6 好き

 あれから三か月が経過した。自殺未遂の翌日、花梨はセシルの強い要望で会社を辞め、別の職場で働くこととなった。それは驚くことに音楽教室の受付である。

 楽譜や音源を買い求め、音楽を習う生徒たちと触れ合いも多い上、講師との打ち合わせも多い。何かと人付き合いがある職場だった。


 だが、そういった人との触れ合いも今の花梨には苦ではなかった。彼女はセシルの魔法によって、過去のトラウマを克服し、普通に人と接することができるようになったのである。

 もう花梨は三か月前の彼女ではない。おどおどとした態度、人との接触を避ける臆病な彼女はいなくなっていた。


 仕事を終えた花梨は上機嫌なまま帰宅した。片手にはケーキの箱を持って。


「ただいまー」

「お疲れ様、カリン。仕事で疲れてない?」

「ううん、ちっとも。働きがいがあって、毎日が充実しているよ」


 セシルの気遣いに感謝しつつ、彼女はさっそく紅茶を用意し、箱の中からケーキを取り出した。

 セシルはショートケーキが大好物なのである。そこで花梨は、お土産にケーキを買ってきたのだ。


 今や二人は大親友──いや、それどころか花梨は、天使のような顔をした少年、セシルという同居人がすっかり好きになっていた。

 二人の間に年の差という壁はある。それに、花梨は単なる人間で、相手は妖精。それでも、花梨は彼のことを愛おしいと思わずにはいられなかった。年の差、種族の違いからくる背徳感を覚えながらも。


 ケーキと紅茶を口にしながら、二人は他愛もない話をする。セシルは知識が豊富で、ユーモアを交えた言葉をぽんぽんと花梨に投げかける。それを頷きながら、聞き手に回るのが花梨だった。


 その後、花梨の手作り料理を二人で食べ、また会話に花を咲かせる。いつの間にか二十三時を回っていた。


「明日も仕事だし、そろそろ眠りましょうか? セシル」

「う、うん。そうだね……」


 セシルは歯切れ悪く俯いた。およそ、陽気な彼らしくもない仕草である。


「どうしたの、セシル? 何かあった?」

「え、と……あのさ、カリン。聞いて欲しいんだけど……」

「何かな?」


 花梨は平静を装っていたが、心臓が高鳴っていた。セシルの態度から嫌な予感を抱いたのだ。


「あのさ……このオルゴールは、世界に二つあってさ……」

「そうなんだ。それは初耳ね」

「で、話なんだけど。もう一つのオルゴールを持っている女の子が、とても悩んでいるみたいなんだ。だから僕、その子のところに行かなきゃいけないんだ」

「……その女の子がいるところはどこなの?」

「アメリカ。カリフォルニア」


 セシルはおずおず口にした。一方の花梨は動揺を隠せず、目を見開いている。


「いや! 行かないで、セシル! そんな遠いところに行ったら、一生あなたと会えなくなっちゃう!」


 花梨はセシルに思い切り抱きついた。


「それは僕だって! カリンと離れたくないよ。でも、その女の子は悩んで、とても傷ついているんだ。昔のカリンみたく、ね……」


 セシルは表情を曇らせていた。同じく、彼の胸中も鈍色にびいろの空のようだった。


「でも……私、あなたと離れたくない!」

「ごめんね、カリン。だけど、僕は行くよ」


 セシルは抱きついている花梨の腕をそっと外した。


「好きなの!」

「え?」


 セシルは目を丸くする。


「セシル。私はあなたのことが好きで好きでたまらないのよ!」

「はは……そうだったんだ……」


 セシルは悲しげに笑った。そうしてから、呪文を唱え始めた。

 この呪文はきっと転移の呪文なのだと、花梨は感じ取った。どうしても行かせたくなかった彼女は、セシルに必死になってしがみつく。


「僕もね、カリンのことを好きだよ……」


 そう呟いて、花梨の腕の中からセシルは消えた。彼は現れたときと同じように、煙のように消えてしまった。


 花梨はセシルを抱いていたその腕で、そのまま己自身を抱きしめた。大きな瞳から大粒の涙を流しながら。


「セシル……セシル──!」


 花梨は思わず叫んでしまった。だが、その叫びはセシルがいなくなったワンルームに空しく響くのみだった。

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