10、魔術師と乾いた村(前編)

 〈火走りの谷〉――

 書物で調べたところによると、かつて火にまつわる精霊が集まっていたという。その頃には谷を見下ろすと、たまに火花のように赤い光が散るのが見えたそうだが、最近はすっかり見えなくなってしまった。それでも最近の本によると、新月の火にはいくらか火花が見えたという目撃情報があるとも書いてあったりする。

 谷は魔術師姉妹の山のふもとの町からは、いくつか町や村を越えた先にある。

 ふもとの町で青い石を売り、旅費も潤沢。途中、乗合馬車も利用しつつ移動する。移動にお金はかけたくないものの、触れてはいけない聖剣なんて早く手放したいものだ。

「一雨来そうだな。あの村で休もうか」

 黒雲が増えていく空を見上げ、布と革の紐で厳重に包まれた聖剣を懐に隠し持つ少年魔術師、アインが提案する。

 わたしたちが今乗っているのは乗合馬車ではなく、たまたま目的地が同じだった荷馬車だ。荷台には藁や水がめ、木箱がいくつか積まれている。その荷台の端にわたしたちは腰かけている。

 荷台の端の方には、数冊の本も重ねられていた。表題は『大陸内陸部の歴史』、『巨匠たちの仕事』、『勇者セヴァンティン・ニドレーの冒険』。どれも見覚えのある本だ。

 『大陸内陸部の歴史』は学校の歴史の授業で使うような本だし、この大陸の出身者なら誰でも一度は目にしているのではないか、というくらい。『巨匠たちの仕事』はシリーズもので、その中からここにあるのは、有名な陶器とその作り手、そして作り方を記述した陶器編。『勇者セヴァンティン・ニドレーの冒険』はもう百年近く前から読み継がれているくらいの、人気のある冒険物語。

「一雨と言うか、だいぶ降りそうね」

 アインにつられて見上げると、黒雲はどんどん重くなって垂れ下がってきそうだ。周囲も少しずつ暗くなってきているし。

 二頭並んだ馬の方を振り返ると、まばらに草の生えた土色の向こう、行く手に見えているのは谷への途中にある小さな村だった。小さいけれど、いくつかのお店や宿が存在することは事前に調べていた。

「いいんじゃないか、もういい時間だし」

 精霊のタウはいつも住処にしているアインのコートを離れ、荷台の一角に積まれた飼い葉らしき藁の山から顔を出している。

 馬車の主、御者のおじさんも、もともとあの村にも荷物を降ろす予定だったという。

「あの村は農民が多いんだが、今年は酷く不作でな。そろそろ備蓄も底を尽き、食糧を買える者は買っているがなかなか行き渡らないし、そもそも買うだけの財産がある者は少数だ」

 周辺の町からの支援もあるものの、すでに餓死者も出ているという。どうにもならない両親が子を売るため、人買いが出入りしているという話も――ということは、治安はあまり良くなさそうだ。

「出歩かない方がいいかもしれないね」

 アインも眉をひそめる。

 馬車は村の真ん中を突っ切る道に入っていく。

 窓や扉を締め切った家が多く、通行人の姿は少ない。たまに遠目に、草むらにかがみこんだ姿や、何かを探す様子で見回す子どもが見えた。食べられる野草とか、食料になりそうなものを探しているのか。

 この馬車が食料を積んでいることを知られると危険かもしれないとか、村に入った途端に飢えた人々に囲まれるんじゃないかと危惧していたので肩透かしだったけれども、そういう気力も体力もない村人が多そうなのは、他人事ながら少し心配だ。

 村の周囲はひたすら平野、それも土肌が多く、木々も少なく近くに川もない。土壌は豊かと本にはあったけれども、何十年かに一度、飢饉に見舞われるらしい。たぶん、天候が畑に良くない年なのだろう。

