第12話 竜妃様の好物

 虹淳コウシュン様に好物の食べ物ができた。これまで桃が一番だと思っていたけれど、どうやら最初に食べた衝撃的なものというだけだったらしい。いまではすっかり新しい好物に夢中で、毎日その絵ばかり描いている。


「といっても、ただの丸にしか見えないけど」


 わたしの独り言に虹淳コウシュン様が「まる?」と言いながら顔を上げた。


「まるじゃなくて、たまご」

「わかってますよ」

「たまごが、三つ」


 紙には楕円形の丸が三つ描かれている。朝餉に出したゆで卵に違いない。


(出したゆで卵は一つだったけどね)


 ちなみに卵料理よりもゆで卵のほうが好みらしい。前にかき玉汁を出したらひどく残念な顔をされてしまった。


「じゃあ、昼餉にはゆで卵を三つ用意しますね」


 そう告げると虹淳コウシュン様の顔がパァッと明るくなった。

 食事を取るようになったからか、顔だけでなく全身の肌つやがよくなった気がする。おかげでますます美少女らしくなってきた。すっかり見慣れたわたしでさえ不意打ちの笑顔に胸を射貫かれてしまうくらいだ。


(やっぱりどこからどう見ても美少女だよね)


 わたしのつたない一つ結びの髪型でさえ美少女らしさをかもし出している。「もっと似合う結い方を調べるべきかな」なんて思いながら、新しく届いた墨と紙を棚に並べた。この紙と墨は虹淳コウシュン様の絵に使われるのだけれど、高価な紙をそんなことに使っていいのかいまだに気にはなっている。


(まぁ、妃が使うんだから別にいいか)


 そもそもこうして届くということは誰も気にしていないに違いない。


(それにしても好物が卵なんて、丸っきり蛇みたいだなぁ)


 やっぱり竜の前が蛇だったことに関係しているんだろうか。蛇は卵を丸呑みすると言うし、そう考えると納得はできる。

 いまの虹淳コウシュン様から蛇だった姿は想像できない。でも本人がそう言っているのだし、あの目を見たら「蛇っていうのもわかる気がする」と心底思った。


(あれは間違いなく人の目じゃなかった)


 初めてゆで卵を出したときはいつもと変わらない目をしていた。ところが二度目にゆで卵を出したときは明らかに人じゃない目になっていた。いわゆる黒目と呼ばれるところが真っ赤に変わり、そのままきゅうっと縦長になったのだ。

 あれで長い舌がシュルシュル出たら蛇……にはさすがに見えないにしても、蛇に取り憑かれた少女と呼んでもおかしくない。もしくは蛇の化身だ。


(竜と蛇って似てる気がするし、竜の目もあんなだってことかな)


 絵に描かれている竜は、手はあるものの蛇と同じ細長い体をしている。目の色や鱗の有無はわからないけれど、きっと虹淳コウシュン様はそういう竜なのだろう。しかも美少女に化けられる竜だ。


(そういう意味でも皇帝陛下に見られないようにしないと)


 もし美少女になった虹淳コウシュン様を見たらお渡りが始まってしまうかもしれない。いろんな意味でそれだけは避けたかった。


 トントン。


 扉を叩く音がした。声をかけてくれれば入ってかまわないと話をしたのに律儀な人だなとため息が漏れる。


弘徳こうとく様、入って大丈夫ですよ」

「……いえ、それはできません」


 入室の許可をもらおうとしたところで虹淳コウシュン様は返事をしない。だから無意味なのだと何度も説明したのに、弘徳こうとく様は相変わらず扉を叩くだけで入って来ようとしなかった。「真面目な人だなぁ」と思いながら扉に近づき勢いよく開ける。


「ほかに侍女がいるわけでもないんですから入ってくればいいじゃないですか。それに弘徳こうとく様は宦官なんですし、妃の部屋に出入りしてもおかしくないと思うんですけど」


 面倒くさくて、ついつっけんどんな言い方になってしまった。そんなわたしに弘徳こうとく様は「竜妃様の部屋に入るなんて」となぜか目元を赤くしている。


「すでに一回入ってますよね」

「あれはまだ竜妃様だとわかっていなかったときです」

「それでも一度入っているんだし、気にする必要なんてないんじゃないですか?」

「いいえ、いけません。竜妃様の部屋に入るなんて畏れ多い」

「鱗の肌まで見たくせに何言ってるんですか」


 途端に弘徳こうとく様の顔が真っ赤になった。丸きり初心な反応にため息が漏れそうになる。


(二十六歳だって聞いたけど、この人いつ宦官になったんだろう)


