい? 病気を治療まではできなくても、ある程度診ることはできるかもしれない」

 アインがそういうと、少年は顔を上げた。闇の中に光明を見出したような表情だ。ほんのわずかな希望にもすがりたいというような。

 彼に断るという選択肢はないだろう。

「ついてきて」

 雨の中でもためらいなく駆け出す。もう彼はずぶ濡れなので、これ以上濡れても一緒なのだろう。

 わたしたちは見失わないよう、速足で少年の背中を追った。

 幸い、雨の中の行軍は長くは続かない。辿り着いたのは、村の外れの牧場の脇に建つ、小さな馬小屋。小さいが意外と新しそうだ。

「メム、帰ったよ」

 ドアを開けるなり、少年は声をかける。

 中は案外広く、チェストやテーブルもあり、燭台も机の上で煌々と炎を揺らしていた。馬小屋というより、馬小屋として建てたけれど改装して住居にしたような室内だ。魔術師姉妹の岩の住居と似た居住性能かもしれない。

 部屋の端の方にはあの洞窟にもあったような、藁を集めシーツをかけたらしきベッドがある。その上で幼い少女が毛布にくるまっていた。兄よりさらに、三、四歳は年下だろう。

 彼女はこちらを向くと、大きな目を丸くする。

「ケテル、ビチョビチョね……ね、その人たちはどなた?」

 茶色の髪を三つ編みにした少女は、兄に続いて小屋に入ってきたわたしたちに驚いたようだ。

 傘を入り口付近の壁に立てかけ、わたしたちはメムという名前らしい少女のベッドの脇まで近づく。

「旅人さんだよ。メムの病気を診てくれるってさ」

 ケテルという名前の兄が妹に説明した。

 アインが少女のそばに屈み込む。兄の方もそうだけれど、この子は酷く痩せているようだ。腕も足もちょっとしたことで折れそうなほどに細く、指も少し骨ばっている。白い顔も頬がこけていた。

「これはあきらかに……」

「栄養が足りてないね」

 ことばを引き取りながらタウが姿を現わすと、子どもたちは驚き、そして喜んだ。メムが手を伸ばすと、精霊は大人しくなでられる。

「食事はどうしてるんだい、ケテル」

 少年は服を脱いで絞り、藁の上に広げて乾かそうとしているところだった。わたしは火球を少し大きくして、周囲に熱が行き渡るようにしてやる。わたしたちも多少は濡れてしまったし。

「両親がいなくなってからは、畑の手伝いをして野菜をもらったり、ここのおばさんがパンやスープを分けてくれたりしていたんだ。でも、今年は手伝おうにも畑で農作物が採れなくって……」

 さすがに、自分たちの食べ物にも困っているような状況じゃ、兄妹に食事を分ける余裕もないか。

 しかし、このまままともに食事がとれなければ、この兄妹はいつまでもつかわからない。すでに村では餓死者も出ているそうだけれど、当然、弱い者から順に死んでいく。

「その場しのぎかもしれないけれど……この一食でも、時間稼ぎにはなるかもしれないから」

 そう言ってアインが取り出したのは、大量にある木の実と干したキノコ、そして持ち歩いている鍋。

「水は雨水が使えるわね」

 湯を沸かすのは簡単だ。ここには、火力調節も自由自在な火があるのだから。

 食材を見ただけで生唾を飲み込む子どもたちのためにわたしたちが作ったのは、具の多いスープ。木の実とキノコ、それに、干し肉と栄養価が高いとされているハーブの葉も千切って入れた。消化にいいようにできるだけ具材はナイフで小さくする。味付けは塩のみだけれど、美味しいと言えるくらいの出来にはなった。