 馬車は中心部の宿の裏に止まる。ここに食糧を運んでいたらしい。宿が営業できているのも奇跡に近いのかもしれない。

 お金もあるし、この村で節約も悪い気がして、わたしたちは向かい合った二部屋を借りた。宿代は少し高いけれども、この状況では仕方がない。

「貧しい町や村に足りないのは大抵、物より知識なんだけれど、ここでは本当に物が足りてないんだね」

 窓から外を眺め、黒猫がそんなことを言う。

 わたしたちのように旅暮らしをしていればわかるけれど、自然のものを利用してお腹を満たす方法を知っていればある程度お金がなくても生きながらえる。しかし、この村の人々はそれはもう実践しているようだ。

「うーん……少し遠出して緑の多い場所に行き、自然の恵みを取って来るとかはどうかしら?」

「一般人は獣が怖いと思うよ」

 そうだ、忘れていた。我々は魔術師。一般人ではない。

「馬や牛を使って、大勢で行って大量に……は可能かもしれないけれど、あまり家畜はいないようだし」

 あくまで畑作が主な産業の村なのか、もしくはいたけどもう食料になってしまったのだろうか。

 こんな多くの農作物が全滅してしまうような年でも採れるような種類の野菜があればいいのだけれど、なかなかこういう裕福でない小さな村までは、新しい種類の種などが行き渡らない。

「野菜の伝道師みたいな人がやってくれば、もともと土壌は豊かなんだからこの村の食料事情は安定しそうなのに」

 というのがわたしの思い付きなのだけれども。

「でも、それだと今飢えている人たちは助からないんじゃない?」

「それはまあ……」

 タウの言うとおり。どんなに早くたって、野菜の収穫には一週間以上はかかるだろう。すでに餓死者も出ているような状況では、悠長過ぎるかもしれない。

 今餓死しかけている村人たちのお腹を満たし、この村の食料事情を安定させる。それを同時に行うのはさすがに無理があるか。

「あ、降ってきた」

 タウが声を上げ、つられて窓の外を見ると、パラパラと水滴が窓に当たり始めたところだ。それはすぐに、桶をひっくり返したような大雨になる。屋根を叩く音がうるさくて、普通に会話をするにも声を張らなくてはいけないくらいだ。

 そろそろ自分の部屋に戻ろうかと思ったとき、アインがぽつりと言う。

「なんだか、昔のことを思い出すね」

 その目は外の景色に向いている。

「雨の日に何か思い出でもあるの?」

 いや、と彼は首を振る。

「雨ではなくて、この状況がさ。わたしは昔は身体が弱くて、ずっと窓の外ばかり見て過ごしていたんだよ」

 へえ、と自然にそのことばを受け入れる。今もどちらかと言えば華奢な外見だし、予想外の話ではなかったから。

 いや、長旅を続けているのだから今は一般人よりも体力はあるはずなので、昔に比べると相当丈夫になったのかもしれないけれども、わたしは昔の彼を知らない。

「毎日毎日、ただ窓の外を眺めているのも退屈だったので、本をよく読んでいたんだけれど……あるとき、本棚の事典の間に見つけたんだ。叔父が旅をしていたころの日記をね」

 旅日記というのはなかなか読んでいて楽しいし、知識にもなるものだ。わたしも旅に出る前、出版されている旅日記を結構読んだ。遠い国との文化の違いに驚いたり、旅の最中に垣間見える景色を想像してみたり、時には命の危機すら迫る冒険の展開にドキドキしてみたり。

 わたしが旅日記をつけているのも、その経験が影響している。いつか誰かが日記を読んで役立ててくれると嬉しい。

 それに、日記はわたしにとっても役立つ。何かを思い出したいときの助けになるし、記録しておきたいときにメモにもなる。

「いつか旅日記の中の叔父みたいに旅をしてみたい。そう思って、旅日記の中のあちこちを旅する自分を想像しているうちに、いつの間にか魔法が使えるようになってた」

 ということは、彼の魔霊具は旅日記か。

「わたしが実現した一番大きな嘘は、こうして旅をしていることかもしれないね」

「そう、それが一番大きい嘘か……なら、一番最初についた嘘、は覚えている?」

 ふと興味が湧いて、それを訊いてみる。

 アインは少し考えこんでから口を開いた。

「最初はね、どれが魔法になったのかよくわからないんだよね。『もう野山を駆け回れるくらい元気だよ』か、『旅人に必要な体力くらいすぐに手に入れるよ』とか、その辺だと思うけれど」

