6、魔術師と暴れ牛(後編)

 ただ、この状態が続く限り現実のわたしは身動きも取れず無力化しているのだ。今は過去や幻よりも現実の現在の方が気になる。

 どうにか抜け出さなければ。

 幻の世界から抜け出すには、それが現実ではなく幻であると心から信じ切るといい、と本に書いてあったのを読んだ記憶があった。わたしは自分の右手の感覚に集中してみる。確かに肩があり腕があり手もそこにあり、意のままに動く。腕に吹きつける熱風の熱さは幻だろうが。

 頬をつねってみようか、と思ったけれどやめて、腕を伸ばし指先に集中してみることにした。

 ゴツゴツと冷たく固い、この記憶の中にはない感触。岩肌が確かにそこにあった。わたしの目には煙が漂うだけの空間に見えているのに。

 ――しかし、この光景はまったくの幻だ。

 岩肌を感じるまでは、どこかに強制移動させる魔法という可能性も少しはあったかもしれない。でもそうではないと確信すると、噴き上がる炎も漂う煙もぼやけて変化していく。炎の明るさとは真逆の、薄暗い坑道の出入り口の風景へ。

「うわっ!」

 声はケトのものだった。見ると、指先にタウが噛みついている。荒っぽい覚醒のさせ方だ。

 そのとなりでは、アインとティフェがロープで赤マントの魔術師を縛り上げていた。

「まったく、小賢しいヤツもいるもんだね。これだけ奪い取れば依頼完了だろうなんてさ」

 ティフェは大事そうに抱えた角を、ポンポン、と叩いた。

 聞いたところによれば、彼女は幻影に取り込まれたものの、角を引っ張る感触を覚えて反射的に相手を投げ飛ばしたのだという。

「いやー、カエルにつかまれたのかとびっくりしたよ」

 どうやら、彼女はカエルが苦手のようだ。

「こっちは、昔屋根から落ちそうになったときのことを思い出していたんだけれど」

 と、ケトは血のにじむ指先をさする。

「落ちていた方がマシだったかもしれない」

 恨みがましい目が小さな精霊を探す。黒猫はとっくに、アインのコートの袖口に戻っていた。

「小賢しい、と言えるかどうかは微妙だね。暴れ牛を退治した者は暴れ牛より強い公算が高いのだから、それなら暴れ牛を相手にした方がマシだよ。まあ、あの牛にこの魔術師の精神攻撃をしたところでそれも無意味かもしれないけれど」

 タウはいつも冷静に、容赦のないことを言う。

 黒猫が人語を話すことに少し驚いたようだが、赤マントの魔術師はムッとした顔を見せた。

 この魔術師は赤毛に茶色の目で、見たところけっこう若い。と言っても、わたしと同じか少し上くらいだろうけれど。

「若いうちに楽をしようとすると、ロクでもない大人になるぞ。路銀が必要なら警備隊の盗賊退治の仕事でも探しな」

 面倒見がいいのか、女剣士はそう声をかける。確かにこの魔術師の魔法は大勢を無傷で捕まえるような仕事には向いているだろう。

「しかしまあ、一応強盗だし、今回はしばらく臭い飯を食って反省してもらおうか」

「ここに放置するわけにもいかないしなぁ」

 そう言って、魔術師の持ち物はすべて、一度アインが預かることになる。また先ほどの魔法を使われても厄介なので、魔法の源となる魔霊具を引き離すためだ。アインの魔法が一日一回と制限されているように、大抵、破られた魔法は連発できないような制限があるけれども。

 鉱山を離れ街に戻ると、最初の行き先は警備隊の詰め所だ。そこで魔術師を引き渡し別に魔術師の持ち物も渡す。何があったのか話していると思ったより時間がかかった。

 それが終わると今度は鉱山管理組合へ。

「ありがとうございます! これでやっと仕事になります」

 受付にいた若い女性職員が満面の笑顔で頭を下げた。周囲にいたほかの職員たちの顔にも笑みがこぼれる。

 わたしたち――少なくともアインとわたしは単純に賞金狙いが大きな動機だったのだけれど、そうして喜んでもらえると、他人のためになることをして良かったな、という気分になる。

 まあ、気分がいい原因の大部分はやはりもらった賞金の重みだけれども。宿代などの出費を勘定しても、一週間くらいは余裕で暮らしていけるほどの金額だ。

「今回は助かったよ、二人とも元気でな」

「縁があれば、また」

 鉱山管理組合を出るなり、坑道で出会った二人は足を止める。

 ティフェとケトの二人は、ケトの勉強のためにいくつか寄らなければならない町があるのだという。この町で馬車を借りるための資金として今回の依頼を受けたらしい。

 正直、この二人が一緒なら旅も心強いだろうなと思う。魔法がなくても肉体のみで戦えるような人には少し憧れるし、魔術師にとって良い盾役だ。名の知れた魔術師は大抵、傭兵を雇っていたりする。

 しかし、この二人には目的がある。わたしたちが目指すのも、彼らとは違う目的地。それに、同行者が増え過ぎても動きにくくなったりするものだ。

 一人が気ままだからこその一人旅だったのに、自分の考え方の変化に少し驚く。

「そちらも気をつけてね」

「できれば、今度も競争相手じゃない形で出会いたいわね……それじゃあ、また」

 わたしの別れのことばには、ティフェは少し苦笑していた。

 今回だってもしかしたら、赤マントの魔術師の立場に彼女らや、わたしたちがいたかもしれない。性格を考えると可能性は低いかもしれないけれど、そのときの事情で立場は変わるものだ。

 わたしとアイン、アインの袖口から顔を出したタウが見送る中、束の間行動を共にした二人の旅人は、人込みの中へと消えていった。

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