 もっとも、美味しさは今は重要ではない。スープはカップに盛り付けて、スプーンと一緒に兄妹に渡す。

「ありがとう、ご馳走だ!」

 兄妹は満面の笑みを浮かべ、いただきます、と声をかけるや否や、口にかき込むようにしてスープを食べる。

「ほんと、おいひいよ」

 口にスープの具を入れたまま、何度も美味しい美味しいと言いながら、ついには涙を流して食べる様子を見ていると、少し胸が痛む。

 ――一体、どれほどの間まともに食べられていなかったのか。

「お代わりもあるから、いっぱい食べていいよ」

 声をかけると、子どもたちはスープをすぐに飲み切り、同時にカップを差し出した。並々とカップにスープを注ぐと、また素早く、しかし大事そうに食べ始める。

 メムも支えてやらなければ身を起こせないくらいだったのに、どこにそんな力が残っていたのかというくらいの勢いで食べた。急ぎ過ぎて喉を詰まらせないか心配だったが、出来るだけ具材を小さくしたのが良かったのか、詰まらせることなく食べ終える。

「本当にお腹がすいてたんだね」

 メムのそばで丸くなっていたタウがつぶやく。

 しかし、今の空腹はしのげてもわたしたちは明日にはいなくなる。このままこの先、この子たちは生き残っていけるのか。

「アイン、何かいい方法はないの?」

 今飢えている人々を救う嘘と、村全体の行く末を救う嘘。その両方を同時につくのは難しいかもしれない。ならせめて、今飢えている者だけでも救えないだろうか。

 あるいは、もう今日は終わりそうなのでひとつ嘘をついてから、日付をまたいでからもうひとつの嘘をつけば。この場合、明日は何かあっても嘘で対応することはできなくなるけれど……。

 アインは少し考えてから言った。

「うん……大丈夫。明日には、農業の伝道師がこの村で炊き出しを始めるから、腹いっぱい食べられるようになるよ」

 彼が選んだ嘘は、そんな内容だった。

 農業の伝道師がこの村に適切な農作物の種を広めてくれるよ――という嘘をつかなくても、この村の現状を農業の伝道師が見れば何とかしたくなるであろう、という必然を利用した嘘だった。

 農業の伝道師が冷たい性格なら必然とはならないかもしれないが、炊き出しに参加してくれるような伝道師なら大丈夫だろう、たぶん。

「それ本当? 本当なら、みんな助かるね!」

 兄妹は目を輝かせる。

 料理を作りながら思っていたことは、この子たちだけに料理を振舞ったことがほかの村人に知れると、この子らの立場がまずいことになるんじゃないか――というのが少し心配だったものの、明日には皆の腹が満たされるならその心配もないだろう。

