1、魔術師と森の人形屋敷(前編)

 森に入って間もなく降り始めた雨足は激しくなる一方で、わたしは慎重に、かつ出来るだけ速くぬかるんだ道を歩いた。それでもどうしても、マントにいくらか泥が跳ねてくるが仕方がない。

 こんなことならもう少し昼前までいたあの町でのんびりしてくるんだった。地元の人間なら半日もせずに抜けられる森だと聞いたから、頑張ればあの山並みの向こうの黒雲がやってくる前に抜けられるはずだ――そんな風に考えたのが甘かった。後悔先に立たず。

 陽が落ちるにはまだ時間があったはずなのに、日光を厚い雲で閉ざされた周囲はもうまるで夜のようだ。待っていたところでこの雨も闇もそう簡単には消えそうもなく、時間をかけては身体が冷えるだけ。できるだけ早く抜けるしかない。

 雨が目に入らないよう、下を向いたままひたすら歩く。土肌がむき出しの道はもうどこまでが水溜まりかわからないほどグチャグチャで、ブーツでなければ靴の中まで泥水にまみれていただろう。

 視界が悪いので、たまに道と木々の根元の境目すらわからなくなる。時折立ち止まり顔を上げて、刺々しい木々の合間に見える行く手を確認する必要があった。

「お」

 何度目か顔を上げたとき、飛び込んできた白い点に、思わず声が洩れる。

不気味に蠢く木々の葉の向こうに、確かに窓の明かりらしきものがあった。そうだ、今まですっかり忘れていたけれど、この森の中には屋敷があると聞いていたのだった。

 目的地を変える。間もなく見えてきた分かれ道を、真っ直ぐではなく横に折れよう。見ず知らずの旅人を助ける義理はなくとも、軒先でしばらく雨を避けることくらい許してくれる人は多いはず。

 幹の太い木の横を抜けて、道を曲がるとさらに足を速めたそのとき。

「あっ」

 急に視界が周囲の闇より濃い黒一色になり、転びそうになるものの、なんとか踏ん張って耐える。もうすっかり濡れているとはいえ、泥水の中に顔から飛び込むのは勘弁だ。

 顔を上げると、誰かの背中にぶつかりそうになったことを理解する。

「ごめんなさい」

 反射的に謝る。紺色のマントとローブという自分の格好を棚に上げ、でもこの闇の中で黒いコートに帽子は見逃しても仕方がない――と、八つ当たり気味に相手を睨むと、黒づくめには不釣り合いな肩にかかる亜麻色の髪と空色の目の明るさに驚く。一瞬、かわいらしい少女のようにも見える綺麗で中性的な容姿の少年。

「いや、こちらこそ。そちらも、あの屋敷を目指しているのかい?」

 気分を害した様子もなく、彼は落ち着いた口調で問う。

「ええ、雨宿りでもさせてもらえればと」

 話しながらもう、二人とも歩き出している。どちらもとっくにびしょ濡れで、動いていないと寒いし早く屋敷に辿り着きたい。

「奇遇だね。まあ、この雨、しばらく止みそうもないから」

 もう雨は、声を張り上げないと聞こえないほど強く打ち付けてくる。さらに、空の向こうから光が閃く。雷すら鳴り出したか。

 雷鳴に追い立てられるように小走りになりながら近づく屋敷へ向かう。すると、閃く稲光の中に人影が見えた。同じように雨宿りを求める旅人がもう一人いるらしい。背中に背負った大荷物からして行商人だろうか。

 間もなく、屋敷の全容がはっきりと見えてきた。二階建ての石造りの屋敷は石垣に囲まれているが門は開け放たれ、小さな階段の上の玄関口には三角屋根がある。

 屋根、とはこの状況下でなんと魅力的なことばだろうか。

「ああ、魔術師さん方も雨宿りですか」

 追いつくと、先を行っていた男は笑みを見せる。鼻の下に髭を生やし頭に緑の帽子、ポケットのたくさんついたベストに背中の荷物。やはり商人のようだ。

「ああ、さっきそこで出会ってね」

 すでに、三段の階段を登って屋根の下に入ったところ。少年が久々の雨の当たらない空間に息を吐きながら応じる。

「でもわかるもんなんだね、魔術師って」

 魔術師。魔法を使う者。

 多くの人々の思念、あるいは強い思念を受けた物は魔力を帯び、その持ち主にひとつだけ魔法を与える〈魔霊具〉となることがある。その魔法を使いこなす者が魔術師と呼ばれた。魔力の源となる魔霊具を身に着け、大抵は、その魔霊具にまつわる魔法を使う。

 わたしもまた、魔霊具を肌身離さず持っている。

「お二人とも厚着されていますし、それに」

 と、商人はある方向を指さす。

「ペットを連れて旅する一般人は少ないですから」

 少年の黒いコートの袖口から、黒く長い尻尾らしきものが見えていた。暗くて今まで気づかなかった。

 尻尾が引っ込むと袖はモゾモゾ動き、黒猫がひょっこり顔を出す。金色の目が夜空の月のように目立つ。

 そして。

「そりゃ、ボクはペットじゃないからね」

 猫は口を開き、はっきりとそう喋った。

「おお……話には聞いたことがありますが、精霊ですか」

 商人は目を丸くする。

 精霊は、魔力の強い魔霊具に惹かれて現われることがあるという。わたしは精霊を何体か見たことがあるが、人語を解するものは初めてだ。

「アインの助手、タウだよ。アインには言語補助が必要だからね」

 アイン、という名らしい黒いコートの少年が、笑って黒猫の頭を撫でる。

 別にことばが不自由なわけでもなまりがあるわけでもなさそうなのに、言語補助が必要、とはどういうことだろうか。もしかして、彼が使う魔法に関わるのか。

 魔法は魔術師それぞれで違うし、魔霊具を壊されたり奪われたりすると、魔術師は魔法を失う。だから、多くの魔術師は魔霊具の所在や自分の魔法の本質を知られることを嫌う。あまり詮索しない方がいいかもしれない。

