第19話 再びの日常

 皇帝陛下と直接話をするという、下女上がりの侍女では到底起こり得ない経験をしてから半月が経った。「きっと罰を与えられるんだろうなぁ」と一応覚悟をしたものの、いまのところ呼び出されたり首を言い渡されたりはしていない。しばらく戦々恐々としていた弘徳こうとく様もすっかりいつもどおりに戻っている。


(いつもどおりじゃないのは応竜宮の置かれた状況のほうか)


 皇帝陛下に会ってから三日後、台所にあった食器がすべて新品になった。どうやって使うのかわからない食器類までピカピカになっている。食材では卵が増えて、それを弘徳こうとく様が持ち帰っては秘伝の香辛料を使った煮卵にしていた。虹淳コウシュン様の新しい服も作っている最中らしいから、そのうち連絡が来るに違いない。


(皇帝陛下が何か言ったらしいけど、たったそれだけでこんなに変わるなんてね)


 だからといって虹淳コウシュン様が応竜宮にいることは公にはできない。このままの状態にしておくのが得策だと弘徳こうとく様も話していた。


(たしかに見せ物にされるのは嫌だしなぁ)


 本物の竜妃様がいるとわかったら、侍女どころか妃や宦官たちまで見に来るだろう。それが虹淳コウシュン様にどんな影響を与えるかわからないうちは、そういう状況は作らないほうがいい。


(それに、いまの虹淳コウシュン様を見たら皇帝陛下にお渡りを勧める宦官も出てきそうだし)


 皇帝陛下の話では周囲の人たちはそれを求めているように聞こえた。そうできない理由を知っている人たちが少ないこともわかった。それなら、いままでどおり虹淳コウシュン様はいないことにしておいたほうがいい。そう思いながらニコニコと食事をしている虹淳コウシュン様を見る。

 今日も虹淳コウシュン様は煮卵に夢中だ。煮卵が入った小振りな壺に自ら手を突っ込んで、一つずつおいしそうに食べている。壺の脇には筆と紙があり、紙には薄墨で色づけされた楕円形がいくつも描かれていた。おそらく煮卵を描いたのだろう。

 そのくらい煮卵を気に入った虹淳コウシュン様は、壺ごと出すようになった弘徳こうとく様にもすっかり懐いていた。いまでは弘徳こうとく様に近寄って「卵、ありがとう」と微笑むまでになっている。


(でもって、それを見た弘徳こうとく様が歓喜するまでがお決まり、と)


 テーブルのそばで肩を振るわせながら感動している弘徳こうとく様の頭を見た。感動のあまり、つい俯いてしまうらしい。そろそろ鼻血を噴くかもしれないなぁと思いつつ、手を拭くための手巾を壺のそばに置いた。ついでにとコップに水を注いだところで「忘れるところでした」という弘徳こうとく様の声が聞こえてくる。


阿繰あくり虹淳コウシュン様の新しい衣装が届いたそうですよ」


 振り返ると、眼鏡を掛け直している弘徳こうとく様がこちらを見ていた。目元が赤いということは今日も嬉し涙が止まらなかったに違いない。「相変わらずへんた……変わった人だな」と思いながら「じゃあ、ちょっと取りに行ってきます」と答える。


「わたしもこれから書庫に行く予定なのですが……」


 弘徳こうとく様がちらりと虹淳コウシュン様を見た。一人にしても大丈夫か心配なのだろう。

 これまでも虹淳コウシュン様が一人きりになることはよくあった。侍女がわたし一人しかいないのだから仕方ない。弘徳こうとく様もそのことを知っているのに心配顔になるのは、皇帝陛下の話をわたしが伝えたからだ。


「大丈夫ですって。それに応竜宮には近づかないように皇帝陛下が再度お触れを出してくださったんですよね? それなら侍女や下女は近づかないでしょうし、宦官だって近づかないんじゃないですか?」

「たしかにそうですが」

虹淳コウシュン様は庭に出ることもないですし、いままでと違うことをするほうが周りから余計な詮索をされると思います」

「……それもそうですね」


 弘徳こうとく様が眼鏡を押し上げながら小さく頷く。


(わたしも心配しないわけじゃないけど、一番の心配事は虹淳コウシュン様が何も知らないことのほうなんだよね)


 知らなければ身を守ることもできない。かといって、いまの虹淳コウシュン様にあれこれ話したところで理解できるとも思えなかった。そもそも元が蛇だというのだから、人間のことをどこまで理解しているのかもわからない。


(一番理解できなさそうなのは男女のあれこれについてだろうなぁ)