 一度は学者になったということは、大人になってから宦官になったのかもしれない。それなのにここまで初心な反応はちょっと珍しい気がする。


(……もしかしなくても童貞ってやつかな)


 弘徳こうとく様が聞けば顔を真っ赤にして怒り出しそうなことを思いながら、まだ眼鏡をクイクイ上げている姿を生温かい目で見る。


「たまご?」


 不意に虹淳コウシュン様の声がした。振り返ると筆を止めてこちらをじっと見ている。もしかして弘徳こうとく様がゆで卵を持って来たと思ったんだろうか。


「ゆで卵ではなく、こちらは宦官の弘徳こうとく様です」


 じぃっとこちらを見ていた黒目が興味を失ったように紙に戻った。同じ説明を四度しているけれど、きっと覚えていないに違いない。


「……まだ覚えていただけていないんですね」


 弘徳こうとく様を見ると、ひどく落ち込んでいるような顔をしている。


「気にしないほうがいいですよ。虹淳コウシュン様は周りのことに興味がないんです。たぶんわたしのことも桃とゆで卵を運んでくる人くらいにしか思ってません」

「十分認識されているじゃないですか」

「最初に桃を食べさせたからですかね。たぶん鳥の雛と一緒ですよ。最初に見たものを親だと思うっていう、あれです」

「つまりあなたは竜妃様の親鳥というわけですか。……羨ましい」


 やっぱり面倒くさい人だなと思った。普段は理路整然としていて仕事ができる宦官なのに、虹淳コウシュン様のことになると途端にこんなふうになる。

 そんなに認識してもらいたいのなら、遠慮なんかしないで部屋に入ってくればいいのだ。それなのにいまだに入室を頑なに拒否するのも面倒くさい。


(いっそのこと、わたしみたいに名前で呼べば少しは変わるかもしれないのに……って、そっか、その手があった)


 ふと思いついたことだけれど我ながらいい考えだと思った。思い返せば、わたしも虹淳コウシュン様と呼ぶようになってから距離が近づいたような気がする。同じことを弘徳こうとく様もやればいいんじゃないだろうか。


弘徳こうとく様、一つ提案があります」

「提案?」

虹淳コウシュン様に存在を認識してもらういい方法を思いつきました」

「認識……」


 また目元がうっすら赤くなった。あんなに遠慮するのに認識はされたいなんて、弘徳こうとく様はやっぱりちょっと面倒くさい。


「竜妃様というのは鳳凰宮の朱妃様のように公の呼び名ですよね? ずっとそう呼ばれていたなら別でしょうけど、誰にも呼ばれなかった名前で呼ばれても自分だとわからないと思うんです。しかも応竜宮に住む妃は全員竜妃様なんて、もはや個人名なんて関係ないですし」

「つまり、本来の名前でお呼びするべきということですか?」

「無理にとは言いませんけど」

「……さすがに不敬すぎやしませんか?」

「だから、無理にとは言ってません」


 真面目な顔でうんうん悩んでいるけれど、右手で覆っている口元がにやけているのは見えている。そんなに呼びたいのならさっさと呼べばいいのに、やっぱり面倒くさい人だ。


「わたしがお呼びしてもいいんでしょうか」

「気にしないと思いますよ」


 いい意味でも悪い意味でも虹淳コウシュン様は気にしない。


「……あー……こう、こう、ううん」

虹淳コウシュン様です」

「わかっています。……虹淳コウシュン様」


 口にした途端にまた口元を右手で覆った。しかも今度は首まで赤くしている。「なんだ、その恋する乙女みたいな反応は」と思いつつ虹淳コウシュン様を見た。


(へぇ、意外だ)


 さすがに一度目で反応はしないんじゃないかと思ったけれど、筆を止めてじぃっとこちらを見ている。


虹淳コウシュン様、こちらは宦官の弘徳こうとく様です」

「……かんがん」


 違う、覚えてほしいのはそっちじゃない。


虹淳コウシュン様が毎日食べている卵を用意してくれている弘徳こうとく様です」


 卵と言った途端に黒目がじわりと赤色に変わった。細くはなっていないものの明らかに人とは違う様子になっている。

 慌てて弘徳こうとく様を見た。目を見開いてはいるものの恐れているような表情はしていない。むしろ目を潤ませながら興奮しているような感じだ。


「こうとく?」

「あぁ……!」


 名前を呼ばれた途端に弘徳こうとく様が膝から崩れ落ちた。そのまま眼鏡を外し袖で目元を覆っている。耳を澄ませば「竜妃様に名を呼んでいただいたぞ……!」と感極まっているような声が聞こえてきた。


(やっぱり変態かもしれない)


 そんな失礼なことを思いながら「よかったですね」と弘徳こうとく様に声をかけた。

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