「これは、珍しいものを見ましたねえ。お礼にお安くしておきますよ。これも何かの縁、いかがです?」

 商人は背中の荷物を降ろし、石畳の上に広げ始めた。商人自身はすっかり濡れているのに、種類の違う布に二重に包まれていた中身までは雨も至っていない。

 品物は大体、日用品や小道具が多い。ナイフやコンパス、地図、写真立てや何種類かの留め金、羽根ペンとインク、ロープや鎖、ノミといった工具が何種類も。それに――火打石やマッチなど。

「あいにく、わたしは文無しだよ」

 少年はそう言って、コートのポケットを左右とも出して見せる。

 言うとおり中身には何も入っておらず、砂か何かの屑がパラパラと落ちただけ。さらにコートの中の裾の短めのローブの懐から、小さな箱をひとつ取り出す。

「これは持っているんだけどね」

 と、手のひらに載せたその箱にわたしは釘付けになる。

 その箱は他の面とは色の違う横の面が特徴的で、すぐに何なのかはわかる。似たような物が目の前にあるし。

「マッチ……そんな高価な物だけは持ってるのね」

 そう、少なくともこの大陸ではマッチは高価なのだ。

 一般家庭で火が必要なときは、火を絶やさない鍛冶屋や神殿などから分けてもらってくるか、火打石を使う。

 わたしも火打石を持っているが、これを使うのは得意じゃない。酷いときは十回以上も打ち合わせないと火がつけられない。石がもともと使い古しのもらい物なせいもあるだろうけれど。

 いつか、マッチを常備できるようになるのがわたしの夢のひとつ。

「ただのもらい物だよ。わたしはこれより、食べ物の方が嬉しい。もう二日も何も食べていないよ」

「では、温かいスープでもいかがでしょうか」

 突然の低い男の声に振り向くと、屋敷の扉が少し開いた隙間から、身なりのきっちりとした長身の男が覗いていた。口髭も刈り込んだ焦げ茶色の髪も、いかにも上品そうに整えられている。

「昼食の余りのパンも良ければお付けしますよ」

 それは、わたしたちにとって願ってもない申し出だった。


 暖炉の火には薪がくべられ、並んだ椅子に濡れた上着が干されていた。わたしたちは乾いた布で頭を拭き、身に着けた服の冷たさもさほど気にならなくなると、テーブルに用意された食事に手を付ける。

 メニューは豆とキノコのスープ、細長いパンと杏子のジャム、さらにハムエッグまで並べられていた。

「こんなご馳走、久々だよ」

 アインは満面の笑顔でスプーンですくったスープを口に運ぶが、わたしはこの至れり尽くせりぶりに少し気が引けた。もしや、何か罠でもあるのではないかとすら思う。

 あの執事が言うには、「困った旅人には親切に、というのが旅好きだった先代主人からの方針ですし、料理は余ると捨ててしまうので」とのことだけれども。

 執事は、食事も早々に終えて商売を始めた商人と話をしていた。この屋敷のように人里離れた場所に住む者にこそ、店から来てくれる行商人というのは重宝されるものだ。

「確かに、ここしばらくの食事に比べればかなりのご馳走だね。最後の食事なんて、腐りかけの芋団子ひとつだったし」

 黒猫のタウはアインが差し出したスプーンからスープをひと舐めしたものの、口には合わなかったのか、顔を背けてテーブルの上で丸くなっている。精霊はもともと、食事を必要としない。

 丸くなったまま、黒猫は金色の目をこちらに向ける。

「お嬢さんはなんていうのさ、名前。それくらい教えてくれてもいいだろう?」

 その目に何もかも見透かされそうで、その声も幼い少年のようなのに熟練者の落ち着きをはらんでいるように聞こえて、少しドキッとした。

「そうね……わたしはレシュ。炎を操る魔術師よ」

 わたしは炎を自在に操ることができる。火力を変える、形や大きさを変える、炎から火の球を生み出し飛ばす、炎を吹きつける、炎を消すこともできる。唯一できないのは、火のないところに火を作り出すこと。それがわたしの最大の弱点だ。

「なるほど。それでマッチね。まあ、この屋敷にいる間は不自由することはなさそうだけれど」

「いやあ、よかったよかった」

 執事が部屋を出たのを切っ掛けに戻ってきた商人が、タウのことばを遮って席に戻る。

 執事はテーブルの端に、呼び出し用のベルを残して行っている。ここのとなりの部屋にメイドの休憩室でもあるのだろう。

「たくさん売れたの?」

 ジャムを付けたパンの切れ端を手に、アインが笑顔の商人に問う。のんびりと食後の温かいハーブティーをすする商人の笑みは、喜びと言うより安堵に近い。

「売れたのはロウソク三本と果物ナイフくらいですが、ここへ来る前に訪れた街で、奇妙なウワサを聞いていたもので。いや、あれはやはり、ただの根も葉もないウワサに過ぎなかったようです。少し心配していましたが、よかったよかった」

「奇妙なウワサって?」

「ここの屋敷の主は、気に入った旅人を人形にして自分のコレクションに加えてしまうとか」

 朗らかな商人のことばに、しかしわたしたちは、一瞬動きを止めて沈黙した。今のところ、この屋敷に怪しい部分はない。ただ、長く旅をしていると似たような話をいくつも見たり聞いたり体験したりするものだ。

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