 手づかみで煮卵を食べる様子は、とても高貴な妃には見えない。そんな虹淳コウシュン様に後宮の話や行儀作法の話をしても理解できないだろう。


(っていうか、こんな食事の仕方でも美少女に見えるのはすごいかも)


「竜妃は必ず人心を惑わす姿になる」という皇帝陛下の言葉を思い出した。たしかにこれほどの美少女なら周囲を惑わすだろうし、宦官も思い通りになりそうな気がする。


「そんな虹淳コウシュン様を利用すれば、わたしでさえ偉くなれそうな気がする」


 思わずつぶやいた言葉に自分で身震いした。何かとんでもなく恐ろしいことを思ってしまった気がする。


阿繰あくり、どうかしましたか?」

「何でもありません。じゃあわたし、宦官の詰め所まで行ってきます」

「今日は禁書の一部を読めることになりましたから、何かわかったら夕方知らせにきます」

「わかりました」


 弘徳こうとく様を見送り、虹淳コウシュン様には「食べ終わったらこれで手を拭いて、卵の絵をたくさん描いていてください」と言って部屋を出た。扉を閉める直前、虹淳コウシュン様が右手をひらひらと振っているのを見てわたしも振り返す。


(ああいう仕草はわたしを見て覚えたんだろうな)


 いつの間にかするようになった仕草のほとんどは、きっとわたしを真似ているに違いない。「何だか小さな子どもみたいだ」と、近所にいた子どもたちのことを思い出した。


(そっか、それならちゃんと教えてくれる人がいれば意外と理解してくれるのかも)


 そんなことに気づいてもどうしようもない。虹淳コウシュン様は存在しないことになっているのだから、あれこれ教えてくれる人を招くわけにはいかない。学者宦官の弘徳こうとく様に教えてもらうという手もあるけれど、虹淳コウシュン様の前ではきっと役に立たないだろう。


(とくに男女のことなんて童貞っぽい弘徳こうとく様に教えられるとは思えないし)


 そんなことを考えながら応竜宮の門を出て建物の角を曲がったときだった。


「ぅわっ」


 勢いよく走ってきた誰かとぶつかりそうになった。慌てて避けたおかげで倒れずに済んだものの、相手はうまく避けられなかったらしく派手に尻もちをついている。


「すみません、大丈夫ですか?」

「いえ、こちらこそごめんなさい」

「わたしは平気ですけど……って、あの!」


 差し出した手を無視するかのように、ぶつかった人は大慌てで走り去ってしまった。身なりからどこかの宮の侍女かと思ったけれど、走り去る姿は貴族出身の侍女には見えない。


(もしかして下女……ってことは、さすがにないか)


 下女と侍女では着ている服が違う。身分が低い侍女でも下女よりは質のいい服を着ているし、ぶつかった人はそれよりずっといい格好をしていた。


「……あれ?」


 侍女が倒れていたあたりに何か落ちている。拾うとべっ甲の花飾りがついた簪だった。


(あんまり見たことがない形の花だな)


 桃の花のように見えなくもないけれど、それより花びらが多く複雑な形をしている。それに簪に巻きつくように彫られた部分には棘のようなものもあった。おそらく異国の地に咲く花に違いない。


(さっきの侍女の落とし物かな)


 そうだとしたら、きっと大事なものだろう。

 後宮の妃は帝国各地からやって来る。中にはかつて異国と呼ばれていた場所の貴族のお姫様もいるため、妃に仕える侍女には異国人もいた。そうした人たちは故郷を忘れないために、たとえばこうした簪や刺繍の入った服など故郷に馴染み深いものを身につけると聞いている。

 わたしが努めていた鳳凰宮の朱妃様は南方に住む貴族出身ということで、お付きの上級侍女たちには異国人や異国の血を引いた人たちが何人もいた。麒麟宮の黄妃様も西方出身だそうだから上級侍女には西方の人たちが混じっているに違いない。

 さっきの侍女もそういう異国出身の人だったのだろう。それならこの簪は身内が用意してくれた大切なものに違いない。そう思い、懐から手巾を取り出し丁寧に包んだ。


(宦官の詰め所に預ければ届けてくれるかな)


 そう思っていたのに、詰め所で虹淳コウシュン様の新しい服を見た途端にぶつかったことなど綺麗さっぱり吹き飛んだ。あまりの豪華さに「皇帝陛下のひと言ってすごいんだな」と改めて実感し、応竜宮に戻ったところで簪のことを思い出し「しまった」とため息が漏れた。

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