 そのあたりの嘘が実現して、彼は旅ができるくらいに丈夫になった。どの嘘が原因かは不明でも、その結果は事実らしい。

「ボクと会ったのは後の話だし、ボクもわからないね」

 わたしの視線を感じたか、タウが首を振る。

 炎を操る魔法は、割とできるようになった瞬間がわかりやすい方だと思う。わたしの場合、暖炉の火の番を任されたときに気がついた。子どもにとって火の番など退屈なわけで、ふと、火を好きな形にできたら――などと考えて、指先に火を吸いつけるような感覚で動かしてみたのが最初。

 わたしが火の帯をリボンのようにクルクル操るのを見て、戻ってきた両親は腰を抜かしたものだ。

 しかしアインの場合は、魔術師になったのをなかなか認識できなさそうな魔法だ。

「それじゃあどういう切欠で、これは魔法が使えるようになったな、と思ったの?」

「言ったことが実現しているような気がするというのが何日か続いていたけれど……ああ魔法だったんだ、とはっきりと気づいたのはタウが来たときだね」

 と、黒猫の頭をなでる。

 精霊と出会わなければ、魔術師じゃなくて、運のいいちょっと不思議な旅人としての人生を歩んでいた可能性もありそうだ。

 コンコン。

 不意にドアがノックされた。応えて開けると、小さな荷車に食事の載ったトレイを並べ、宿の主人が入ってくる。

「今ある食事はこんなものしかないのですが……」

 申し訳なさそうに差し出されたトレイに載っているメニューは、豆のスープに小ぶりの丸いパンが二つ、ベーコンと野菜のソテーが少し、野苺の砂糖がけが少し。

「いやいや、旅人には充分な食事ですよ」

 わたしの分もこの部屋で受け取る。正直、宿代に対しては充分な量ではないが、この村の現在の状況からすると、高価過ぎるくらいの部類だろう。

 食べてみると、味はどれも悪くない。素朴だけれど甘みも塩気も調節されていて、食材が足りていればもっと美味しいだろうな、と想像できる。いつか、食材が充分なときにも来てみたいものだ。

 食事を終えた頃には、外は真っ暗な上、雨も激しく降り続いていた。

「明日には止めばいいのだけど。じゃあ、そろそろ戻るわね」

 夕食後の食器は廊下の荷車の上に置いておいてほしいと言われていた。わたしは自分のトレイを手に立ち上がる。

 その瞬間。

 ヒィィィ……!

「ん?」

「お……?」

 アインと目が合う。

 雨音を引き裂いて響いたのは甲高い悲鳴のような、しかし人の声ではない――馬のいななき。

「あ、誰かが馬を連れて行くよ!」

 夜目が利くタウが窓際から叫ぶ。

 馬がなければ馬車には乗れない。わたしたちは慌てて部屋を出た。再び聞こえたいななきが遠ざかっていく。

 廊下を出て間もなく、御者が部屋から飛び出してくるのに遭遇する。

「誰かに馬を盗まれた! すまないが、探すのを手伝ってくれ。馬がなきゃ身動きもとれんし、商売にならん」

 わたしたちだけなら歩いて目的地への旅を続ければいい話だけれど、もののついでと乗せてくれた恩がある。それに馬車はやっぱり楽だし速い。聖剣を早く手放すにもいい。

 宿の人が傘を貸してくれて、わたしたちは雨の中に踏み出した。傘は伸縮性のある動物の皮を張った、この大陸で一般的なもの。暗いのでわたしは傘の下に、宿の燭台の火から飛ばした火球を浮かべる。

「あっちの方に走っていったよ。盗人は引きずられていったみたい」

 タウの金色の目が月のように輝く。

「ということは、大男というわけじゃなさそうだな」

「よく見えなかったから、小さそうだね」

 タウのことばで小柄な人物らしいということはわかるけれども、視界ゼロに近いこの状況ではあまり役に立たない。

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