4 絶望

 あれから三月ほど時が過ぎた。

 ハローワークの紹介で、障害者雇用を積極的に行っている会社に、花梨は就職することができたのだった。


 事務作業の裏方を手伝う仕事。その職務を彼女は全うしていた。

 花梨は、あのパレードの夜から、人への恐怖心が段々と薄らいでいった。その点に関しては、セシルに感謝しなければいけない。


 今日の仕事が終わりに近づいた頃、総務課の女性が来て、花梨に給料明細書を手渡してくれた。


「この一か月、よく頑張ってくれたわね、水落さん」

「あ、ありがとうございます」


 花梨は明細書を受け取り、感激した。まだ会社の人との距離感が掴めないが、それでも彼女は懸命に一か月働いてきた。その働きが認められたのだと思うと感慨深いものがあった。


 そして、定時になり仕事を上がる。

 女子更衣室で着替えを済ませ、給湯室の前まで来ると、女性同士の話し声が聞こえてきた。ふと自分の名前が聞こえたような気がして、花梨は足を止めた。


「ったく、あの水落って奴。使えない癖に、しっかり給料もらってんの」

「だよねー。私たちに話しかけてくるときも、はっきりしなくてさ。何言ってんのか聞き取れないって」

「全く、うちの会社もあんな使えない人材をよく雇ったもんだよ」

「それは障害者雇用すると、国から支援をもらえるからでしょ。じゃなきゃ、誰があんな奴雇うっていうの」

「だよねー。それよりもさ、もっと気に入らないことがあってさ」

「なになに?」

「うちの男性社員たちが、すっかり水落にのぼせちゃって。顔だけいい女ってめっちゃむかつくわ」

「仕事はできないけど、男を釣るのは大得意ですっていう典型?」

「それねー。あー、水落超最悪」


 そこまで女子社員の陰口を聞いて、花梨は耳を覆った。顔が泣きそうに歪む。彼女は踵を返し、給湯室とは反対側の階段へと駆けていった。


 そのまま帰宅するも、満員電車の車内は耐えるのが苦痛だった。あのパレードの夜以来、対人恐怖症の症状は薄れてきたと思っていたが、今日は全く駄目だった。

 花梨はぶり返したかのように、また人が怖くなってしまった。


 駅から出て、あの雑貨店の前を行く。

 オーナーが花梨に気づき、慌てて外に出て、彼女の背中に声をかけたが、それは届かなかった。今の花梨は他人を気に掛けている余裕すら失われていた。


 花梨は帰宅すると、オルゴールのねじを巻き、蓋を開けてセシルを呼び出すのだが、今日はそうすることもなかった。あの明るくて親しいセシルでさえも、今日に限っては会いたいという気力が消え失せていた。

 そして、彼女は自虐的な笑みを浮かべた。


「なあんだ。私、頑張っていたと思っていたけど、全然そうじゃなかったんだね。やっぱり私って、社会に不要な人間だったんだ」


 面白くも何もないのに、乾いた笑い声を上げる。絶望が花梨の心を漆黒の闇へと突き落としていた。


 花梨は立ち上がって、薬箱に手を伸ばし、医師から処方されている睡眠薬を出した。軽度の不眠症でもある彼女は、眠れないときのために睡眠薬を持っていた。その用途以外で使うときが来てしまったのが給料日であったとは、なんとも皮肉な話ではあるが。


「これでこの世ともお別れね……」


 花梨は持っていた睡眠薬を、水を注いだグラスを傾けて飲み干した。処方通りの錠数の睡眠薬を飲まない結果は知れている。


「でも、いいの。もう私には希望がないから……」


 独りごち、花梨は薬を飲み下していく。

 しばらくして全ての睡眠薬を飲んでしまった。花梨はテーブルの上に突っ伏す。


「ごめんね、お母さん。それと……」


 そこでちらりとチェストの上に置かれているオルゴールに目を向ける。


「それと、セシル。ごめんね……」


 そう口にしてから、テーブルの上で瞳を閉じた。このままなら、花梨の命は失われることとなる。

 しかし、この部屋には誰もいない。──いや、正確にはセシルという存在がいるのだが、彼はオルゴールを鳴らさない限り、そこから出てくることは叶わない。

 もはや、花梨の命は消え去ろうとしていた。

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