第13話 人影

 虹淳コウシュン様に名前を呼んでもらってからというもの、弘徳こうとく様はよく煮卵を持ってくるようになった。虹淳コウシュン様の好物がゆで卵だとわかったからだろう。それに好物と一緒なら自分を覚えてくれるのではと考えたに違いない。


(いまじゃ煮卵が一番の好物になったみたいだしね)


 初めて煮卵を見たとき、虹淳コウシュン様は「何だこれ」というような顔をした。わたしが作るのはただのゆで卵だから、黒い見た目に卵だとは思わなかったのかもしれない。そんな虹淳コウシュン様だったけれど一口食べた途端に目を見開き、すぐさま満面の笑みを浮かべた。

 それ以来、香辛料とお茶の香りが漂う煮卵を見ただけで目を赤くするようになった。我慢できないのか赤い目の部分がきゅうっと細くなることもある。そんな虹淳コウシュン様を見た弘徳こうとく様が「あぁ!」と歓喜の声を上げるまでが一連の流れだ。


弘徳こうとく様、もういいですか?」


 今日も頬を赤らめながら喜びに震えている背中に声をかける。


「……失礼しました。それで、応竜宮の近くで人影を見たという話でしたか」


 虹淳コウシュン様が満面の笑みを浮かべながら煮卵を食べているのを横目で見つつ、二人で廊下に出た。


「はい。最初は気のせいかと思ってたんですけど、四度も見かければさすがに違うんじゃないかと思って」


 少し前から建物の近くで人影を見るようになった。服装まではわからないけれど、毎回似たような背格好に見えるから同じ人物に違いない。

 一度目は偶然だった。虹淳コウシュン様の服を整理しようと衣装部屋に向かう途中の廊下で気がついた。


(門に近いところだったし、あのときはてっきりよその宮の人が覗いてるものだと思ってたんだよね)


 わたしが応竜宮に居続けるのを不思議に思って覗きに来たに違いない。「また変な噂でも立てられるんだろうな」なんてため息も出た。

 二度目も偶然で、昼餉の膳を虹淳コウシュン様の部屋に運ぶ途中で気がついた。あのときも噂を聞いた誰かが覗きに来たのだとばかり思っていた。


(でも、さすがに中庭にまで入られたら気にしないわけにはいかないし)


 三度目は虹淳コウシュン様の部屋に近い廊下を歩いているときに気がついた。人影が見えた東屋は端のほうとはいえ中庭にある。「もしかして虹淳コウシュン様の部屋に段々近づいてきてるんじゃ」ということに気づき、弘徳こうとく様に相談することにした。

 そして四度目の昨日は、三度目のときよりさらに虹淳コウシュン様の部屋に近い庭の木の影にいた。それで虹淳コウシュン様を覗き見ようとしているのだと確信した。


「応竜宮にやって来る者はまずいません。新年に向けた掃除はまだ先ですし、わたし以外の宦官がやって来ることもないはずです」

「そういえば、弘徳こうとく様は何て言ってここに来てるんですか?」


 いまさらだけれど気になって尋ねてみた。すると眼鏡をクイッと押し上げた弘徳こうとく様が「伝え忘れていましたが」と言いながらキリッした顔をする。


「このたび、正式に竜妃様付きの宦官になりました」

「竜妃様付き……?」

「といっても、竜妃様が降臨されたときのために必要な事柄を文書にまとめる、というのが主な仕事ですが」


 つまり記録係ということだろうか。


弘徳こうとく様にぴったりの仕事だと思います」

「当然です。後宮で竜妃様のことにもっとも精通しているのはわたしですからね」


 どうだと言わんばかりに胸を張られても困る。わたしより十も年上の弘徳こうとく様を「偉いですね」なんて褒めるわけにもいかない。


「竜妃様付きになったおかげで禁書の一部を見る権限を得ましたが、詳細な記録はやはり奥にしまわれているようです。いまの立場では奥まで見ることはできませんから、ここが限界かもしれません」

「よっぽど隠したい何かがあるんですかね」

「おそらくは」


 弘徳こうとく様がため息をついた。


「応竜宮は相変わらず放置に近い状態です。そんな状況で新しい侍女がやって来ることはまずありません。そもそも、あなたのように行けといわれて素直に来る侍女もいません。応竜宮に行けということは首だと言っているのも同然ですからね」

「素直に来てしまってすみませんね」

「おかげで本物の竜妃様に出会えたのですから、わたしはあなたが単純かつ素直な人でよかったと思っていますよ」


 にこりと笑う弘徳こうとく様に若干ムッとしながら、それじゃあの人影は誰なんだろうと考えた。考えたところでわたしにわかるはずがない。だからこうして弘徳こうとく様に相談することにしたのだ。


「侍女や下女だけでなく、後宮に出入りするすべての人間を記録しているのも宦官です。もし後宮外から来た誰かであっても名簿に記載があるでしょうから、調べてみましょう」

「お願いします」

「わたしとしても虹淳コウシュン様に害が及ぶかもしれない出来事を放置するわけにはいきませんからね」


 そう言って鼻息も荒く宣言した弘徳こうとく様は、五日後に神妙な面持ちで応竜宮にやって来た。気のせいでなければ何となく顔色もよくない。いつもなら煮卵が入った小さな壺を持ってソワソワしているのに、肝心の煮卵すら持っていなかった。


弘徳こうとく様、人影が誰かわかったんですか?」


 台所の出入り口で難しい顔をしている弘徳こうとく様に声をかける。いつもならスラスラと話し始めるのに「わかったにはわかったんですが……」と珍しく口ごもった。どうしたのだろうと近づくと「おそらくそうではないかという推測なんですが」と、さらに言いよどむ。


「推測?」

「わたしではあまりに管轄が違いすぎて、これ以上確かめることができないのです。しかし、おそらく間違いないかと……」


 弘徳こうとく様でも調べられないということは、あの人影はかなり身分の高い人だったということになる。

 後宮でもっとも身分が高いのは四人の妃だ。妃の側近である上級侍女も地位が高く、大抵は貴族の娘が担っている。それ以外の偉い人と言えば宦官だろう。後宮で妃に意見できるのは一部の宦官だけだから、そういった地位の宦官が関わっているのかもしれない。


「もしかして虹淳コウシュン様にとってよくない人だったんですか?」


 そう言うと弘徳こうとく様の眉が寄った。


「よくないと言えばよくないでしょうし、さもありなんと言えばそうとしか言いようがありません」

「あぁもう、弘徳こうとく様、はっきり話してください」


 そもそもわたしは難しいことを考えるのが苦手なのだ。思わせぶりな言葉から予想したりなんてこともできない。下っ端下女として二年ちょっとしか後宮で働いていないわたしに、雲の上の人たちの事情や駆け引きなんてわかるはずもなかった。


弘徳こうとく様」


 ぐいっと近づいて睨むように見上げる。わたしの態度に、ようやく弘徳こうとく様が観念したような顔をした。眼鏡をクイッと押し上げながら「あくまでもわたしの推測ですが」と口を開く。


「あなたが見かけた人影というのは、おそらく陛下だと思われます」

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