 スープの入っていた鍋は空になり、わたしたちは何度も頭を下げて礼を言う兄妹に見送られて馬小屋を出る。

 最初に顔を見たときより、二人ともだいぶ血色が良くなっていたな。よろめきながらも、メムもどうしても見送るんだと言って、立ち上がってドアまで来てくれた。

 相変わらず雨は激しく冷たいけれど、胸の奥は少し温かい気がした。

 それも、闇の中に二つの人影が見えるまで。

「怪しいね」

 打ち付ける雨の中で、タウのささやきが辛うじて聞こえる。

 二人の人物は松明と傘を持っており、ひとりは黒いフード付きマントで身を包んだ男、もう一人は背の高い大柄な男性だとわかる。

 向こうは一度足を止めたあと、こちらへと近づいてきた。

「こんな夜更けに、ずいぶん綺麗な旅人さんに会うものですな」

 声が届く範囲まで近づくと掛けられた、猫なで声に総毛立つ。これは危険な奴だ。

 わたしはこの村に入る前に聞いた話を思い出す。人買いが出入りしているようだ、治安が悪くなっていると。

「……何がご用で?」

 行く手を塞がれては無視するわけにもいかず、アインが少し嫌そうに問いかける。

 男二人はさらに少し歩み寄ってきたところで足を止めた。黒マントの方は顔にしわが多く、それなりの年齢らしい。

 大男の方は軽めの金属鎧と腰に吊るした大剣で武装していて、おそらく傭兵か。

「人目もないことですし、取り繕う必要もありませんからね。あなたたちには、商品になっていただきます。ザイン、頼みますよ」

「ああ」

 それは予想していた。黒マントのことばに従い、ザインという名前らしい大男がこちらへと動き出す。

「抵抗するなよ。傷つくと、商品価値が下がるからな」

 ザインは浅黒い顔に笑みを浮かべ、そんなことを言いながら太い腕を伸ばしてくる。

 例によってわたしが操る炎は普通の炎なので、こんな豪雨の中に出すと消えてしまう。それでも、傘の下に炎の盾を作ることくらいはできる。

「あちっ、魔術師かよ!」

 ザインは伸ばしかけた手を引っ込め、今度はとなりにつかみかかろうとする。直後、彼は何かにつまずいてつんのめる。おそらくタウか。

 アインはその太い腕を左手でつかみ、右の手を相手の顔に向けた。正確には、袖口を相手に見えるように向ける形だ。

 袖口を見たいかつい顔が歪む。

「暗器か。案外、荒事慣れしてるみたいだな」

 暗器というと、隠し武器のようなもの。

 普段の彼からは想像つかない物騒な物だが、アインくらい綺麗なら、こうして危険な目に遭うこともあるだろうから備えくらいしておくか。彼の魔法は一日一回、それ以外は、自分の身を守るのに魔法ではない手段を使わなくてはいけない。

「顔に穴を空けたくないのなら、我々にかまわないでおくことだね」

 彼は日常の会話と変わりないような調子で警告する。

「とんだ商品候補だな。仕方ねえ」

 ザインは肩をすくめ、後ろを向いた。

 あきらめたのか、と思ったのは一瞬のこと。その手が腰の剣の柄に伸びるのを、わたしは見逃さなかった。

 濡れるのもかまわず、傘を前に差し出して炎の舌を伸ばす。その紅の舌は周囲の雨や水滴を蒸発させながら大剣の柄の金具を舐め、一気に温度を上昇させる。

「あっちぃ!」

 再び叫ぶザインに、アインが足払いをかけて転倒させ、待ち受けていたかのような黒猫がガリガリと爪をお見舞いした。踏んだり蹴ったりの大男は慌てて転がって離れていく。

「懲りない人だね」

 注意深く相手を眺めたまま、アイン。

「いや、参った、参った。まだ武器を隠し持っているようだし、どうやら力量を見誤ったかな。もうあきらめるよ」

 今度こそ、ザインは傘を拾ってもう一人のところへ戻る。人買いらしいもう一人の方は驚きながら成り行きを見守っていたが、同行者が戻ってくるのを見ると肩をすくめ、引き返していくところだ。

 どうにかここは切り抜けたか。

 ふう、と息を吐いて脱力する。無意識に全身にかなり力が入っていたらしい。長旅をしていると命の危険を感じることもあるし、わたしの魔法は戦闘向きなので何かと戦うような場面も多いが、今回はなかなか圧力を感じる相手だった。

「物騒な連中もうろついてるもんだね、ほんと」

 ブルブルと濡れた身体をしっかり揺らしてから、タウがアインのコートの中に戻っていく。それでも少しは濡れてしまうだろうけれど。

「村人たちが元気になったら、きっとすぐにああいう連中も追い出されるだろうさ」

 アインの言うとおり、人々の目が増えれば良からぬ者たちは動きにくくなる。皆が生活するのに困らなくなれば、ここで人買いの働く余地もなくなるだろう。

 もう誰にも妨害されることはない。木々の並ぶ外れに確認しに行くと、御者がつながれた馬を見つけていたようだった。

 犯人は馬を連れては逃げきれないと思ってか、途中で置いて逃げ、追いかけたけれど見失ってしまった――ということにした。御者は馬さえ戻ってくればいいらしく、特に詮索はされない。

 宿に戻るともう何事も起きず、汚れてしまった服を着替えて、旅日記を書き終えるとただ寝るだけだ。

 途中、何かの物音で薄く目が覚める機会はあったものの、わたしは部屋を出ずにまた眠る。

 窓の外の雨は朝まで降り続いていた。

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